日記・コラム・つぶやき

2021/01/21

マスク嫌い

今日の新聞によれば、マスクは不織布のものに限り、「布やウレタンのマスクの場合はお断り」という所があるという。何だかやかましい事になってきたね。
先日は大学入学共通テストで、監督者の注意に従わずに鼻を出したままマスクを着け続けた受験生1人の成績を無効にしたとの報道があった。ルールだから仕方ないだろうが、鼻を出してマスクしている人はみかける。某政党の幹事長の会見では、いつも鼻を出しているが誰も注意しないようだ。
マスクを拒否したら飛行機から降ろされ逮捕された人もいた。

私はマスクが嫌いだ。だから過去にマスクをしたことがない。
①マスクを装着しているだけで不快になる
②眼鏡が曇って危険
③のぼせて頭がボーっとしてくる
マスクに限らず、帽子もマフラーも不快になるので着けたことがない。このご時世だから我慢してマスクはしているが、本当は嫌で嫌でしょうがない。
私の様な体質の者がマスクを着けて受験するなら、きっと試験に集中できなくなるだろう。
コロナの感染対策はこれから長期戦になるだろうから、もう少し寛容になっても良いのではなかろうか。

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2021/01/18

「風化」は人間の知恵

「風化」とは「記憶や印象が月日とともに薄れていくこと」だが、一般に否定的な意味で使われることが多い。「戦争、災害、事故、事件などの記憶が風化されてゆく」と言った文脈で、風化は防がねばならないという主張がなされる。
本当に「風化」はいけない事だろうか。
人間誰しも一生のうちで何度も、死ぬほど辛いこと悲しいことに出会う。その記憶をそのまま何時までも引きずっていたら、精神が壊れてしまうだろう。私たちはそうした記憶を少しずつ風化させることにより、精神のバランスを保っているではなかろうか。
大事なことは風化ではなく、起きてしまったことから導かれる教訓を残し広めることだ。

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2021/01/10

憂鬱な年明け

予想通りと言おうか、予想を超えてと言おうか、コロナの感染が激増した年明けとなってしまった。
原因は菅政権の失政だ。大方の批判を無視して”GO TO”を強行し、12月に感染が拡がっても止めず、今日の事態を招いた。会見では目が泳ぎ官僚の書いたペーパーを読むだけで質疑応答もまともに出来ない人間がトップにいるわけで、この非常時に実に心許ない。我々は言ってみれば、免許を持たない船長の乗客のようなものだ。
東京に関していえば、菅首相と小池都知事が責任のなすり合いを続けているうちに事態が深刻化してしまった。
そんな連中からやれ行動規制だの自粛だのと言われたくないが、事ここに至っては自分たちの身は自分たちで守るしかなかろう。
7日に国立演芸場の正月興行に行く予定だったが、家族の厳しい視線を浴びて断念した。大相撲初場所のチケットも取ってあるが、これも行けそうにない。
やれやれ、今年も暫くは巣ごもりかと、憂鬱な気分になる。

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2020/12/19

年賀状あれこれ

今年も年賀状の季節がやってきた。私の様な歳になると差し出す枚数が年々減ってゆく。亡くなる人がいるからだ。
親族に不幸があった場合は喪中はがきが届くが、本人の場合は家族の方から返信がくる。その際、ご遺族に故人の思い出を記した手紙を出すことにしている。会社関係だとご遺族の方は仕事ぶりをご存知なかろうと思い、ちょっとしたエピソードを書き加えている。もっとも反応が全くないので読まれているかは不明だが。
年賀状のお付き合いというのは不思議なもので、何十年もの知り合いなのに一度も賀状の交換をしたことがない人がいる一方、一度しか会ったことがないのに何十年も交換している人もいる。お互いに名簿に載せたまま変えない
からだろう。
相手が女性だと時おり苗字が変わるケースがあり、何があったんだろうとついつい想像をたくましくしてしまう。
賀状交換は今年で終わりにしますという文面がぼつぼつ来るようになった。当方もいずれそうせねばならないと思いつつ、なかなか踏ん切りがつかない。
家庭用プリンターという便利なものができてから宛名も文面もみな印刷にしているが、それでは味気ないので何は一言書き添えようとするのだが、これがいけない。ペンで字を書くことが稀になってしまったため、まともに字が書けなくなってきた。
入院中のリハビリで、「果実の名前」「動物の名前」「東京23区名」や「山手線の駅名」を書かされる訓練があったが、漢字がパッと出てこないのには参った。そうしたことを思い知るだけでも年賀状が必要かも。

