文化・芸術

2015/07/07

「世界遺産」の乱造

月刊誌「選択」2015年6月号に、元文化庁文化部長で現京都造形芸大教授の寺脇研氏が、「ありがたがるな世界遺産」というタイトルで編集部のインタビューに答えている。
要旨は次の通り。

1.今回の「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録に関して、明らかに安倍首相の地元である山口県を含めようとした政治色の強いもので、そんな経緯で選ばれた遺産について一喜一憂する国民もメディアも滑稽でしかない。
2.世界遺産は元々ユネスコ、欧州から始まったもので、欧州では遺産登録が飽和状態になっている。そこで他地域の歴史的遺物でも遺産に「認めてやろう」という意識が確実にある。
3.日本には未だに欧米から認めてもらいたいという明治時代からの発想が抜けきらない。なぜ富士山の素晴らしさを伝えるのに世界遺産というお墨付きを頂く必要があるのか、理解できない。
4.今では文化庁に専門職員がいて、日本中からの陳情を受け付け、国内の候補を選んでユネスコに要望するというように登録がノミネートのノルマ化、システム化しており、流れ作業にように世界遺産を産みだしている。
5.挙げ句のはてに最近では地域おこし、観光振興という邪な目的が加わり、世界遺産が政治家の道具にまで成り下がっている。
6.日本人が守るべきだと考える遺産なら、自らの手で後世に残していくべきであり、この国の文化レベルが問われる問題だ。日本人の文化水準は高いが、政策面では極めてお粗末。文化予算でみると欧州各国はおろか韓国より劣っている。
7.そうした問題を見つめ直す意味からも、「もう世界遺産はいらない」という所から始めるべきだ。

大事なことは日本の大事な遺産は自らが守るべきであり、世界遺産を増やして世界から認めて貰おうなどという卑屈な態度は改めるべきだということ。
本来の目的をはき違え、観光の道具や政治の道具に成り下がっているのなら、「もう世界遺産はいらない」。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2015/02/08

名詩の超訳

昨日はよみうり大手町ホールでの「桃月庵白酒独演会」に行く予定が野暮用で行かれず、娘に譲ってしまった。夕方娘から「すごく良かったわよ」という電話があった。1月に「桂文枝独演会」を自分で観に行って(よせばいいのに)ガッカリしてきた気分を取り返したようだ。『明烏』『芝浜』『不動坊』と後タイトルが分からなかったのを加えて4席演じたそうだが、全て良かったと言っていた。初めて聴いた白酒にすっかり感心し「将来は人間国宝かもね」と言うから、「品が無いからムリだろう」と答えてやった。

名詩の超訳としては、「サヨナラダケガ人生ダ」で夙に知られる漢詩「勧酒」の井伏鱒二訳が有名だが、同じ井伏の訳で高適の「田家春望」の名訳もある。田舎の春景色を詠ったもので立春を過ぎたこの季節にピッタリだと思う。

出門何所見
春色満平蕪
可嘆無知己
高陽一酒徒

読み下し文ではこうなる。

門を出て何の見る所ぞ
春色 平蕪に満つ
歎んず可し知己無なきを
高陽の一酒徒
(平蕪:雑草の生い茂った平地、高陽:河北省保定県内の地名、酒徒:飲んだくれ)

井伏鱒二の超訳ではこうなる。

ウチヲデテミリャアテドモナイガ
正月キブンガドコニモミエタ
トコロガ会ヒタイヒトモナク
アサガヤアタリデオホザケノンダ

「高陽の一酒徒」を「阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ」とは大胆な訳だが、何となく気分は分かる。

月刊誌「図書」2015年1月号に池澤夏樹の「詩人の中のいちばんの悪党」という文章が掲載されているが、この中でフランソワ・ヴィヨンの「老婆が その青春の月日の去ったのを 惜しんで」という詩を、鈴木信太郎が訳したものを紹介している。美人が老いての嘆きを詠ったものとされる。原文は不明だが訳詩は次の通り。

すんなりとした優雅な撫(なで)肩(かた)
あの長い腕、可愛らしい手
乳房は小さく 臀(ゐさらひ)は豊かな肉附
盛上り、座りがよろしく、恋愛の
晴の勝負の道場に相応(ふさ)うた舞台
あの広い腰、がつしりとした
太腿の上に座った、小庭の奥の
筑紫つび、今はどうなってゐるか

