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2022/02/21

【赤木さん裁判】裁判で真実が明らかになるとは限らない

森友学園問題で公文書の書き換えを命じられ、自死した財務省近畿財務局の元職員赤木俊夫さんの妻雅子さんが起こした裁判が、実質的な審理に入らないまま終結した。昨年12月15日に、被告の国が雅子さん側の言い分を認め、請求された約1億700万円全額を支払うと表明したためだ。
遺族としては、賠償金が目的ではなく、夫が死に至った真相を知りたいとの思いから提訴したものでだった。国の「認諾」により、関係者の証人尋問などは行われずに終わった。
雅子さんの悔しい気持ちはよく分かるが、裁判を通して真実が明らかになるとは限らない。
これは民事、刑事裁判で共通だが、原告・被告双方が証拠や証言をもとに主張をぶつけあい、裁判官が判決をくだすが、真実が明らかにならなかった事例も少なくない。

今世紀に入ってから日本で起きた主な凶悪事件は、次の通り。
①2001年におきた「大阪教育大付属池田小学高事件」、宅間守が学校に侵入し、児童8人を殺害、児童と教職員15人を負傷させたもの。死刑判決をう受けて被告は控訴したが、その後取り下げたため、一審で死刑が確定した。
②2008年に起きた「秋葉原無差別殺傷事件」、加藤智大が外神田交差点に車で突っ込み、さらに車からおりて刃物で倒れていた人を刺すなどして、7人を殺害、10人に重軽傷を負わせた。裁判は最高裁まで争われ、2015年に死刑が確定した。
③2016年に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」、植松聖が「津久井やまゆり園」に侵入し、刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。2020年に一審で死刑判決を言い渡され、控訴を取り下げたことで死刑が確定した。
④2018年に起きた「京都アニメーション放火事件」、容疑者・青葉真司がアニメ制作会社「京都アニメーション」の第1スタジオに侵入し、ガソリンを撒いて放火したことで建物は全焼、社員36人が死亡し33人が重軽傷を負った。容疑者も重傷を負ったため回復を待ち、2020年に起訴されたが初公判の時期も未定。
⑤2021年に起きた「大阪市北新地ビル放火事件」、男がビル4階の「働く人の西梅田こころとからだのクリニック」に侵入して放火、26名が死亡し2名が負傷した。容疑者は谷本盛雄と断定されたが、死亡したため書類送検となった。
①と③については1審で死刑が確定してしてしまった。②については最高裁まで争い死刑が確定したが、被告は判決に納得せず再審請求を行っている。
いずれの事件も真相が明らかになっておらず、メディアも事件の背景を「心の闇」とか「孤独感、孤立感」といった抽象的な解釈で済ませている感がある。
この様に、もともと裁判制度は真実を明らかにすることを目的としたものではない。
今回の赤木さん裁判の結果も、制度の限界を示したものだ。

 