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2020/11/14

あゝ麗はしい距離(ディスタンス)

   「母」    吉田一穂
あゝ麗はしい距離(ディスタンス)、
つねに遠のいていゆく風景・・・・・・・
 
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)

中学生の頃に読んだ本に書かれていた詩で、印象が深くて暗誦していた。吉田一穂の「母」という詩である。
母とボクは折り合いが悪く、恐らく性格が似すぎていたせいだろうか、いがみ合う事が多かった。上の詩人のような心境にはほど遠かったが、だから却ってこの詩に魅かれたのかも知れない。
母との関係が良くなったのは、ボクが結婚して家を出てからで、母は足繁く我が家を訪れるようになり、2,3度は一緒に旅行にも行った。こんな事は実家にいた時には考えられなかった。
どうやら物理的なディスタンスを置いたことが、母とボクのディスタンスを近づけたようだ。

永い間一年に一度は合う事にしていた友人グループが3つほどあったが、コロナの影響でいずれも今年途切れてしまった。この分では来年もどうなるか分からない。
ボクたちの様な歳になると、お互い元気で会える機会は限られている。
早くコロナが終息し、「つねに遠のいていゆく風景」にならぬよう祈るばかりだ。

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2020/04/11

「伝染病」の思い出

1951年頃と記憶しているが、小学校から帰宅したら家の中がまるで雪が降ったように白い粉が積もっていた。母が言うには、父親が「赤痢」に罹って救急車で運ばれ、それで保健所の人が来て家じゅう消毒をしたと。当時の消毒は「DDT(Dichloro Diphenyl Trichloro ethane)」の撒布で、形状が白い粉末だったので雪の様に見えたのだ。
「赤痢」というのは当時コレラやチフスなどと並ぶ法定伝染病で、戦後だから抗生物質が日本にも入ってきたとはいえ死に至る病だった。
しかし他の家族3人には検疫もなく、さすがに飲食店だった店は閉めたが、私も兄も翌日から何事もなかった様に学校に通った。近所や友人からも何も言われることもなかった。
今ならさしずめ感染経路や濃厚接触者(家が飲食店だったから対象者は多かっただろう)を調べたり、家族は隔離されたり、知事だた区長だかが記者会見を開いたり大騒ぎだったろうが、そういう事もなかった。
幸い、父は大事に至らず暫くして退院してきて、店も再開した。
「DDT」は元々は殺虫剤、農薬として開発されたものだが、当時は主に米軍が防疫のための消毒剤として使っていた。その後、残留農薬や環境ホルモンなどの問題が明らかになり、日本では1969年には稲作への使用禁止、1971年には全面的な販売停止となった。
そんな事も知らず、私たち家族はDDTの積もった家の中で暮らしていたのだ。

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2020/04/02

タクシードライバーの話

昨日、用事があって久々にタクシーを利用。ドライバーに新型コロナの影響について訊いてみた。
「そりゃ大きいですよ。特に夜が激減です。昨夜、銀座に行ったんですが客の姿が見えない。志村けんが亡くなってから急に人が減りました。六本木も渋谷も若い人がいなくなりました。仕方なく蒲田に行ったんです。あそこは羽田が近いので多少は仕事があるんですが、着いたら車の行列。困ったなと思ったら運よく田園調布から無線の呼び出しがあって助かりました。
建設業も大変らしいです。知り合いの業者は、仕事があるが部材が入って来ないので現場が止まってるんです。いつ入るのか見通しがなく、このまま2か月止まったままなら会社を閉めるしかないって言ってました。」
政府も危機感を煽るだけで、経済対策は「菜っ葉の肥やしで、掛け声(掛け肥)ばかり」。
今は何より迅速性が求められている。