この訳文もたいそう粋だが、その鈴木信太郎が「あまりに見事」と評した訳がある。
それはこの詩を「卒塔婆小町」と題して矢野目源一が訳したものだ。

さては優しい首すじの
肩へ流れてすんなりと
伸びた二の腕 手の白さ
可愛い乳房と撫でられる
むっちりとした餅肌は
腰のまわりの肥り膩(じし)
床上手とは誰(た)が眼にも
ふともも町の角屋敷
こんもり茂った植(うえ)込(ごみ)に
弁天様が鎮座まします

確かに見事な超訳だが、最後の3行はまるで艶笑落語に出てきそうだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2015/01/13

古典芸能の入門書にも『桂吉坊がきく 藝』

桂吉坊(著)『桂吉坊がきく 藝』(ちくま文庫 2013/06/10初版)
Photo以前に佐平次さんのサイト「梟通信~ホンの戯言」で紹介されていたもので、遅ればせながら読了。
タイトルにあるように上方落語の若手・桂吉坊が、各分野の大御所たちに芸の神髄を聞くという対談集だ。
対談の顔ぶれは次の通りで各界のトップクラスが名を連ねている。この対談から数年経て、既に数名の方が鬼籍に入ってしまった。そういう意味では貴重な著作である。
小沢昭一(俳優)
茂山千作(狂言師)
市川團十郎(歌舞伎俳優)
竹本住大夫(文楽大夫)
立川談志(落語家)
喜味こいし(漫才師)
宝生閑(能楽師)
坂田藤十郎(歌舞伎俳優)
伊東四朗(喜劇役者)
桂米朝(落語家)

桂吉坊、師匠は故桂吉朝で、桂米朝の孫弟子にあたる。数年前に一度高座を見たきりだが、童顔で少年のような風貌だった。本書中に対談した方々とのツーショットが掲載されているが、まるで祖父と孫のようだ。
吉坊はそうした外見にかかわらず、古典芸能の各分野にかなり精通していることが本書から窺える。落語は歌舞伎はもちろん、能や狂言、浄瑠璃(義太夫)などから題材を得た演目も多い。従って古典落語をきちんと演ろうとすれば、そうした様々な分野の素養が求められる。
しかし現実はどうだろう、そうした努力を意識的に続けている落語家は少ないのではなかろうか。吉坊がここ数年でいくつかの賞を受賞しているのは鍛錬の成果だろう。

本書を読んで先ず驚くのは、大御所たちが孫ほど年が違う若手落語家に対し、実に丁寧に応対していることだ。やはり一流の人物というのは人間的にも優れていることを改めて感じる。
対談の中でまだバイト時代の伊東四朗が脚本を書いて、2代目尾上松緑を訪ねて歌舞伎座の楽屋に押し掛けたところ、入り口で番頭さんに追い返されそうになっていた。そこへ奥から松緑が出てきて部屋に上げ、台本を見て女形の部分を他の役者をよんで読ませたりと、丁重に扱ってくれたというエピソードが紹介されている。伊東自身も自分が松緑だったらああいう真似は出来ないと言っているが、戦後を代表する歌舞伎役者の偉大さを物語っている。

團十郎や藤十郎との対談では、東西の歌舞伎の違い、江戸は型(成田屋や音羽屋といった伝統の)を重視
するが、上方は型より役者本人の工夫で演じるという。演出も上方はリアルで、忠臣蔵の6段目で猟から戻った勘平が東京では衣装を着替えるが、上方ではそのままの衣装でいる。勘平の腹切りも東京では正面を向いて切るが、上方では部屋の隅で背中を向けて切るといった違いがあるようだ。
團十郎を襲名してからやはり大名跡に相応しい演技をと心がけていたら、あるとき楽屋から出たら知らないおばさんが立っていて、「あなたは自分で縛っているんじゃないですか」と声をかけられ、ハッと気が付いたと述べている。世の中には凄いファンもいるものだ。

竹本住大夫は浄瑠璃を語って66年、ほとんど休演したことがないと。「少々、熱が出ようが、下痢しようが、休んだらあきまへん。悪いコンディションの時に舞台に出て、そこを抜けつくぐりつ、声の使い方を勉強してきまんねん」。落語家の中には、今日は風邪気味だの高熱が出たのと言い訳をするのがいるが、プロだったら住大夫の言葉を噛みしめて欲しい。
談志が軽い噺ほど難しいと語り、究極の落語は『あくび指南』だと。米朝は『つる』という噺に落語の基本が全て入っているという。逆に『たちきれ線香』なんて誰でも出来ると、これは米朝も談志も一致した意見のようだ。この辺りは聴き手と演者とでは違いがあるのかな。

