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2023/09/05

門田隆将という「作家」

門田隆将(かどた・りゅうしょう)は、ベストセラーを連発する人気作家として有名で、2012年に福島第一原子力発電所の事故について書いた『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(2012年11月刊行、PHP研究所)はその後に「Fukushima50」として映画化されて大きな反響を呼んだ。
また、門田は右翼の論客として産経系などのメディアにその主張が頻繁に取り上げられていて、眼にした方も多いだろう。
その一方、門田は過去に盗用・剽窃を告発する著作権侵害訴訟を起こされ、東京地裁・東京高裁・最高裁で連続敗訴している。
「門田隆将グローバルクラブ」というサイトに、そのパクリの手口が詳細に紹介されている。
ここでは、
①池田知加恵『雪解けの尾根』(ほおずき書籍、2008年9月刊行の第3刷)
②門田隆将『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』(集英社、2010年8月に出版)
の文章の一部を比較対照したものを引用した。

①の17ページ
朝、元気に家を出た人間が、その夕刻に死ぬなんて、私にはどう考えても信じられない。悪夢でも見ているのではないか、そうであってほしいと思った。今まで、夫のいない生活を考えたこともなかった。これから一人になって、どんな楽しみがあるのだろうと思ったら、涙が止めどなく溢れて仕方がなかった。私は、周囲に気づかれないように涙をそっとふいた。
②の131ページ
朝元気に家を出ていった夫が、その夕刻に死ぬなんて、知加恵にはどうしても信じられなかった。これは悪夢に違いない。そう何度も思おうとしていた。夫のいない生活など考えたこともない。これから一人になって、自分は何を頼りに生きていけばいいのだろうか。
 考えれば考えるほど、止めどもなく涙が溢れてきた。周囲に悟られまいと、知加恵は何度もハンカチで涙を拭った。

①の20ページ
日航側の家族受け入れ態勢はこの時まだ不備を極め、あちこち市内をひっぱり回された家族と日航の間はさらに険悪になった。中には、いらだちが高じ日航の社員の胸を足げにする人もいて、本当に恐ろしかった。
②135ページ
しかし、まだ日航の受け入れ体制は整っておらず、引っぱりまわされた家族は、日航の職員に罵声を浴びせた。いらいらして日航の社員の胸ぐらを摑む人や、なかには、実際に胸を蹴り飛ばす人もいた。

①の20~21ページ
私は若い警官の前に腰かけた。
「ご主人の事故当日の服装、所持品、肉体的特徴についてくわしく話して下さい」
と聞かれたが、背広の色さえ記憶していなかった。若いころから着替えは自分でしなければ気のすまない人だったし、空港までの車中も助手席の夫と顔を合わすことがなく、前日自分で買ったと言っていたネクタイの柄もよく見ていなかった。覚えていたのはニナリッチのカフスボタン、朝磨いてそろえた靴の色くらいである。身体的特徴については次のように説明した。人並み以上に頭が大きいこと、髪の毛が多く、ヘアトニックをたくさんつける習慣のあること、色白だが、このところゴルフ焼けをしていること、足の水虫のことなど
②の136ページ
聴取を担当したのは、若い警官だった。
「事故当日の服装、所持品、肉体的特徴を詳しくお話し下さい」
二人は、警官からそう尋ねられた。典正には、ほとんどわからない。しかし、知加恵も、あまり答えられなかった。
知加恵は、いざ聴かれると隆美が着ていった背広の色さえ記憶していなかった。若い頃から着替えなど、準備は自分一人でやってしまう夫だった。十二日の朝、空港へ送る車中でも助手席の夫とは横向きの位置関係にあり、前日に自分で買ったと言っていたネクタイの柄もよく見ていなかった。知加恵が覚えていたのは、わずかにニナリッチのカフスボタンとタイピン、あとは、朝、磨いて出した黒靴の型くらいのものだ。
身体的特徴も人並み以上に頭が大きいこと、髪の毛が多くてヘアトニックをたくさんつける習慣があること、色白だが、このところゴルフ焼けをしていること、足の水虫のことなど