【訂正とお詫び】当初の投稿に一部誤りがあり、訂正しました。

2021/08/22

日本の司法制度の闇を映す「強姦冤罪事件」

再審の判決が出たのは7年前であり、それほど大きな反響をよんだ事件でもなかったので、忘れた人も多かったと思られるが、日本の司法制度の闇を映す冤罪事件として、又これからも起こりうる事件として注目したい。
『Business Journal』の河合幹雄氏の記事を参考に、事件の顛末を追ってゆきたい。
事件が起きたのは2008年で、当時65歳だった男性が、自身の養女である14歳の少女を2004年と2008年に強姦したという、少女本人の証言によって逮捕、起訴された。この少女は、男性の妻の連れ子(女性)の娘、つまり男性にとっては孫娘に当たるが、2005年に男性の養女となったという複雑な環境にあった。男性は捜査や裁判で一貫して容疑を否認したものの、少女やその兄の証言が決め手となって、2011年に最高裁で懲役12年の実刑判決が確定した。
ところが男性が服役しているさなかの2014年、少女が「証言はウソだった」と弁護士に告白し、兄も証言が虚偽だったことを認めた。さらに、少女が事件直後に受診していた医療機関において、性的被害の痕跡がなかったことや、実際には被害を受けていないという少女の発言の記載されたカルテが存在することも判明。虚偽の証言による冤罪であったことが明らかとなり、男性は釈放された。
その後、2015年の再審判決公判で無罪が確定した。逮捕、起訴されてから無罪が確定するまで7年を要した。
なぜこうした冤罪を生んでしまったのか。
第一は検察の考えられないミスだ。検察官が、14歳の少女がありもしない強姦被害等をでっち上げるまでして養父を告訴すること自体非常に考えにくいと勝手に解釈し、少女やその兄の証言を鵜呑みにしていたからだ。そのため、大事な証拠となる少女の診察記録を調べなかったか、あるいは隠蔽したのか、いずれにしろ検察の重大なミスだ。
第二は、裁判官の姿勢だ。この事件の裁判官は、検察と同様、少女の虚偽の証言に基づく検察の描いた事件のストーリーをまったく疑うことなく、有罪判決を下してしまった。それも地裁、高裁、最高裁のいずれも揃って誤った有罪判決を下したのだ。
この背景には、日本の刑事裁判においては、しばしば検察の主張はほぼ自動的にそのまま採用されてしまう。検察が起訴したら、裁判所はそれに対してほとんど異を唱えず、99.9%以上の率で有罪判決を下しているのが現実だ。極論すれば、日本の刑事裁判で人間を裁いているのは、事実上、裁判所ではなく検察なのだ。
本件では、男性が、過去に少女の母親と性的関係を持っていたという事実も裁判官の心証を悪くした可能性がある。それと、証言のみを鵜呑みにして証拠調べを怠ったという姿勢は、裁判官としてあるまじき態度だ。

無罪が確定した男性とその妻は、冤罪によって受けた精神的苦痛に対する国と大阪府の責任を追及すべく、国家賠償請求訴訟を起こした。ところが大阪地裁は、「起訴や判決が違法だったとは認められない」として、男性側の請求をすべて棄却した。
前項に記したように、この冤罪は検察と裁判所の完全なミスが原因であり、それによって男性は長期間刑務所に入れられ、物心両面で多大な損害を被ったのですから、国が賠償責任を負うのは当然と思える。
国家賠償の定義だが、国家賠償法第1条において、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」と規定されている。
ところが、最高裁の判例では、
「違法行為があったとして国の損害賠償責任が認められるためには、裁判官が違法または不当な目的をもって裁判をしたなど、付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認め得るような特別の事情がある場合でなければならない」
「各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があったときは、検察官の公訴の堤起および追行は違法行為に当たらない」
としている。
つまり、「検察官や裁判官が、悪いことをしようという明確な意図のもとに行ったことでなければ、国家が賠償する必要のある違法行為には当たらない」という判断だ。今回もこの判断に基づき、男性側の請求は棄却されたことになる。
しかし、本件の様に検察官と裁判官の明らかなミスで冤罪を生んだケースでは、国家賠償が適用されるべきだろう。
この事件全体を見るに、刑事事件に対する司法の在り方に、一石を投ずるものだ。

2020/04/20

警察官の偽証は罪に問われない!【書評】「裁判の非情と人情」

原田國男「裁判の非情と人情」 (岩波新書2017/2/22初版)
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著者の原田國男は40年間司法の仕事にかかわり、その多くは刑事事件の裁判官を勤めた経歴を持つ。
本書は裁判所や裁判官の日常を、時にユーモラスに時に鋭く描かれ、私たちが日常知り得ない姿が紹介されていて興味深く読んだ。
元は月刊誌「世界」に連載されたもので、エッセー風の読みやすい文章になっている。
読後感が良いのは著者の人柄もあるだろうが、何より著者が裁判官という仕事に誇りと愛情を持っているからだ。
司法の現状を衝くときも大きく拳を振り上げることなく静かに語っている。
中身についていくつか印象に残っている問題を以下に紹介する。

著者が韓国に視察に行ったとき、韓国で2007年に偽証罪で有罪になった人数は1544人で、この事を大変恥じていた。同じ年の日本では4人だった。これだけ見ると日本国民は清廉潔白で偽証などしないと見られるが、果たしてそうだろうか。
日本の検察はよっぽど明らかにない限り、偽証の起訴は控えているようだ。著者が高裁の裁判官として、偽証で起訴されたのは3件4名だが、これさえ異常な数字だそうだ。
特に警察官の偽証は起訴しない。それなら裁判官が告発すればいいのだが、それもしない。かくして警察官の偽証は闇から闇へ葬られるのだ。
私見だが、こうした検察の体質がいま問題となっている森友学園の文書改ざんに対する不起訴にもつながっていると思う。つまり日本の検察は体制側の不法行為は罪に問わないのだ。

