文化・芸術

2022/09/08

”『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかった”記事への補遺

前に掲載した”『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかった”は、『図書』に掲載された田淵句美子の推論を紹介したもの。
この推論に納得できたのは、定家の編んだ歌集が、蓮生からの依頼だったという点だ。蓮生が幕府の重鎮であったことや、定家の置かれた立場からすれば、後鳥羽院と順徳院の2首を採らなかったことは説得力がある。これ以前に定家が編んだ勅撰和歌集にもこの二人の和歌は採られていない。
この事から百人一首が定家が編んだものではないだろうという推論は成り立つ。
それでは仮に後世の人が百人一首を編んだとして、百人秀歌の101首から97首を採っているなら、後鳥羽院と順徳院の2首に加えもう1首はどの和歌を採ったのかが田淵の記事では触れていない。
詰るところ、百人一首がいつ誰が編んだかは不明である以上、後鳥羽院と順徳院の2首をどの様な理由(あるいは事情)で加えたのかが依然謎だ。
百人一首の編者が不明なうちは、結論はでないのだ。

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2022/09/06

『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかった

『百人一首』の撰者は藤原定家というのが定説となっていたが、以前から専門家の間では異論があった。
月刊誌『図書』9月号に、田淵句美子が以下の様に推論している。
70年ほど前に宮内庁書陵部、近年では冷泉家から、『百人秀歌』が発見された。『百人秀歌』と『百人一首』では97首までが同じだが、巻末歌の2首が異なる。『百人秀歌』には『百人一首』に採られている後鳥羽院と順徳院の2首がない。
後鳥羽院と藤原定家は共に新古今時代に出合い、互いに才能を認め合いながら、やがて対立してゆく。承久の乱で後鳥羽院は討幕の側に立ち、敗れて隠岐に流され、二人は二度と会うことはなかった。
定家は勅命を受けて『新勅撰集』を編むが、ここには後鳥羽院とその子順徳院の歌は、1首なりとも採用していない。
定家の『明月記』の文歴2年(1235年)5月27日の記事で、蓮生(宇都宮順綱)からの依頼で、古来の人の歌各1首を、蓮生の山荘の障子を飾る色紙形(しきしがた、歌を1枚の色紙に揮毫したもの)を書いて送ったとある。これが従来は『百人一首』とされてきたが『百人秀歌』と見るべきだ。
蓮生は定家の嫡男である為家の義父であり、幕府の有力な御家人にして重鎮、幕府執権の北条一族とは縁戚関係にある。その様な人物からの依頼で編んだアンソロジーに、幕府と戦い敗れて配流されている後鳥羽院や順徳院の歌を撰ぶ筈がない。
ここまでで、『百人一首』の撰者は藤原定家ではなかったことが分かる。
『百人一首』は又、『小倉百人一首』と呼ばれているが、これは小倉山の麓にある定家の山荘の障子を色紙形で飾ったとされていたからだ。しかし当時の定家の山荘は荒れ果てていて、定家は殆んど住んでいない。先に記したように色紙形を飾ったのは蓮生の山荘だ。
『百人一首』は定家が編み出した技法、即ち勅撰集から1首づつ選んで百首とし、カテゴリー別の配列にせず、時代順に歌人と歌を並べるという斬新な技法をそのまま受けついでいる。古代から中世前期までの長い和歌の歴史を感じることができ、序詞、枕詞、掛詞、縁語、歌枕といった和歌のレトリックが詰め込んであるので、初学者のテキストには最適だ。
それでは『百人一首』は誰が編んだのかという問題だが、分からない。
『百人一首』が初めて文献として出てくるのは、南北朝期だ。人々の話題にのぼるのは、15世紀末になる。
鎌倉時代中期以降に誰かが編纂したものだろうというのが、今の所の推定だ。