①の21ページ
家族は、アイウエオ順で数か所の市内の小中学校の体育館に分散、待機させられた。私たちの第二小学校は市内の繁華街から西北にあった。体育館は、折からのひどい暑さの中に立錐の余地もないほどの人いきれで、まるで蒸しぶろのようである。昨晩から着ていたブルーのTシャツも汗まみれであったが、この際なりふりなど構っていられなかった。
②の137ページ
乗客の家族は、姓名のアイウエオ順で数か所の市内の小中学校の体育館に分散、待機させられていた。市の繁華街からやや西北に位置する藤岡第二小学校で知加恵たちは待機した。
体育館は折からの酷暑で、まるでむし風呂だった。知加恵が前夜から着つづけている洋服も汗まみれだったが、仕方なかった。

サイトでは、数十か所に及ぶパクリが紹介されているが、字数の関係でここまでで止めておく。
またサイトでは、門田の他の著作についてもパクリの手口を紹介しているので、興味のある方は直接「門田隆将グローバルクラブ」を参照されたい。
上記の例でも分かる通り、門田の文章はパクリというよりは「コピペ」と表した方が近い。
これは果たして「作家」と言えるのだろうか。

2023/04/01

図書館を「無料貸本屋」にしていいのか

私は図書館というのを利用したことがなかった。理由は二つある。
①図書館に行って調べなくてはならい必要性がなかった。
②期限を区切って本を読むことができない。時には購入してから1年近く経ってから読み始めることもある。
それが数年前に出先でたまたま、時間ほど潰すことになり、近くにあった市立図書館に入ってみた。
驚いたのはいわゆるベストセラー本など流行りの書籍が10冊単位ていどまとめて並んでいたことだ。これでは普通の書店と変わらない。
私のイメージしていた図書館というのは、私たちが手が届かないような専門書とか、高価な書籍が収蔵されているものとばかり思っていたのだ。
こうした一般的な書籍が無料で貸し出しされると、1冊の本が多数の人の手に渡ることになる。
①DVDやCDなどと異なり、書籍は定価で購入されている。発行部数が抑えられることにより、出版社から書店に至る利益を圧迫し、強いては日本の出版業を衰退させる。
②印税を生活の糧としている作家が収入減となり、暮らしを圧迫する。
図書館の利用者にとっては便利かも知れないが、公費を使って出版文化を衰退させているとしたら、これは放置しておけない。

2022/04/20

書店員って皆さん読書家ですか?

最近、目につくのは書籍の広告に書店員の推薦がのっているこっとだ。書店に行くと平積みの本の背後に、やはり書店員の推薦文がたてられている。そればかりか、書店員が選ぶ賞まで存在する。
書店員って、一般の人と比べ読書家なんだろうか?
若い頃、神保町の古書店をみて歩くことが多く、店のいちばん奥に店主の席があり、例外なく本を読み続けていた。当たり前だが本は売るほどあるし、古書店の本だから読み終わったあとも商品として売れる。こういう人が読書家で、書籍に詳しいのは納得できる。
しかし、新刊の書店員はどうだろうか。忙しく働いていて、勤務時間中の本を読む暇はないだろう。それなら普通の勤め人と条件は変わらず、書店員だけが特別に読書家にはなりえない。
一つ言えるのは、新刊を片っ端から読める経済力があるのかという疑問だ。古書店とはちがって、読み終わった本は新刊で売るわけにはいかない。おそらく日々数十冊の新刊が発行されているだろうし、それを読むためには購入せねばならず、かなりの費用がかかる筈だ。書店員の人たちは特別に給料が高いのだろうか、そうとも思えない。
考えられるのは、出版社が新刊書籍を宣伝用として、無料で書店に配っているのではという疑問だ。それなら経済的な問題は解決する。
もし、そうした事が慣例化しているとすると、その分に掛かったコストは、私たち一般読者が負担していることになる。
どうも、モヤモヤしてしまう。
私の勝手な予想が外れていたら、ゴメンなさい。