著者は高裁裁判官時代に、逆転無罪判決を20件以上出しているが、これはかなり特異なケースという。
無罪判判決を出すと世論から叩かれることもある。
無罪判決を続出させると出世に響く、これも残念ながら事実だと著者は書いている。
だからといって、無罪の人を有罪にする裁判官はいないと著者は断じている(そう信じたい)。

袴田事件、氷見事件、足利事件、東電OL殺害事件と冤罪事件が続いた。なかには別の真犯人が見つかった事件もあり、こうした事を繰り返させない様な努力が裁判所にも求められる筈だ。処が、そうした動きが全く無いそうだ。
どうやら司法権の独立というのを勘違いして解釈しているとしか思えない。
これまで、このような検討は「全国裁判官懇話会」を中心に行われ、自由で活発な議論が進められてきた。処が、最高裁がこの懇話会を敵視し排除した。  
例えば、有罪を多く出す裁判官が優秀だと評価されたり、無罪を出す裁判官はおかしな裁判官だと当局も、さらには国民も考えてきたのではないか。
こういう問題だけでも十分に議論すべきだろうと著者は主張している。

裁判はシロかクロかをはっきりさせる所ではなく、クロかそうでないかを明らかにする所だ。
裁判官は判決を言い渡す時に、被告の更生を常に頭に置いている。
少年犯罪で厳罰を求める世論があるが、裁判官は非行少年が立ち直ったケースも沢山見ているので、その視点が違う。
などなど、まだまだ本書には重要な問題が数多くとりあげらているので、興味のある方は是非お手に取ってご覧ください。

 

2020/03/02

「裁判官」の市民感覚

月刊誌「図書」3月号に、元裁判官で弁護士の原田國男著「物書き出世せず」という記事が掲載されている。これは司法の世界では若い裁判官が法律雑誌に論文などを発表すると出世できないと戒めたものらしい。そんな暇があるなら判決書の作成に専念せよという意味のようだ。しかし最近はそうした風潮も変わってきて、若い判事補が立派な学術論文を書いているとのこと。
論文だけでなく、SNSの時代にあって裁判官も一市民として発信することが許されるかという問題も生じてくる。

その点に関して記事では「岡田基一事件」を採り上げている。
事案は次のようなものだ。
ゴールデンレトリバーの飼い主が、雨のなか犬を公園に一晩中つなぎぱなしにしていた。翌日、雨で泥まみれになった犬を発見した人が、連絡先を書いた紙を残し自宅に連れ帰り、3か月近く飼育していた。
処が、犬の所在を知りながら3か月近く放置していた飼い主がから、犬の返還要求を受けたというものだ。
裁判所はこの請求を認めた。
これに対して関口高裁判事が、ツイートでこの飼い主に対して「あなた?この犬を捨てたんでしょ?3か月も放置しておきながら・・・」t書いたことが、飼い主の感情を傷つけ、裁判官の「品位を辱める行状」にあたるというもの。
最高裁は「戒告」の懲戒処分を決定した。

この件について著者は、岡田裁判官が以前にも、別件の女子高生殺人事件について遺族の気持ちを逆なでするようなツイートをしたことがあり、とても同情する気になれないとしている。
法曹界でもこの結論に対しては意見が分かれているようだ。
ただ言えることは、本件によって裁判官の社会への発言が完全に封じられることになったと著者は言う。
この最高裁の決定に異議を唱えたり是非を論じる裁判官は皆無であり、元々そのような自由はないのだと。

著者は、最高裁がこうした結論を出すのは十分に予測できていたが、興味は全員一致ではなく反対意見が出るかどうかだった。しかし反対意見は無く、3名の裁判官から補足意見があった。
それは、前記の遺族の気持ちを逆なでするようなツイートの方がより悪質で、それ自体が懲戒に値するとしたうえで、犬の件はいわば「last straw」として懲戒処分とするというもの。
註)「last straw」とは、ラクダが限界一杯に荷を背負っている時に、麦わら1本を加えただけで背骨が折れてしまうこと。限界を超えさせるものの例え。
この補足意見は、反対意見にもう一歩だったと著者は言う。