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2020/03/13

たまには戯言

ここんと暗いニュースばかりでウンザリだが、久々に明るい話題。
<米紙ワシントン・ポストは12日、トランプ大統領と7日に南部フロリダ州の別荘で接触したブラジル政府当局者が新型コロナウイルスに感染していたと報じた>
ほ~、するってぇとあの男にも感染するかも、こりゃ楽しみだ。
そのトランプ、東京五輪の延期に言及した。
こうなりゃ森会長、ワシントンに飛んでいってトランプにガツンと言ってやらねば男がすたる。だが、そんな度胸はないだろうし、第一シンキロウは英語が喋れないもんね。
五輪なんてどうでもいいと思ってるが、一所懸命に頑張ってきた選手の事を思えば中止は気の毒だから、延期するしかなかろう。
でも、五輪を延期するから首相の任期も、なんていうのは勘弁して。
予約していた落語会は次々流れるし、妻が呼吸器系の持病を持ってるんで外出は控えめ。
子どもさんだけでなく、老人だってフラストレーションが溜まってる。
ヤケクソに「東京五輪音頭」をパロった「東京コロナ音頭」を作ったが、不謹慎とお叱りを受けるので公表は一部分にとどめる。
皆さん、ご一緒に。
♪パンデミックの 顔と顔
 ソレトトンコトトンコ 顔と顔♪

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2020/02/02

大石誠之助のこと

しばらく三食昼寝つき別荘で静養していたが、先日退院した。これが病院だから退院、診療所なら出所か。

月刊誌「図書」2月号に、「『太平洋食堂』のこと」というタイトルで作家の柳広司が大石誠之助について書いている。名前をきいてもピンと来ないかもしれないが、大逆事件の犠牲者と言えば思い出す方もいるだろう。
大石誠之助は1867年に和歌山の新宮で生まれ、アメリカ、カナダに渡り医師免許を取得、郷里の新宮に戻り医院を開業。貧しい人から金を取らないで、その分金持ちから余分に取るという累進課金制をモットーに、多くの人から「ドクトル大石」「ひげのドクトルさん」と呼ばれ親しまれた。
そう、あの『赤ひげ』の主人公・新出のモデルという説がある人物だ。
文芸に造詣が深く、都々逸では宗匠の位を極め、語学が堪能だったので海外の文芸作品を翻訳し新聞や雑誌に紹介している。

記事では大石の書いた文章がいくつか紹介されている
「人間がみな、自然の食卓に就いて同様の饗宴に与り得べき余裕と権利があるにも係わらず、なぜテーブルの下にしゃがんでいて、偶然に上から落ちて来るパン屑に舌鼓を打たねばならぬのか。よし是を受くる者が是によって自分ひとり満足できるとしても、他にもそのパン屑を貰い得ずして空腹に堪えぬ多くの身のあることを忘れてはならんぢゃないか。」
金持ちを優遇すれば、そのオコボレが下に下にと落ちて来るという「トリクルダウン」理論の誤りを衝いたものだ。

「昨年、我町に初めて電話の開通した時、これを主導した有為会の連中は至極立派な装飾と御馳走を為して、逓信大臣を招き、一等局長を迎え、地方の官公吏を呼び。その他あらゆる紳士階級のお客を網羅した祝賀会を開いて、甚だ盛んなお祭り騒ぎをした。(中略)
酒を飲みたければ毎日でも飲みに行け。女を呼びたくば毎晩でも呼んで遊べ。しかし之を公に電話開通の名によって行い、大ビラに地方繁栄の仮面を被ってやることはやめてくれ。殊に工事費として彼らが保有している金をそのまま押さえておいて馬鹿騒ぎの費用に流用する事は、僕一己として断然不服である。」
今も「桜を見る会」を名目にして、公費を使って自分の後援者を接待、供応した安倍首相の例がある。東京五輪の莫大な費用も、どこにどう消えたのやら。