かくのごとく、それぞれの分野の超一流の人たちが、吉坊相手に懇切丁寧に芸談を語っているので、古典芸能への恰好の入門書ともなっている。
関心のある方へはお薦めの一冊だ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2014/07/19

「人間国宝」雑感

「旅人は雪呉竹(ゆきくれたけ)の群雀(むれすずめ)とまりてはたちとまりてはたち」
旅をテーマにした落語のマクラにしばしば使われる言葉だが、当ブログなら「休んでは書き休んでは書き」といったところ。
あちらこちらとガタが来ていて、体調と相談しながら細々と続ける事になるのだろう。

落語家の柳家小三冶が人間国宝に認定された。多くの落語ファンは次はこの人と思っていただろうから先ずは予想通りと言える。
記者とのインタビューでは「あえて言いましょう、とても嬉しかったです」と笑顔を見せたかと思うと、一転「何で嬉しかったんだろう」と真顔を見せたとある。いかにもこの人らしい反応だ。
同時期に活躍した古今亭志ん朝が「語る芸」であったのに対し、小三冶は「語らない芸」と対比されたこともあった。お客に強いて笑いを求めない「引きの芸」と称されるのは師匠の先代小さん譲りか。
率直に言って噺家としてのピークは越えていると思っているが、依然として現役では第一人者であることは間違いない。
ただ、ますますチケットが取りづらくなるだろうな。

人間国宝というのは正式名称ではなく、重要無形文化財保持者を指して呼ぶ通称だ。
「無形文化財」は「文化財保護法」のよって定められていて、演劇、音楽、工芸技術その他の”無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いもの”をいう。
このうち芸能分野の中の演芸部門に落語は属していて、現在までに認定されているのは古典落語から五代目柳家小さん、三代目桂米朝、十代目柳家小三治の3名。
他に講談で一龍斎貞水がいる。
同じ落語家でも古典落語に限っているのは無形文化財の主旨からか。芸協の人がなぜ桂米丸を人間国宝にしないのかと怒っていたが、どうやら法律の趣旨から外れるようだ。漫才その他の演芸から選らばれていないのも同様の理由だろう。
意外なのは浪曲(浪花節)から一人も認定されていない事だ。私見だが澤孝子なぞは十分に資格があると思うのだが。浪曲は伝統芸能として認められていないのだろうか。
それなら伝統芸能とは言えない新派から喜多村緑郎と花柳章太郎が人間国宝になっているのは理屈に合わない。

どうも「人間国宝」というのは、分かっているようで分からない事が多い。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2013/02/10

上野「ぼたん苑」

2月9日、上野東照宮で1月から2月中旬まで開かれている「ぼたん苑」を鑑賞。
ガラにもない所へ行ったのは、妻から同行を求められてのこと。「牛にひかれて」ナントヤラです。
どうも草花にはあまり興味がなく無粋な性格なもんで、しょっちゅう叱られている。
上野には頻繁に行ってるのに、そういえば東照宮という所を訪れてことがないなぁと思い立ち、今回付き合った次第。
冬の牡丹(寒牡丹)というのは新春を祝う花だそうで、雪よけのワラ囲いの中に寒さに耐えながら咲くという。健気なんですね。
この「ぼたん苑」には600本の牡丹が咲いているそうで、季節が遅くなってしまい盛りが過ぎていたのが残念だが、それなりに美しい。
場所は動物園の脇で、ここが入り口付近。
Imgp1002

以下、牡丹の画像の数々を紹介します。
Imgp1013

Imgp1016

Imgp1023

Imgp1025

Imgp1030

Imgp1032

Imgp1035

Imgp1040

Imgp1042

Imgp1050

Imgp1053

Imgp1059

これは「木賊(とくさ)」で初めて見た。
良く落語で色白の美女を「雪に鉋をかけ木賊で磨いたような」という形容をするが、その木賊。
Imgp1052

ぼたん苑を出て、東照宮の社殿だと思って近寄ったらただいま工事中。
なんのことはない、工事のパネルに実物大の絵が描かれていたのだ。
まるで落語の「だくだく(書割盗っ人)」だね。
Imgp1062