この最高裁の決定について賛成する側の意見として、木谷明元元裁判官の意見が引用されている。
「裁判官は午後5時過ぎても裁判官であって、普通の市民と全く同じ私人ということはできないと思います」
しかし、と著者は言う。
寅さんの映画で、司法試験受験の苦学生の口を通して、山田監督はこう言わせている。
「いやしくも、人の生命と自由と財産を守るべき裁判官と弁護士は、豊かな教養とのびやかな精神の持ち主でなければならない」
「豊かな教養とのびやかな精神」は裁判官にとって不可欠だ。なぜなら裁判は人を裁くからだ。いくら法律論に長けていても、これが無ければ良い裁判ができないと著者は締めくくっている。

ところで、先の犬の裁判の件ですが、愛犬家の方はどう思われますか?

2015/12/18

【産経記者無罪判決】第三者告発の恐ろしさ

韓国の朴槿恵(パククネ)大統領の名誉を記事で傷つけたとして罪に問われた産経新聞の加藤達也前ソウル支局長に対し、ソウル中央地裁は12月17日、無罪判決(求刑懲役1年6カ月)を言い渡した。李東根(イドングン)裁判長は判決公判の冒頭、韓国外交省が文書を提出し、日本側が善処を求めていることに配慮してほしいと要請してきたことを明らかにした。
判決では大統領としての朴氏について、「うわさを報道されることがあっても言論の自由は幅広く認められなければならない」とし、名誉毀損(きそん)罪は成立しないとした。一方で、私人としての朴氏の名誉は傷つけたと認めた。ただ、記事が「韓国の政治、社会状況を伝えようとしていた」として、名誉を傷つける意図はなかったと認定した。
随分と奥歯にものの挟まった言い方だ。
無罪判決自体は、ここ数か月、ネットでも産経の記事が韓国政府に配慮していると指摘していて(他紙がいっせいに韓国政府を批判する記事を出していたのに産経だけが沈黙していた等)、産経-韓国政府間で取引があったのではという憶測が出ていたので、ある程度予測はされていた。

無罪は当然であり、元々が起訴すること自体が間違っていた。加藤達也前ソウル支局長が書いた記事の肝心な部分は朝鮮日報からの引用だ。その元記事が問題とされず転載された記事だけが起訴されたのは韓国独特の法律によるものだ。
韓国の国内法では名誉棄損については被害者本人以外の第三者が告発できる事になっている。今回の告発は朴大統領自身ではなく市民団体による告発で、これを受けて検察が起訴したものだ。
ここで私たちが考えておかねばならないのは、いま著作権や性犯罪に関して被害者以外が告発できる制度が検討されているという点だ。もしこうした事が法制化されれば、第三者が自由に相手を告発できる様になる。もし不起訴や無罪になったとしても告発されただけで本人の名誉が傷つけられ事は明らかだ。相手方を名誉棄損で訴えても裁判に長い期間がかかり、世間的には告発されたという事実だけが残されてしまう。
著作権や性犯罪の第三者告発という法制度改正は大きな危険性をはらんでいることを指摘しておきたい。

判決で注目すべきは「裁判長は判決公判の冒頭、韓国外交省が文書を提出し、日本側が善処を求めていることに配慮してほしいと要請してきたことを明らかにした」という点だ。
これは司法自らが三権分立を否定したわけで、裁判官の意図が計りかねる。
もっとも政府による司法への介入はわが国でも珍しい事ではなく、米国政府の方針をそのまま反映させた「砂川判決」などはその典型だ。ただ日本の裁判官は決してそういう事は言わないが。

この判決を受けての熊坂隆光産経新聞社長の声明についてだが、「裁判所に敬意を表する」とはまた随分と卑屈な言い方だ。ここは加藤達也が会見で語ったように「無罪判決は当然」とすべきだろう。
「加藤前支局長の当該コラムに大統領を誹謗中傷する意図は毛頭なく」もウソでしょう。だって何かというと韓国を貶め、日韓両国関係を悪化させるのは産経の「社是」ではなかったか。当該コラムもその文脈からアリアリだ。しかしそれは飽くまで言論の自由の範囲であることは言うまでもないけど。