2022/02/05

ボクも鈴さんに恋をしてしまった、吉田修一『ミス・サンシャイン』

吉田修一『ミス・サンシャイン』(文藝春秋‐2022年1月10日初版)
普段、小説といえばミステリー、それも海外ミステリーしか読まないが、この本を手にとったのは広告を見て、女優の京マチ子をモデルにしたものだと思ったからだ。
デビューのころは「肉体派、ヴァンプ(妖婦、魔性の女)女優」とよばれ、主演した映画が次々と国際映画賞を獲得すると「グランプリ女優」、ハリウッドにも進出して「国際派女優」と呼ばれた、戦後の日本映画を代表するスターだ。映画が斜陽化してからはTVドラマや舞台女優として活躍した。
小説では、かつての大女優で今は高齢で引退している「鈴さん」として描かれているが、女優としての経歴は京マチ子とほぼ重なる。
主人公の青年「一心」があるきっかけで、鈴さんの家にある資料の整理を頼まれる。一心は、スクリーンの中の鈴さんは知っていたが、80代と年を重ねても凛とした美しさを保つ等身大の鈴さんに魅了される。資料を整理する中で、鈴さんが一心と同じ長崎の出身であり、被爆者であることを知る。鈴さんが長崎で姉妹同様に仲良くしていた佳乃子という少女がいて、彼女の方がずっと美人だったこと、女優としても彼女の方に先に声がかけられていたこと、原爆症の白血病で若くして亡くなり夢が断たれたこと、そして鈴さんはずっと佳乃子の歩むべき道を歩いてきたと思っていることなどを知る。幼い頃に最愛の妹を病気で亡くした一心に、鈴さんの思いが重なる。一心が失恋した苦しさを打ち明けると、鈴さんはそれを優しく受けとめてくれ、やがて50歳も年が離れている鈴さんに恋心を抱くようになるが、それは成就できないことは最初から分かっている。ただ、鈴さんが佳乃子の事を公には一切語らなかったことに疑問を持つが、鈴さんからの手紙で幻となったアカデミー賞の授賞式スピーチで、自身が被爆者であることと、原爆症で亡くなった佳乃子への思いを吐露しようと準備していたことを知る。
「彼女は亡くなり、私は生きた」と。
敗戦と占領を経て、日本人は心を失ったかに見えたが、鈴さんは決して失っていなかった。
華やかなスターの姿の陰で哀しんでいた鈴さんの、その彼女への純粋な一心の恋慕の情が、静かに伝わる作品だ。

2021/07/13

「アカ」とは何だったのか?山本おさむ『赤狩り』⑩最終巻

山本おさむ『赤狩り』10(最終巻)
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1940年代からアメリカを席巻してきた「赤狩り」がようやく終息をむかえ、本書の主人公である脚本家のダルトン・トランボの名誉回復が行われた。
政治の世界ではジョン・ケネディ暗殺に続き、キング牧師、ロバート・ケネディが暗殺される。ジョンソン大統領がベトナムに多数の米兵を送り込むが戦況はさらに悪化、ついにニクソン大統領によりベトナム戦争が終結される。「赤狩り」が朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争の終結とともに終わるのが象徴的である。
本書ではケネディ暗殺こそが最大の赤狩りだったと結論づけている。それはキューバへの侵攻を止めてソ連との平和共存を図り、ベトナム戦争を終わらせようとしたケネディに対する軍需産業の軍産複合体、それに加担したCIAやFBIによるからの攻撃であったというのが作者の解釈だ。
「赤狩り」というと一般的のは反共産主義を指すが、「アカ」とは「社会に害をもたらす行動・態度・思想・意図」であり、「それらを総じて共産主義と見做し、社会から追放する」ことが「赤狩り」だと作者はいう。
今日、ロシアでの政敵の投獄、中国での香港や新疆ウイグルへの弾圧、ミャンマー軍による市民の虐殺、そして60年前に起きアメリカの「赤狩り」(本書では触れていないが日本でも「赤狩り」はあった)と、社会体制に関係なく「社会に害をもたらす行動・態度・思想・意図を社会から追放する」行動が行われている。
そうして見ていけば、「赤狩り」は今日的な問題である。
本書では、トランボが原作者である『ジョニーは戦場に行った』を映画化するまでの苦心や反戦色が濃いことを理由に米国での上映が妨害されたこと、トランボが脚本を書いた『ダラスの熱い日』が米国内のメジャーでの上映が断れたことが書かれている。いずれも当時のベトナム戦争やケネディ暗殺への異論の封殺が背景にある。
アカデミー協会は『黒い牡牛』に続き『ローマの休日』がトランボの作品であることを正式に認め、オスカーを贈った。アカデミー協会はこれをもって謝意を示す形にしたが、他の映画関係の協会からは正式な謝意を行われなかった。それは映画の資金を出しているのがウォール街のグローバリスト達であり、彼らが「赤狩り」を反省するわけがないからだ。

2021/02/26

【書評】山本おさむ『赤狩り①-⑧』

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山本おさむ『赤狩り①-⑧』(小学館 ①2018/5/2初版~)

