ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (訳)「サピエンス全史(上・下)文明の構造と人類の幸福」 (河出書房新社 2016/9/8初版)
話はそれるが、落語に『胴切り』というネタがある。侍の試し切りで、男の胴と足が真っ二つ。上半身の胴は銭湯の番台で、下半身の足は蒟蒻屋でそれぞれが働くというストーリーだ。これが架空の話だと思っていたが、どうやら現在の技術で実現可能なのだ。
2008年にバイオニック生命の技術を使って、米国のノースカロライナ州のアカゲザルが椅子に座ったまま、日本の京都にあるバイオニックの足を思考で制御する実験に成功した。
ね、凄いでしょ。
でもこのまま技術が進んでいけば、私たち人類(ホモ・サピエンス)の未来はどうなっていくのだろうか。やがて、私たち人類を超えた別の人類が生まれるかも知れない。
7万年に及ぶサピエンスの歴史を振り返って、未來を考えていく事の重要性を本書は訴えている。
上下で600ベージになる本書はタイトルだけ見ると専門書のように見えるが、文章は平易で読みやすい。
以前から娘に薦められていたのだが無視していたら、とうとう「さあ、読みなさい」とばかり本が届けられた。仕方なく読み始めたが、これが面白い。夢中になって読了してしまった。
人類がこの地球に誕生した時には、サピエンス以外のいくつかの人類が存在していた。しかし他の人類が全て絶滅したが、サピエンスだけは生き残った。いや、他の人類だけでなく地球上の大半の生物を絶滅に追い込み、牛や豚、鶏、羊といった食料に必要なものだけを家畜化してきたのがサピエンスの歴史だ。
では何故サピエンスだけが生き残れたのか。それはサピエンスだけが「虚構」を信じることが出来たからだと著者は主張する。
他の人類では集団の人数が数百名が限度だったのに、サピエンスだけは数千名から数万名の集団が一つにまとまることが出来た。
例えばここに1本のバナナがあるとする。今このバナナを食べるのを我慢すれば、やがてそれが10本、20本になると。あるいは天国に行けると言われると、サピエンスは信じることが出来た。神を国家を帝国の存在をサピエンスは信じることができた。「1万円」と書かれた紙片を、なんの疑いもなく1万円と信じて使うことが出来る、これがサピエンスの特質だというのだ。
次に1万年前から始まった「農業革命」が、サピエンスの生活を一変させる。それまで小さな集団で移動しながら狩猟生活を送っていたが、農耕生活を送るために一定の土地に定住するようになり、単位面積当たりに暮らせる人数が爆発的に増加する。同時に統合への道を歩み始める。その推進力をなったのは、貨幣と帝国、そして宗教(イデオロギー)だった。
500年前に起きた「科学革命」はサピエンスのみならず、地上のあらゆる生命の運命を変えてしまった。そのきっかけは、サピエンスが無知であることを認めたからだと著者はいう。自らの無知を認めることにより、貪欲に知識を求めることが出来た。科学は政治と経済相互に依存して発達してきた。それらを最も効率的に動かしてきたのが資本主義と帝国主義とだと著者は主張する。
人類は進歩し全体的には生活は豊かになってきた。しかし果たして人類は幸せになったと言えるだろうかと著者は反問する。進歩が幸福と結びつくためには科学は何をなすべきだろうかと。
今ヒトゲノムの解析技術が進歩し、ネアンデルタール人を生み出すことも既に可能となっている。
遺伝子組み換え技術により、通常の何倍もの記憶力を持つマウスもできた。本来は乱交であるマウスを一夫一婦制のマウスに変えることもできた。
これらの技術がヒトに利用されることは、倫理や政治上の制限から禁止されている。しかし、認知症を発症しない、病気に罹りにくい、といった効果が期待された場合、果たして禁止し続けられるだろうか。
また、倫理感や政治体制というのは流動的なものだ。
フランケンシュタインが生み出される日も、そう遠くないかも知れない。
最後に著者は、私たちが直面している疑問は「何になりたいのか」ではなく、「何を望みたいのか」だと結んでいる。
一読の価値のある著書である。
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