2015/11/28

「菊地直子への無罪判決」から「公正な裁判」について考える

オウム真理教が1995年に起こした東京都庁郵便小包爆発事件で、爆薬の原料を運んだとして殺人未遂幇助などの罪に問われた元信徒・菊地直子被告(43)の控訴審判決が11月27日東京高裁であった。大島隆明裁判長は「被告に犯行を助ける意思があったと認めるには合理的な疑いが残る」と述べ、懲役5年とした一審・東京地裁の裁判員裁判による判決を破棄し、被告を無罪とした。
昨年6月の一審判決は、被告が事件前に「劇物」などと記された薬品を運んでいたことなどから、「人の殺傷に使われる危険性を認識していた」と認定。爆発物取締罰則違反の幇助罪の成立は認めなかったが、殺人未遂の幇助罪は成立するとした。
しかし、この日の高裁判決は「危険な物であっても、直ちにテロの手段として用いられると想起することは困難」と指摘。被告は教団幹部ではなく、他の一般信徒と同様に教団の指示や説明に従うしかない立場だったことなどから、「教団が大規模なテロを計画していると知っていたとは言えない」と述べた。
一審では教団元幹部の井上嘉浩死刑囚(45)が法廷で証言し、当時の被告とのやりとりから「テロの計画を被告は理解していると思った」などと語った。一審判決はこれらの証言を有罪の根拠の一つとしていたが、高裁は「多くの人が当時の記憶があいまいになっているなか、証言は不自然に詳細かつ具体的だ」と述べ、証言は信用できないと判断した。
菊地被告は1995年に警察庁から特別手配され、2012年6月に警視庁により逮捕された。特別手配中の被告と同居していた男性(44)は、犯人蔵匿などの罪で執行猶予付きの有罪判決を受けている。

この裁判の争点は、菊地被告が爆発物の原料であることを知っていて運搬していたかどうかだ。一審では菊地被告が認識していたという判断だったが、高裁は被告にはそうした認識はなかったと判断した。
その違いは、証人の井上嘉浩死刑囚の証言が信用できるかどうかが分かれ道になっていた。都庁郵便小包爆発事件は井上が計画したもので、主犯である井上の証言は決定的といえる。井上は既に死刑が確定しており、司法取引は考えにくい。そうした所から一審では信用がおけるとしたのだろう。
これに対して高裁では、井上証言があまりに詳細で具体的過ぎるから信用できないと真逆の判断をした。

また、一審が裁判人裁判だったことから、この制度の意味が問われることになる。
これを機に、制度の廃止を考えた方が良いだろう。

菊地直子被告は17年間逃走した理由については、「出頭すれば真実が曲げられると思った」と説明していた。私はこれこそが今回の無罪判決の大きなポイントだと見ている。
もしこの裁判が事件のおきた20年前の直後であったら、菊地は間違いなく有罪だったろう。当時はオウムの関係者であれば、微罪であってもかなり厳しい判決が下された。
一連のオウム真理教の事件は単なる刑事事件ではない。政府の転覆を謀ったという公安案件だった。だから他の刑事事件と比較しても量刑は厳しかった。また世論もオウムに対しては厳刑を求めていた。
しかし、20年経った今では、そうした空気は薄れている。菊地の裁判でも「疑わしきは被告人の利益に」という刑事事件の裁判の原則が守られたと見てよい。
見方を変えれば菊地直子の「逃げ得」という結果になった。
裁判の行方を左右する要因として、
・政府(政権)の意向
・世間の空気
がある事は否定できない。
この度の判決から、「公正な裁判」とは何か、それは実現可能なのか、という問題を改めて考えさせられた。

2015/07/06

「砂川判決」を下した売国の裁判官

集団的自衛権の行使容認のための安全保障法制の審議が現在国会で行われているが、安倍首相や自民党幹部らは集団的自衛権の行使容認の論拠として、1959年の「砂川事件」判決を持ち出している。
その「砂川判決」とは一体どういうものだったのか。