コミック本を購入したのは初体験だったが、これが面白い。傑作!力作!
本作品は雑誌「ビッグコミック」に2017年~2020年にかけて連載されたものを単行本にしたもので、最終の⑨巻は未発売だ。こんな題材のコミックを雑誌に連載した編集者の眼力に驚かされる。本作は「事実にもとずいたフィクション」とされているが、②巻以後の巻末にどれが真実でどれがフィクションかが解説されている。過去の著作や研究書の成果が織り込まれており、フィクションも全体に無理なく構成されている。
「赤狩り」については当ブログの”自国の負の歴史と向きあう映画(7)『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』”で概要を記しているが、従来は主に被害を受けた側の立場から書かれたものが多い。
それに対して本書は赤狩りを「歴史の流れ」の中で捉えているのが特長だ。即ち、赤狩りをハリウッドの問題に限定せず、アメリカ社会全体を包み込む大きな流れとして描いている。本書が「ハリウッド・テン」から始まり、ケネディ暗殺まで書かれているのはそのためだ。
著者は「赤狩り」の時代背景をアメリカの原爆開発と、その資料を盗み出してソ連が原爆を開発し、米ソの冷戦が引き金になったとしている。次いで起きた朝鮮戦争はアメリカとソ連の代理戦争の様相を呈し、アメリカ国内での反共意識が高まった。更にキューバの社会主義化がこれに輪をかけた。
この機に乗じて米国のFBI、CIA、警察は一体となって、民主主義や権利、平等を主張する者たちを「赤」として弾圧を行った。この流れは現在も続いており、最近での「トランプ現象」もその一つとすれば理解しやすい。

本書のもう一つの特長は、赤狩りのターゲットとなった側の弱点をついていることだ。1940年代にアメリカでは共産主義への憧れからアメリカ共産党に入党する者が増え、一時は党員が10万人に達していた。処が、アメリカ共産党はソ連(=スターリン)の影響力が強く、文化を政治の下に置くような教条主義的な指導が行われていた。加えてソ連国内での文化人への弾圧が断片的に(全面的にオープンになるのはフルシチョフによるスターリン批判以後になる)伝わると急速に共産主義に対する反発が拡がり、党員も数千人にまで落ち込む。ハリウッドで赤狩りされた人も既に離党していた人が多かった。またソ連は多数のスパイを米国内に送り込んでいたが、アメリカ共産党にはそうした情報を一切伝えていなかった事も、党員の不信感につながった。
そのようにターゲットとされた側の弱点も、赤狩りを阻止できなかった要因としている。但し、作者はだからと言って赤狩りを正当化することは許されないという立場だ。
トランボたちの不屈の精神やそれを支えた家族と、そういう中でも手を差し伸べてきた映画人たちの姿が描かれ、やがて名誉回復するまでの闘いは感動的だ。笑い、時に涙しながら読了した。

 