これが五重塔。こっちは本物。
Imgp1063

「銭湯で上野の花の噂かな」の季節には、もう一度公園内をゆっくり回ってみようと思った。
気が変わらなければの話だが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011/05/22

「ゴーストライター」は日本文化

5月17日に発売された週刊誌「FLASH」が、2008年にNHKが放映した大河ドラマ『篤姫』の脚本が、実は田渕久美子の手によるものではなく、兄でコピーライターの田渕高志が執筆していたと報じているそうだ。
私設秘書の証言とのことで、今のところNHK側や田渕久美子側からの反論は出されていない模様。
この人は、いま放映中の大河ドラマ『江 ~姫たちの戦国~』の脚本家だそうですね、観てないけど。
世間にはよくあることだし、脚本家も替え玉も双方が了解しているのであれば、問題にされることはない。
局側だって知っていながら知らないそぶり。
誰の迷惑にもなっていないし。

ゴーストライターが最も日常化しているのは、科学技術の世界だろう。
仮にAという大学教授と、その弟子のBが共同執筆して書籍を出したとしよう。
もしAがその一部を書き、残りの大部分をBが書いた場合は、その書籍の執筆者はA単独となる。
全てをBが書いた場合は、執筆者はAとBの共著になる。
これは「お約束」であり、少なくとも私が現役時代の数年前まではそうであったし、今でも続いていると思う。
科学誌に掲載された論文でも同様で、ある高名な大学教授が書かれた論文について教えを乞うべく訪問したら、自分では分からないからと、執筆した弟子をその場によんで説明させていた。
大先生は、論文自体をあまり読んでいない様子だった。
そげなモンです。

以前に「ポスドク」について書いたように、特に企業においては博士論文の替え玉はそう珍しくなかろう。
上司の命令とあっては部下は逆らえないし、考課に響くとなれば部下はせっせとゴーストライターを務めるしかない。
博士は博士でも、「下駄博士」。
文学の世界でもゴーストライターが存在することは夙に知られており、かつて文藝春秋社長であった池島信平が、菊池寛のゴーストライターであったことを晩年に告白したのは有名な話だ。
この手の逸話は世間から非難されるより、むしろ美談として扱われる。
作詞や作曲といった音楽の世界でのゴーストライターの存在は、ここに書くまでも無いことだ。

欧米など海外はいざ知らず、日本においてはゴーストライターが違法だという認識は左程ない。
当人同士が承知していれば構わないというのが、一般的な見方だろう。
例えていえば、大相撲の八百長問題みたいなもので、それほど責められることではない。
いちいち詮索するなんざぁ、「きくだけ野暮で、鳴く鳥ぁ矮鶏(ちゃぼ)だ。」ってこと。

お断りしておくが、当ブログの記事にはゴーストライターはいませんぜ。
(文中敬称略)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/06/02

その「ローソン・チケット」が不便なのだ

ローソンのチケット販売子会社「ローソンエンターメディア」(LEM)の資金不正流用事件で、東京地検特捜部は6月1日、同社元専務の山岡武史容疑者と、取引先の企画会社「プレジール」元社長の竹原章介ら3名を、会社法違反(特別背任)容疑で逮捕した。損害額は約115億円に上る。
トンネル会社をつくって売上金をプールし、食肉取引への投資で利益を上げようとしたが失敗し、穴をあけたものだ。
コンビニ業界というと細かな商売をしているというイメージが強いのだが、こんないい加減なことをしていたのかと、驚きだ。
加盟店はさぞかし怒っているだろう。

寄席や芝居がすきなことからプレイガイドにお世話になることが多く、いくつかの会員になっている。
それでローソン・チケット「ローチケ」にも入会しているのだが、これが不便なのだ。
インターネットで申し込みコンビにの店頭で引き取る場合、他のプレイガイドでは端末にチケット引換え番号(電話番号が必要なケースも)を入力するか、番号をレジに提示してチケットを受け取ることができる。
引き取りは開演直前まで、いつでも可能だ。

これがローチケでは全く異なる。
先ずチケットの引取りが4日以内となっていて、これが不便だ。
変なのは但し書きで、「万一上記期間にお引取いただけなかった場合でも、公演日前日までお引取り
可能です。」とあり、それなら最初から引き取り期間を延ばせばいいのだ。

クレジットカードでの支払いの場合、申し込みの時点で認証を行うのだが、ローチケではその上に、チケットを引き取る際にもう一度カードを持参して認証をしなくてはいけない。
どうしてローソンだけ二重の手続きが必要なのか、理由が分からない。