その元となった「砂川基地」事件とは、1955~57年に東京都北多摩郡砂川町(現立川市)における米軍立川飛行場拡張反対闘争をめぐる事件を指す。当時の政府が防衛分担金削減を条件に米空軍基地拡張要求をのみ、1955年地元に接収の意向を伝えるが、砂川町ではただちに基地拡張反対同盟を結成し、町をあげての反対闘争体制を整えた。当時、日本国内各地で起きていた基地闘争の天王山といわれた。
1956年10月の強制測量は武装警官2000人余、反対派6000人余が衝突する闘争の峠となり、政府は測量中止を発表する。その後の1957年7月に、基地拡張に反対するデモ隊のうちの7名が基地内に1時間、4.5mほど立ち入ったとして、「安保条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」違反で起訴された。

この裁判では、安保条約による米軍の駐留は憲法9条2項の「戦力」として違憲になるかが争点になった。
この訴訟で59年3月30日東京地方裁判所は、9条の解釈は憲法の理念を十分考慮してなされなければならないとし、「安保条約締結の事情その他から現実的に考慮すれば…、かかる米軍の駐留を日本政府が許容していることは、指揮権の有無・出動義務の有無にかかわらず、9条2項前段の戦力不保持に違反し、米軍駐留は憲法上その存在を許すべからざるものである。」と判示した。
この判決は裁判長の名前をとって「伊達判決」と呼ばれる。

この判決は、翌年の1960年に安保条約を改定する準備を進めていた日米両政府にとって大きな打撃となった。そのため政府は、高裁を飛び越して最高裁に異例の飛躍上告を行い、最高裁もスピード判決でこれに応じた。
最高裁判所(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)は、1959年12月16日、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し地裁に差し戻した(63年12月有罪確定)。
これを受けて、1960年1月には、日米両政府によって新安保条約が調印された。
この時の最高裁判決が今日「砂川判決」と呼ばれている。

しかし、その後に機密指定を解除されたアメリカ側公文書を日本側の研究者やジャーナリストが分析したことにより、「砂川判決」がどのような背景と経緯から作成されたのかが、2008年から2013年にかけて新たな事実が次々に判明している。
以下に、WiKipediaから該当箇所を引用する。

【東京地裁の「米軍駐留は憲法違反」との判決を受けて当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世が、同判決の破棄を狙って外務大臣藤山愛一郎に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官・田中と密談したりするなどの介入を行なっていた。跳躍上告を促したのは、通常の控訴では訴訟が長引き、1960年に予定されていた条約改定(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約から日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約へ)に反対する社会党などの「非武装中立を唱える左翼勢力を益するだけ」という理由からだった。そのため、1959年中に(米軍合憲の)判決を出させるよう要求したのである。これについて、同事件の元被告人の一人が、日本側における関連情報の開示を最高裁・外務省・内閣府の3者に対し請求したが、3者はいずれも「記録が残されていない」などとして非開示決定。不服申立に対し外務省は「関連文書」の存在を認め、2010年4月2日、藤山外相とマッカーサー大使が1959年4月におこなった会談についての文書を公開した。

また田中自身が、マッカーサー大使と面会した際に「伊達判決は全くの誤り」と一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが明らかになった。ジャーナリストの末浪靖司がアメリカ国立公文書記録管理局で公文書分析をして得た結論によれば、この田中判決はジョン・B・ハワード国務長官特別補佐官による“日本国以外によって維持され使用される軍事基地の存在は、日本国憲法第9条の範囲内であって、日本の軍隊または「戦力」の保持にはあたらない”という理論により導き出されたものだという。当該文書によれば、田中は駐日首席公使ウィリアム・レンハートに対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに…それ(駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている。古川純専修大学名誉教授は、田中の上記補足意見に対して、「このような現実政治追随的見解は論外」と断じており、また、憲法学者で早稲田大学教授の水島朝穂は、判決が既定の方針だったことや日程が漏らされていたことに「司法権の独立を揺るがすもの。ここまで対米追従がされていたかと唖然とする」とコメントしている。】