2021/02/01

【書評】波田野節子『李光洙-韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』

波田野節子『李光洙(イ・グァンス)-韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』(2015/6/25初版 中公新書)
不勉強で、たまたま他の雑誌で李光洙の名に触れていたので本書を購読。李光洙は韓国の近代文学の祖とされ、知らぬ者はいないそうだ。日本でいえば夏目漱石に相当するのだろう。
本書では李光洙のヒストリーが詳しく紹介されていて、1892年、李は貧しい家庭に生まれながら韓国併合前後に日本に留学し明治学院で学び、文筆活動を始める。帰国してから住民への啓蒙活動を行い教師にもなるが、1915年に再び来日し早大に編入。
1919年、日本政府を糾弾し朝鮮の独立をうたった「2・8独立宣言」を起草し上海に亡命、「3・1独立運動」と臨時政府に参加する。このころ許英粛(韓国で初の産院を作った人)と結婚。
「3・1独立運動」が挫折すると李は、「東亜日報」に入社し編集局長などを務め、多くの小説を著した。長年の無理がたたったのか結核を患い、以後病苦と闘うことになる。
1937年日中戦争が勃発するが、その直前に李ら182名が治安維持法で逮捕される。これは完全なでっち上げ事件だったが、うち2名が死亡1名が廃人になるという過酷な取り調べを受けた。李は病気が悪化したため釈放されるが裁判にかけられる。
1938年、同事件で起訴された李を始め全員が転向を表明する。朝鮮人も帝国の臣民として生きるという内容だった。日本の統治から免れぬ以上は、朝鮮人も日本人と同様に権利を主張し差別を無くすような「内鮮一体化」を目指すことになる。
対日協力の第一歩として李が音頭をとって朝鮮の文学者を皇軍慰問団として戦地に赴くことにした。
第二歩は、李が「日本文学報国会」に真似た「朝鮮文人協会」を結成し会長におさまったことだ。
その後は田舎に引っ込んでしまう。
1940年には創氏改名により「香山光郎」の日本人名をなのる。この頃から日本語の論文を盛んに書くようになるが、当時の朝鮮では日本語を読める人はごく少数であったことを考えれば、対象はむしろ内地の日本人向けだったと思われる。
1941年に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると李は西洋への反発からアジア解放を賛美し、1943年には日本の学徒動員に呼応して朝鮮人学生の学徒兵志願を勧誘する。これに対応しなかった学生は全員が大学から除籍されてしまう。
1948年に大韓民国が成立、李は「私は独立国の自由の民だ」という長詩を書き支持を表明する。その翌月に「反民族処罰法」が制定され、李は対日協力した罪で検挙されるが不起訴となる。しかし李の「親日」の烙印はその後も消えることがなかった。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮に連行され消息を断った。息子の李栄根(米国に渡り大学教授になっていた)が1991年に北朝鮮を訪問し、父親の消息を調べたが1950年に死亡したようだというが明確なことは分からなかった。なお平壌近郊には李光洙の墓がある。
李光洙の歴史は日本と切っても切れない関係にある。彼の背後にあるものは日本の日清日露戦争から中国への侵出、アジア太平洋線戦争に至る軍国主義の歩みと、過酷な弾圧だ。
後年、李は「民族のために親日しました」と語っているが、あながち自己弁明だけとは言えず、本人の真意かも知れない。いくつもの挫折を乗り越えた末の次善の策と思っていたのかも知れない。
李は韓国では未だに「親日」のイメージが強いそうだが、再評価の動きも一部にあるという。

2020/12/04

記号としての「焼跡」「闇市」

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逆井聡人 「〈焼跡〉の戦後空間論」( 青弓社 2018年8月8日初版)

戦後を語るときに、その象徴的な風景として「焼跡」「闇市」が語られ、描かれてきた。今でも映画やドラマで戦後を映し出すシーンとしてこの両者がしばしば登場する。
「焼跡」「闇市」が本来は敗戦の負のイメージだったはずだが、それが「~からの復興」というむしろプラスの言葉として結び付けられることも多い。
戦後70年以上も経って、戦中や戦争直後を、言い換えれば「焼跡」や「闇市」の実態を知らぬ人がほとんどとなってしまった現在、両者はもはや記号としか存在していない。
先日「〈焼跡〉の戦後空間論」という著書を読んだ。この書籍は戦後の日本について多くの示唆に富むものだが、その中から「焼跡」と「闇市」の部分について感じたことを記す。

1.焼跡
アジア太平洋戦争の末期、大都市の大半が米軍機による空襲を受けた。特に昭和25年2月以降は、ターゲットがそれまで軍事施設から住民を目標とする市街に変わってゆく。
米軍による空襲の多くは都市、それも例えば東京では下町を中心としており、山手ではほとんど大きな被害は出ていない。地方においても中心となる都市部だけがターゲットとなっていた。それは目的が軍事施設の破壊であり、密集地を狙って住民を効率的に殺害できたからだ。
焼跡の被害の実態は被害を受けた人々は直接目にしたが、実はそれ以外の人の目に触れることはなかった。戦時中は軍部が空襲や焼跡について報道することを禁じており、戦後はGHQがにより禁止されていた。日本国民に実態が知れることが占領政策に影響すると考えたからだ。写真などの放送や新聞報道は検閲され、その手の映像や画像は排除された。原爆の被害の写真が公開されたのはサンフランシスコ条約の発効以後だったのと同じことだ。
話は変わるが、「パンパン(米兵相手の街娼)」も検閲の対象だった。私自身の戦後の記憶は、パンパンと米兵が乗っていたジープだ。
だがGHQは、日本に駐留する米兵が日本人女性を買春していることが米国本土の米国人に知られることを恐れた。映像や画像はもちろんのこと、イラストに至るまで検閲を受け、米兵と日本人女性が腕を組んでいるイラストさえも削除させられた。
かくして日本人全体が焼跡の実態を知るのは昭和28年以降であり、焼跡が戦後の象徴となるのは戦後しばらく経ってからになる。
あれだけGHQが神経を尖らせていたが、映画『長屋紳士録』(小津安二郎監督の戦後第一作となる作品)のロケに焼跡が映ってしまった。GHQの劇映画だから目が届かなかったかも知れない。映画そのものも名作だが、映像としても貴重な作品となった。