端末の入力でもローチケだけは、
・申し込み時の暗証番号の入力
・氏名の入力
が必要だ。
チケットを申し込むときに会員番号と暗証番号は入力しているわけで、引き取りでさらに別の暗証番号がなぜ必要なのか、これも理由が分からない。

セキュリティーが厳重だということだろうが、とにかく手続きが面倒なので、結果としては年に1-2回しか利用していない。
そんな厳重な企業で、なぜこれほど多額な流用が可能だったのだろうか。
もしかしたら利用者には厳しいが、身内には甘い企業体質なのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/05/21

「篠山紀信の略式起訴」はやはり疑問だ

6月20日東京区検は墓地で公然とヌード写真を撮影したとして、写真家の篠山紀信氏を礼拝所不敬と公然わいせつ罪で略式起訴した。
起訴状によると、篠山氏は2008年10月15日夜、東京都港区の都立青山霊園内などで、女優を全裸で写真撮影したとされる。女優は指示に従っていたとして不起訴(起訴猶予)となった。
3日前に、当ブログに掲載していた『「篠山紀信」屋外ヌード撮影で送検は疑問だ』の記事を削除していて、たまたま今回の検察の処分と時期が重なってしまった。記事の削除は突然アクセスが異常に増えたので、リンクをたどると、大半が不適切なアクセスであることが判明したための処置だった。
撮影の際にモデルを墓石に立たせたことが大きく採りあがられているようだが、問題は公然わいせつ罪と表現の自由との関係だ。
結論からいうと、今回の検察の略式起訴という処分には、やはり大きな疑問を抱かざるを得ない。

今回の件で篠山紀信氏はメッセージを出しているが、この中でこう述べている。
「40年間ずっとこの手法で撮影を続けてなんのお咎めもなかった」
「だが警察の見解は『100%見られないように出来ない裸はこの罪(註:公然わいせつ罪)にあたる』の一点張りだった」
「これ以後、戸外のヌード撮影は一切出来ないのだろうか。・・・野外に完全密室などありえない。」
そして、こう危惧している。
「そして、この事件がきっかけになって、創造のエネルギーが抑止され、表現することが窮屈になってしまわないだろうか。」
「一連の捜査報道は、表現の萎縮効果を生みかねない。一度壊されてしまうとこの自由は、修復にとてつもない時間とエネルギーを要する。」
私もこれらの主張に賛成だし、その通りだと思う。

この世の中で最も美しいもの、それは人間の身体ではあるまいか。
だからこそ古今東西、絵画や彫刻、写真芸術などでヌードが主要なテーマとしてとりあげられてきたのだろう。
Photo
私見だが、ヌードはとりわけ自然の中でその美しさ、魅力が際立つ。
しかし屋外で撮影する以上、外部から100%遮ることなど不可能だ。
そうなると、例えば下のような写真は、これから日本では撮影出来ないということになる。
Nude1

公然わいせつ罪というのは、本来は公衆の面前で性器や性行為を見せることを取り締まる法律だったはずだ。
それを人気のない深夜に、目隠しや見張り役をおいた上で、モデルが長くて1-2分ガウンを脱いで撮影していたことを罪に問うのは、あまりに拡大解釈し過ぎだ。
それより警察も検察ももっと凶悪事件の解決に力を注ぐとか、小沢一郎のような巨悪に対して厳しく捜査するとか、他にやるべきことがあろう。
限られたマンパワーをもっと有効に使ってほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/04/13

井上ひさしさんのこと

作家で劇作家の井上ひさしさんが4月9日に亡くなった。
75歳は未だ若い。
お目にかかったことはないが、いちファンとしてとても悲しく残念だ。

山形県出身の井上ひさしさんは、戦前の左翼運動にかかわって投獄されその時の拷問が原因で死亡した父親と5才で死別。
戦後は養護施設で暮らした時期もあった。
だから反権力は身体に染み付いている。
戦後の悲惨な生活が、その後の平和運動につながってくる。
しかし井上さんの作品では、そうした怒りをストレートに出さずに、いったん「明るい自虐性」というオブラートに包んだうえで、笑いにかえて表現している所に最大の特長がある。
彼の作品の笑いの裏には常に怒りと悲しみがあるのは、そのためだ。