「新宮に於いて、僕らは常に『町の平和を攪乱すべき人物』として指弾されつつある。しかし彼らの『平和』とは何ぞや。臭類(くさいやつら)がその臭類たる地位を保つ為の『平和』にあらずや。良民を虐げる悪官吏や悪紳士が枕を高くして眠る為の『平和』にあらずや。見よ、キリストは当時の腐敗したるユダヤが『城下を騒がすもの』として十字架にかけられ、ジョン・ブラウンは奴隷私有者より『安寧を害するもの』として絞首台に上りき。
我らはまた臭類の口より、『平和を攪乱するもの』と言わるるに甘んぜざるべからず。否、寧ろ之を最大の栄誉とせざるべからざる位地に立てり。」
1911年。大石誠之助は「天皇の暗殺を企てた」として幸徳秋水ら11名と共に処刑された。享年43歳だった。
もちろん、この事件は明治政府によるフレームアップであり、2018年1月、新宮市議会は大石誠之助はを名誉市民とすることを決議した。しかし、国家による謝罪は未だなされていない。

なお、記事のタイトルにある「太平洋食堂」は大石が新宮に設けた洋食レストランで、地域の貧しい子どもたちを集めて「うまいものを食いの会」を開いたもの。

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2020/01/03

万葉集・千一夜・目が点

月刊誌「図書」2019年12月号に面白い記事が載っているので、いくつか紹介したい。

「万葉集」
万葉集は明治時代に国民的歌集としての文学的位置を確立したことは夙に知られている。例えば俳人正岡子規は
「紀貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
と古今集をこきおろし、万葉集を賛美してる。
随分と乱暴な評価をくだしたものだ。
こうした子規の主張には裏があって、明治政府は新時代の天皇親政のモデルを、日本の過去の政治形態に求めた。ところが平安時代は摂関政治の藤原氏が、鎌倉時代以降は武家の幕府が政治を担ってきた。天皇親政は聖武天皇の奈良時代まで遡らねばならなかった。
子規はそれと足並みを揃えるように平安時代の古今和歌集をけなし、奈良時代の万葉集を褒めたたえた。
子規にとっては、それが文学の世界で新国家建設の役に立つ「有為の人」となることだった。
以上は、俳人の長谷川櫂の見解だ。
こうして見ていくと、昭和の軍国主義時代に万葉集が利用されたのもうなずける。

「千一夜物語」
アラビアン・ナイトの別名で知られる千一夜物語は、妻の不貞から女性を憎悪するようになった王シャフリヤールが新しい妻を娶っては翌日処刑するという理不尽な行為を繰り返していた。こうした女性たちを救うべく立ち上がったのが賢女シェヘラザードだった。彼女は毎夜、王に面白い話を聞かせ、それを常に「惜しい切れ場」で終わらせる。王は続きが聞きたくて彼女を生かしているうちに王が改心するというもの。
これだけ有名な物語であるにも拘わらず、今から12世紀前に作られたという千一夜物語の原典は誰も見たことがなく、写本でさえ今では散り散りになってしまい、翻訳書のみが残されているという。
なかでも有名なのが「ガラン版 千一夜物語」で、フランス人のアントワーヌ・ガランによって18世紀初頭にイスラム社会から持ち帰ったものを編纂、翻訳した最初の翻訳本だ。
ところが作家の深緑野分によると、定番ともいえる「アラジンと魔法のランプ」「アリババと四十人の盗賊」「シンドバード航海記」のいずれもが原典には収録されておらず、ガランが出版する際に他の物語と一緒に混ぜて出版したものだという。
これはビックリ。
アリババモもアラジンもシンドバードも登場しないアラビアン・ナイトなんて、あまり面白くなさそうだけど。

「目が点」
目が点、という言い方はかなり一般的になっていて、最新の「広辞苑」にも載ったそうだ。「誰が最初に言い出したのか?」という問いに対して、編纂者によれば「1970年代の終わり頃に、歌手のさだまさしの周辺で使われていた」との見解だったという。
そこで、当のさだまさしが経緯を書いている。
言い出しっぺは、当時さだのコンサートのギタリストだった福田幾太郎だったという。漫画家のどおくまん作の「嗚呼‼花の応援団」の主人公、青田赤道が言葉を失って絶句する時に、目が小さな点で描かれるを面白がり、「目が点々になっている」と表したのが、仲間内の流行語になった。これをコンサートの楽屋で聞いた笑福亭鶴瓶が面白がって、彼から芸人の間に拡り、1980年代には世間でも流行語になったという。
こうした新語が、最初に誰が言い出しどのように広まったのかが明白になるというのは珍しい事だと思う。
先のアラビアン・ナイトのエピソードには、私も「目が点」。

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