2.闇市
闇市が立った土地は、新宿、上野、渋谷、池袋、新橋などで、元は生産地から物流の集積地としての建物疎開地だった所。
闇市は、戦時中は闇取引と言われていたが、戦時中から存在していた。一般の人が手に入らないものを持っていたのは軍隊で、それを闇で横流しするのは小規模だったが戦時中から行われていた。
それが戦後になって大規模にマーケットとして成立したのが闇市だった。敗戦になって軍の統制も乱れて、大量の物資が闇市に流れこんだ。
むろん非合法であったが、生活物資の配給が滞りがちだった都市部では、闇市は重要な流通の調整弁の役割を果たしていたので、当局もその存在を黙認せざるを得なかった。
また、戦後に外地から多くの引き揚げ者が帰還してきたが、住む所も生きる手段もない人も少なくなく、そうした人々が闇市で糊口をしのいでいたという側面もあった。
GHQは、当初は闇市には大きな関心を寄せなかったが、米兵も闇で物資を横流ししていた現実から取締りに力を入れるようになる。
闇市には朝鮮人の人たちも参加していたが、当初は日本人のテキヤ(闇市を仕切っていたのが暴力団だった)との縄張りをめぐる小競り合い程度だったのが、朝鮮戦争が始まるころになるとGHQ自体が朝鮮人を取り締まるようになる。それと戦後に生まれた「第三国人」という呼称に代表されるような朝鮮人差別とが合流し、朝鮮人を差別し排除していく流れになってゆく。

2018/10/18

書評「許されざる者」

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レイフ・GW・ペーション (著), 久山葉子 (訳) 「許されざる者」(創元推理文庫、2018/2/13初版)

国家犯罪捜査局の元長官ラーシュ、定年退職し年金生活を送っていたが、ある日脳梗塞で倒れ半身に麻痺が残る。
そんな彼に女性の主治医から意外な相談が持ち掛けられる。彼女の牧師だった父が、懺悔で9歳の少女が暴行の上殺害された事件の真犯人の名を聞いていたと言うのだ。ただその父は既に死去していて、事件は時効になっていた。
ラーシュはかつての相棒だった元刑事らを手足に、事件を調べ直す。闘病生活を送りながらの困難な捜査だったが、いくつもの壁を乗り越え遂に真犯人にたどり着く。
問題は事件は時効で、犯人を法で裁けないことだ。そこでラーシュは一計を案じ、犯人に自らの罪を償う方法を選択するよう迫るのだが・・・。

作者のレイフ・GW・ペーションは犯罪学教授としてスウェーデンの国家警察委員会の顧問を務め、ミステリーの人気作家として本国では名が知られているそうだ。本作に登場する人物も過去にシリーズ化され、TVドラマや映画化もされているとのこと。著書の邦訳は本書が初となる。

ここのとこ、北欧ミステリーにどっぷり嵌っている。どの作品も実に面白い。本作もその例外ではない。
警察小説であり、ミステリーのカテゴリーからいえば車椅子探偵という事になる。
この小説の最大のテーマは時効になった犯人を社会的に制裁できるのかという点にある。作中では旧約聖書の中の「目には目を 歯には歯を」が度々引用されているが、事件の解決を暗示している。ただ、これが最善かどうかは評価が分かれる所だ。

本書のもう一つの魅力は、主人公ラーシュをめぐる周囲の人々の姿だ。
銀行家の妻、手広く商売をしている長兄、会計士の義弟、ラーシュの主治医、刺青だらけの介護人、丁稚と呼ばれている若い男、そして昔の警察官仲間たち。
彼らの暮らしや背負ってきた過去から、私たちには観光でしか知りえないスウェーデンの国が抱えている問題が浮かび上がる。同時にそれらが事件究明の糸口へとつながっていく。
深刻なテーマを扱いながら、ユーモア溢れる文体で読者を楽しませてくれる手腕は大したものだ。
但し、続編は期待できないのが残念。
CWA賞インターナショナルダガー、ガラスの鍵賞等五冠に輝いたのも郁子なるかな。

2018/05/01

”満州天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶: 天理教と七三一部隊 ”