「砂川判決」の裁判長だった田中耕太郎は戦後に文部大臣を務め、閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である。
上の文書のも出ている田中長官とマッカーサー大使との密談で特に重要なのは判決の前月に行われたもので、内容はマ大使から国務長官宛の公用書簡により明らかになっている。
田中長官より米国大使への説明の概要は以下の通り。
①判決を出すタイムリミットを来年の初めまでと通報。
②評議において15人の裁判官の観点が手続上、法律上、憲法上の三つに分かれていることを通報。
③東京地裁の「伊達判決」をくつがえすという通報。
④その逆転判決は15人の裁判官の全員一致が望ましいという見解。
⑤「米軍駐留は合憲」というお墨付きを与える判決にすることへの示唆。
⑥「伊達判決」への敵意の表明。
そして判決は田中の言う通りになった。
最高裁長官が裁判の一方の当事者といえるアメリカの大使に、判決の事前にこうした事を報告していたのだ。
あまり軽々に「売国奴」という言葉は使いたくないが、田中耕太郎こそ「売国の裁判官」と言うしかない。
この田中長官の言動はまた、裁判所法第75条「評議の秘密」に明らかに違反している。憲法の番人たる最高裁のトップにあるまじき行為として糾弾されねばならない。

こうした売国の「砂川判決」にしがみつくしか自己を正当化できないのが現在の安倍政権であるのは、象徴的だと言える。

2014/07/25

「裁判員制度」を否定する最高裁

大阪で1歳の娘を虐待死させたとして、1審の裁判員裁判で検察の求刑を大幅に上回る懲役15年の判決を言い渡された両親の裁判で、7月24日最高裁判所は「裁判員裁判といえども、ほかの裁判との公平性が保たれなければならない」と指摘して、刑を軽くする判決を言い渡した。

この事件は、4年前に岸本憲被告と妻の美杏被告が、大阪・寝屋川市にあった自宅で当時1歳の3女を虐待し、頭をたたくなどして死なせた傷害致死の罪に問われたもの。
検察の懲役10年の求刑に対し、1審の裁判員裁判は大幅に上回る懲役15年を言い渡し、2審も取り消さなかったため被告側が上告していた。
24日の判決で、最高裁判所第1小法廷の白木勇裁判長は「裁判員裁判といえども、ほかの裁判との公平性が保たれなければならず、これまでの刑の重さの大まかな傾向を踏まえたうえで、評議を進めることが求められる。従来の傾向を変えるような場合には具体的に説得力をもって理由が示される必要がある」という初めての判断を示した。
そのうえで、「1審判決は従来の傾向から踏み出しているのに根拠が十分示されておらず、甚だしく不当な重さだ」と指摘して、懲役15年を取り消し、父親に懲役10年、母親に懲役8年を言い渡した。

裁判員裁判の判決が2審で取り消されたケースはこれまでもあったが、最高裁が直接見直したのは今回が初めて。
5年前に市民の視点を反映させる裁判員裁判が導入されて以降、厳罰を求める判決が出される傾向にあり、裁判員裁判であっても刑の公平性は守られるべきだという今回の判決は今後の裁判に影響を与えるのは必至だ。

ここで問題とすべきは、白木勇裁判長の補足意見で、要旨次のようの述べている。
「裁判員裁判を担当する裁判官は、量刑判断に必要な事柄を裁判員に丁寧に説明し、理解を得ながら評議を進めることが求められる。」
ここでいう「丁寧に説明」「理解を得ながら」という表現は国会答弁などで毎度お馴染みで、「押し付け」「指導」「説得」と同意語だ。
これからの裁判員裁判では、量刑に関しては担当裁判官より「積極的指導」が行われることになろう。
裁判員制度の目的のひとつは裁判に市民感覚を反映させることにあり、従来のプロの裁判官の判断とは差が出ることは当然なのだ。それを過去のプロが出した判断に従えというなら、裁判員裁判など不要である。仕事や私生活を犠牲にしてまで裁判に参加した裁判員たちには虚しさだけが残されるだろう。
白木勇裁判官の意見は、事実上裁判員制度を否定したものと捉えられても仕方ない。