初期の小説には自伝的要素が多いのだが、貧しい子ども時代や地方出身であることの劣等感と、東京への屈折した憧れがない交ぜになっているかに見える。
直木賞を受賞した「手鎖心中」では自身の体験とは対極的な江戸の“粋”を描き、代表作である「吉里吉里人」では望郷と権力の象徴としての東京に対する反発がテーマになっているが、両者は表裏一体だ。

井上ひさしといえば、むしろ戯曲作者としての名声が高い。
私は芝居が好きで、こまつ座の舞台も何度も観ているが、いつも作品のレベルの高さに感心する。
特に「評伝」ものに偉才を放つ。
舞台の「放浪記」ではスッポリ抜けている林芙美子の戦争協力をテーマにした「太鼓たたいて笛ふいて」や、左翼運動にシンンパシーを持ちつつ自身の弱さに引きずられていく太宰治を描いた「人間合格」などの作品が、とりわけ印象に残っている。
コトバ遊びと音楽と笑い、その裏の哀しみ、井上作品は常にエンターテイメント性に溢れている。
執筆にあたっては膨大な資料を読み込み、考証を重ねつつ綿密な脚本を書いているのだが、そこには必ず作者・井上ひさしが顔をのぞかせている。
文学の中で一段低く見られがちだった劇作という分野の地位を高めた点でも、井上ひさしの功績は大きい。

この4月から、新国立劇場で井上ひさしの「東京裁判三部作」が上演されるが、大変な人気でチケットを取るのに苦労した。
井上さんは亡くなったが、作品はこれからも生き続ける。

心よりご冥福をお祈りする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/08

「笑いのかたち」(11/7 13時)@国立小劇場

11月7日は「伝統芸能の技・笑いのかたち」を観に国立の小劇場へ。
目的は喬太郎の「時そば」を聴きたかったからだ。考えてみればゼイタクな話ではある。
2回公演の13時の回を観賞。

<番組>
民俗芸能「高千穂神楽」  
三田井浅ヶ部神楽保存会(宮崎県西臼杵郡高千穂町)
・鈿女
・住吉
・御神体
・手力雄
神楽というのは近所の神社でみたことはあるが、本格的なものは始めてだ。
今回の公演「高千穂の夜神楽」は、主に神話(古事記などの)を題材にした仮面劇で、国の重要無形民俗文化財に指定されている伝統的な芸能。
実際の上演には丸一日かかるのだそうだが、今回のそのごく「さわり」だけ。
この中の「御神体」は、古事記のイザナギノミコトとイザナミノミコトの国造りを描いたもの。
二人が舞を踊った後にドブロクを酌み交わし、二人酔ってくると抱き合ってなにやらアヤシイ動きをするというエロチックなもの。
現地では子どもが寝静まった深夜に行われるというのも分かる。
神様というよりは農家の夫婦の営みといった風情だ。
男が持つ杵は男根を、女が持つ桶やザルは女陰を、それぞれ象徴している。
古代の日本人の性の扱いが大らかだったということを示しているのだろうか。

邦楽・新内節「不心底闇鮑(ぶしんていやみのあわび)不心中」  
浄瑠璃 富士松魯遊 
三味線 新内勝史郎 
上調子 新内勝志壽
新内の「笑い」というのは意外な感じがするのだが、心中ものに対する一種のパロディである「不心中(心中しない)」がテーマ。
落語の世界では「品川心中」や「星野屋」といった不心中を扱った名作があるが、いずれも女の方が騙すというもの。
この作品ではその反対で、遊女が本気になり客の男が逃げ出すというストーリーはなかなか面白かった。
ただ新内といえばウットリするほどの美声というイメージからすると、語りの富士松魯遊、この道の重鎮だそうだが、声が引っ掛かるのだ。
場内から「名調子」と掛け声に、隣席の女性が「名調子かしら」とつぶやいていたが、私も同感だった。

落語「時そば」
柳家喬太郎
この会に最も相応しくない芸人という自己紹介から入って、マクラは立ち食い蕎麦の話から。
B級グルメ好きの喬太郎らしいウンチクが披露され、場内は一気に落語の世界に。4時からの会に出演する白鳥の芸をいじりながら本題へと、全く淀みがない。
蕎麦をすする所を見せ場にして、オーソドックスな演出の「時そば」だ。
二人目の男の、不味い蕎麦を食べるシーンをたっぷり演じて、予定時間を延長しての熱演だった。
客層からすると喬太郎を始めて見た人もいただろうが、場内はけっこう喜んでいた。
もしかすると、私同様に喬太郎目当ての客が多かったのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)