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エィミー・ツジモト (著) ”満州天理村「生琉里」の記憶: 天理教と七三一部隊”
(えにし書房 2018/2/25初版 )

本書は、戦前の国家神道のもとで、政治がいかに宗教を利用していたか、それに呼応して宗教団体がいかに自らの教義をゆがめていったかを、天理教による満州移民の実態を通して記述したものだ。

日清日露戦争を経て日本は大陸に侵出してゆくが、昭和に入って満州事変から中国への侵略、傀儡国家としての満州国設立といった情勢の中で、日本政府は満州への移民政策を推進する。
こうした国策に呼応して天理教教団も移民の希望者を募り、信者を満州開拓団として送り出していった。
当時の日本の農村は困窮を極めていて、その一方で満州での開拓農業をバラ色に宣伝していたため、およそ3000人近くの信者が満州へ移民として渡っていった。
しかし、その実態は期待とは大きく外れるものだった。

開拓団の土地は元々満州人の農地であり、それを関東軍が半ば強制的にとりあげて日本からの移民に割り当てていた。
天理教信者の開拓団の村「生琉里」は周囲を壁て囲み、その外側には電流を通した鉄条網を敷き、鉄製の門には関東軍の兵士が警備するという物々しいものだった。
さらに移民たちには武器が貸与され、軍事教練も行われた。
つまり単なる移民ではなく武装移民であり、いざという時には関東軍の補完勢力となることが期待されていたのだ。

彼らは馴れない土地での農作業に励むが、さらに「生琉里」には不幸が待ち受けていた。
隣接した土地に、細菌兵器を開発するための731部隊の本部が建設されることになったのだ。
「生琉里」の中から男たちが731部隊の施設の建設に使役される。もちろん、当初はどういう施設かは知らされていなかったが、命にかけても秘密を守るよう指示され、彼らも特別の施設であることはうすうす気づく。
やがてトラックで次々と、「マルタ」と呼ばれる被験者が運ばれてくる。彼らは全員が生きてここを出ることはなかった。
すると「生琉里」の男たちの作業は、今度は死体処理になってゆく。来る日も来る日も穴を掘って中へ死体を投げ込み、その上に薪を並べて重油をそそぎ火をかけて燃やすという作業だ。
731部隊の「マルタ」というのは、中国人捕虜かと思っていたら、実際は違っていた。朝鮮人やロシア人も含まれ、なかには女学生や幼い少女、生後3ヶ月の幼児までいたのだ。細菌兵器の効果をあらゆる世代に試したかったんだろう。若い女性は性病の被検対象にされていた。
およそ3000人がこの施設で犠牲になったとある。

あまりのおぞましさに、読んでいるのが辛くなる。

ソ連が参戦してくると、今度は731部隊の痕跡を完全に無くすための作業に駆り出される。
生存していたマルタはみな青酸ガスで毒殺し、焼却する。
施設は各所の爆薬をしかけ、完全に爆破する。
この作業に従事した者だけは「生琉里」には戻さず、秘密は墓場まで持ってゆけという命令のもとに、特別の輸送ルートで日本へ帰国させた。

残された「生琉里」の人々にはさらに大きな苦難が襲う。
731部隊ではネズミを使った動物実験も行っていたので、そうした動物たちが隣接の「生琉里」の中に紛れ込んできて、細菌感染により最初は家畜、やがては開拓団の人たちからも死者が出てくる。
そして敗戦からソ連の参戦に至る過程では、ソ連人や現地人による日常的な略奪や暴行に遭う。日本政府からも関東軍からも見捨てられ、棄民にされてゆく。
そして、生きのびて日本へ引き揚げる苦難の道が、この先に待っている。

「生琉里」の生き残りの人たちの大半が口を閉ざす中で、著者のインタビューに応じてくれた風間博氏は、こう述べている。
「よその国に軍隊を持って入り、土地を取ってしまったら侵略なんや。中国の人には申し訳ないことをしたし、我々も辛かった。もう、こんな事を繰り返してはいかん。」
風間博氏はここに至った天理教教団の責任を追及しているが、教団は未だに認めていないとのこと。
天理教の「せかいは いちれつ みな きょうだい」という教義は、どこへ行ってしまったのか。

こうした不幸を二度と繰り返さすよう、こうした時代に二度と戻らぬよう、多くの方に読んで欲しいと願い、紹介した次第。

より以前の記事一覧