むしろ問われるべきは、そうした最高裁の体質だ。

2014/03/29

「犯人にされる」という恐怖

私たちは日々、色々なリスクを負いながら生きている。病気になる、事故にあうもそうだが、犯罪の被害者になるリスクもある。しかし最も恐ろしいには犯罪の加害者にされてしまう、つまり何らかの犯罪の犯人とされて刑務所に入れられる事だ。それが死刑囚として処刑に怯えながら数十年間も、なんて考えただけで身の毛がよだつ。
TVの刑事ドラマなどでお馴染みだが、刑事が「あなたは0月0日の0時から0時の間、何をしていましたか」「それを証明する人はいますか」と訊くシーンがある。あれを見て常に思うのだが、自分ならアウトだと。
昨日の夕食のおかずさえ憶えていない位だから、数日前のある時間帯のことなど思い出せない。仮に思い出したとしても、リタイア-して自宅にいる時間が多いので証人は女房ぐらいだ。家族の証言は必ずしもアリバイ証明にはならないそうだから、この段階で重要参考人である。
以前、裁判の傍聴マニアの人の本を読んでいたら、検事が被告に「こんな大事な日の記憶が無いんですか」と怒鳴っていたと書かれていた。犯行当日の記憶のことを糾しているのだが、そりゃ検事にとっては大事な日かもしれないが、もし身に覚えのない被告ならチンプンカンプンだ。

では物証がなければ有罪にはならないかというと、これが違う。過去に状況証拠と証言だけで有罪になったケースはいくらでもある。検察側の証人の場合、事前にリハーサルが行われるそうで、被告にとって不利な証言がなされるのは避けられない。
その肝心の物証でも捏造されたとあっては、被告にとってはお手上げだ。

いわゆる「袴田事件」で死刑判決を受け再審請求を行っていた袴田巌(はかまだいわお)さん(78)が釈放された。実に48年ぶりということになる。
3月27日、静岡地裁は再審開始を決定し、同時に袴田死刑囚の死刑の執行と拘置の執行を停止する決定を下し、釈放を認めたものだ。死刑囚の再審が決定したケースで、拘置の執行停止が認められたのは初めてケースだ。
この事件の第2次再審請求審の最大の焦点は5点の衣類のDNA結果だった。半袖Tシャツに付着した血痕と、袴田死刑囚のDNA型が一致するかを調べるDNA鑑定が実施され、弁護団側と検察側双方の鑑定で「一致しない」との結論が出されていた。ただ検察は長期のためDNAの劣化があったと鑑定に疑問を呈していた。
村山裁判長は「5点の衣類が袴田死刑囚のものでも犯行着衣でもなく、後日捏造されたものであったとの疑いを生じさせるものだ」と指摘した。
捜査側の捏造という点にまで触れた踏み込んだ判断は異例であり、いかに悪質であったかを窺わせる。

一方、検察側は拘置の継続を求める抗告を東京高裁に申し立てるとともに、再審開始決定に不服があるとして同高裁に即時抗告したが、高裁は地裁の判断を支持した。
つまり検察は釈放された袴田巌さんをもう一度拘置所に戻せと求めたわけだ。
検察の辞書には「反省」という言葉がないらしい。「人間性」という言葉も。
もっとも猪瀬元都知事の公選法違反事件では、たった50万円の罰金刑で済ませたわけだから、検察も相手によっては大いに温情を示すということか。

袴田さんが一日も早く晴れて無罪になることを祈りたい。

2013/11/29

安倍政権が狙う「盗聴法改正」

月刊誌「選択」11月号によれば、安倍政権が盗聴を拡大できる「通信傍受法」の改正を狙っていると報じている。
1999年に成立した「通信傍受法」について、法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」でこの夏、NTT、ドコモ、KDDI、ソフトバンクからヒヤリングを行っている。
現行法では警察官が通信事業者の施設内に行って、事業者側の立ち合いのもとで「盗聴」が行われている。これを改め、警察施設内部に常設の「傍受回線」を設置する構想について通信事業者からの意見を聴くのが目的だった。これが実現すれば警察は自由に「盗聴」が出来るようになる。

これ以外にも現行法では禁止されている容疑者の自宅や事務所に忍び込み盗聴器をしかける「室内盗聴」の合法化も目指している。
さらに現行法では麻薬や銃器犯罪など4つの犯罪の捜査に限り盗聴が許されているが、この規制も外そうとしている。
米国では国家安全保障局(NSA)による無差別の盗聴が明るみに出て問題になっているが、法務省や警察が目指す法改正が行われるなら、日本もこれと同じようになる。

安倍政権は一方で秘密保護法で国民の知る権利や報道の自由を制限しておきながら、もう一方で国民を監視する仕組みを着々と築きつつある。
憲法そのものには手を付けず、法律によって国民の権利や自由を骨抜きにしようという安倍首相の手口がますます明らかになりつつある。