集団的自衛権の行使容認のための安全保障法制の審議が現在国会で行われているが、安倍首相や自民党幹部らは集団的自衛権の行使容認の論拠として、1959年の「砂川事件」判決を持ち出している。
その「砂川判決」とは一体どういうものだったのか。
その元となった「砂川基地」事件とは、1955~57年に東京都北多摩郡砂川町(現立川市)における米軍立川飛行場拡張反対闘争をめぐる事件を指す。当時の政府が防衛分担金削減を条件に米空軍基地拡張要求をのみ、1955年地元に接収の意向を伝えるが、砂川町ではただちに基地拡張反対同盟を結成し、町をあげての反対闘争体制を整えた。当時、日本国内各地で起きていた基地闘争の天王山といわれた。
1956年10月の強制測量は武装警官2000人余、反対派6000人余が衝突する闘争の峠となり、政府は測量中止を発表する。その後の1957年7月に、基地拡張に反対するデモ隊のうちの7名が基地内に1時間、4.5mほど立ち入ったとして、「安保条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」違反で起訴された。
この裁判では、安保条約による米軍の駐留は憲法9条2項の「戦力」として違憲になるかが争点になった。
この訴訟で59年3月30日東京地方裁判所は、9条の解釈は憲法の理念を十分考慮してなされなければならないとし、「安保条約締結の事情その他から現実的に考慮すれば…、かかる米軍の駐留を日本政府が許容していることは、指揮権の有無・出動義務の有無にかかわらず、9条2項前段の戦力不保持に違反し、米軍駐留は憲法上その存在を許すべからざるものである。」と判示した。
この判決は裁判長の名前をとって「伊達判決」と呼ばれる。
この判決は、翌年の1960年に安保条約を改定する準備を進めていた日米両政府にとって大きな打撃となった。そのため政府は、高裁を飛び越して最高裁に異例の飛躍上告を行い、最高裁もスピード判決でこれに応じた。
最高裁判所(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)は、1959年12月16日、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し地裁に差し戻した(63年12月有罪確定)。
これを受けて、1960年1月には、日米両政府によって新安保条約が調印された。
この時の最高裁判決が今日「砂川判決」と呼ばれている。
しかし、その後に機密指定を解除されたアメリカ側公文書を日本側の研究者やジャーナリストが分析したことにより、「砂川判決」がどのような背景と経緯から作成されたのかが、2008年から2013年にかけて新たな事実が次々に判明している。
以下に、WiKipediaから該当箇所を引用する。
【東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談したりするなどの介入を行なっていた。跳躍上告を促したのは、通常の控訴では訴訟が長引き、1960年に予定されていた条約改定(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約から日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約へ)に反対する社会党などの「非武装中立を唱える左翼勢力を益するだけ」という理由からだった。そのため、1959年中に(米軍合憲の)判決を出させるよう要求したのである。これについて、同事件の元被告人の一人が、日本側における関連情報の開示を最高裁・外務省・内閣府の3者に対し請求したが、3者はいずれも「記録が残されていない」などとして非開示決定。不服申立に対し外務省は「関連文書」の存在を認め、2010年4月2日、藤山外相とマッカーサー大使が1959年4月におこなった会談についての文書を公開した。
また田中自身が、マッカーサー大使と面会した際に「伊達判決は全くの誤り」と一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが明らかになった。ジャーナリストの末浪靖司がアメリカ国立公文書記録管理局で公文書分析をして得た結論によれば、この田中判決はジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官による“日本国以外によって維持され使用される軍事基地の存在は、日本国憲法第9条の範囲内であって、日本の軍隊または「戦力」の保持にはあたらない”という理論により導き出されたものだという。当該文書によれば、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートに対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに…それ(駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている。古川純専修大学名誉教授は、田中の上記補足意見に対して、「このような現実政治追随的見解は論外」と断じており、また、憲法学者で早稲田大学教授の水島朝穂は、判決が既定の方針だったことや日程が漏らされていたことに「司法権の独立を揺るがすもの。ここまで対米追従がされていたかと唖然とする」とコメントしている。】
「砂川判決」の裁判長だった田中耕太郎は戦後に文部大臣を務め、閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である。
上の文書のも出ている田中長官とマッカーサー大使との密談で特に重要なのは判決の前月に行われたもので、内容はマ大使から国務長官宛の公用書簡により明らかになっている。
田中長官より米国大使への説明の概要は以下の通り。
①判決を出すタイムリミットを来年の初めまでと通報。
②評議において15人の裁判官の観点が手続上、法律上、憲法上の三つに分かれていることを通報。
③東京地裁の「伊達判決」をくつがえすという通報。
④その逆転判決は15人の裁判官の全員一致が望ましいという見解。
⑤「米軍駐留は合憲」というお墨付きを与える判決にすることへの示唆。
⑥「伊達判決」への敵意の表明。
そして判決は田中の言う通りになった。
最高裁長官が裁判の一方の当事者といえるアメリカの大使に、判決の事前にこうした事を報告していたのだ。
あまり軽々に「売国奴」という言葉は使いたくないが、田中耕太郎こそ「売国の裁判官」と言うしかない。
この田中長官の言動はまた、裁判所法第75条「評議の秘密」に明らかに違反している。憲法の番人たる最高裁のトップにあるまじき行為として糾弾されねばならない。
こうした売国の「砂川判決」にしがみつくしか自己を正当化できないのが現在の安倍政権であるのは、象徴的だと言える。
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