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2022/07/12

三人の女性の「敗戦日記」

月刊誌『図書』7月号に、斎藤真理子「三人の女性の『敗戦日記』が掲載されている。
いずれも日本が敗戦となった1945年の日記だ。
一人目は、作家の野上弥生子で当時60歳。北軽井沢に疎開していた野上は、畑仕事や炊事をこなし、息子たちの家族がおとずれれば孫を含む大所帯の世話をやき、その傍ら読書を続けてた。
驚くのはその食生活で、甘いもの好きな夫のために揚げまんじゅう、汁粉などを作っていた。大分の実家からは味噌、醤油、塩が送られてきて、米も豊富で白米をまとめて炊いて、おにぎりや弁当にして近所に配った。「しかし白米のご飯をもてあまして、他人に食べて貰うということは、今ではよそではできないゼイタクさであろう」と日記に書いているが、ある所にはあるもんだと感心するしかない。
5月7日の日記には、「こんな家事的なゴタゴタした数日のあいだに、ヨーロッパはすっかり別の姿になった」として、ムッソリーニの最期やヒットラーの死(この段階では戦死とされていた)いついて書いている。「ヒットラーは、自分に偶然にあたった弾丸に感謝すべきであろう」と手厳しい。
二人目は、後に家事評論家となる吉沢久子、27歳。住んでいた家は、後に夫となる評論家の古谷綱武の阿佐ヶ谷の家で、出征した古谷から頼まれて、「あくまで東京に踏みとどまって、外部のさまざまな変化から心持の変化まで、出来るだけ詳しい記録を残してくれること」を依頼される。
1945年3月になると、毎日新聞の記者だった綱武の弟綱正が、社員寮が爆撃で住なたくなったので、同僚と共に阿佐ヶ谷の家にやってくる。以後は、男性二人の下宿人の寮母の様な立場で奮闘し、ヤミの食材の調達に手腕を見せる。
電車で神田の事務所に通いながら、不規則な新聞記者の面倒を見るのは大変だったろう。一方でジャーナリストが傍にいるので、情報が伝わるのが早かった。
5月9日の日記では、「今日は各新聞がいっせいに大ニュースとして『独全軍が無条件降伏』を発表新聞記者の皆さんから何となくきいていたので驚きはなく、むしろ私の気持ちは軽くなった。日本はこれからどうしてゆくのだろう。ソ連と手を結んでゆくのかだろうか。私には分からないことだが、偉大な外交官がいてくれたらと思う」と書いている。
三人目は後に作家となる田辺聖子、この年に18歳となる学生だった。ドイツの降伏という事態に対して、5月23日の日記にはこう書いている。「日本の国民は違う。ドイツは遂に屈したが、日本はあくまで一億が玉砕するまで戦うであろう」
田辺はその頃、勤労学徒として寮に住み込み、航空機の部品を作っていた。野上や吉沢にあったような情報力は田辺にはない、食料もない。7月29日の日記には、「米はこの頃足りず、大豆をすりつぶしてメリケン粉と混ぜた代用品食ばかり作っている」とある。こちらの方が、当時の食料事情として一般的だ。
8月15日の日記には、「何事ぞ! 悲憤慷慨その極みを知らず、痛恨の涙、滂沱として流れ、肺腑は抉られるばかりである」「嗚呼日本の男児何ぞその意気の惰弱たる」と文語体で書かれている。
10代で敗戦を経験した人の率直な気持ちが表れている。同時に、前の二人と比べ、情報リテラシーの差を感じるのだ。
その一方で、ドイツの降伏に際して野上が書いた、「これで日本が全世界を相手にイクサすることになった」。ソ連の参戦に際して田辺が日記に「いよいよ、日本は世界を相手に戦うことになった」と記している。年齢も置かれている状況も異なるにも拘わらず、日本の孤立ぶりを同じ様に書き残している点は興味深い。

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2022/03/22

近ごろの日本ちょっと変だぜ

札幌で開催予定だった文学展「疫病とロシア文学」が延期となった。理由は参加者に危害が加わる恐れがあるから。東京のロシア食材店の看板が破壊されたことから、主催者が自粛したとのこと。
この文学展は、19世紀のロシアで科学的な考えが浸透するなかで、文学者が疫病をどう表現してきたかを紹介する内容だった。コロナ感染下の日本にとっても時宜を得たテーマだったと思う。
現在のロシアへの非難と、ロシア文学や文化に関心を持つこととは全く別の問題だ。
こういう事が理解できない人間は、戦時中に「鬼畜米英」さけび、英語を話すことや、英米の音楽を聴くことを禁じた精神構造と同じだ。そういう連中に限って、戦争に負けるやいなや「アメリカ万歳」に変身してしまった。
月刊誌「選択」3月号の巻頭で、ロシア人作家のボリス・アクーニンがこう語っている。
プーチンの強権的な政治支配は、やがてロシアがソ連崩壊に続く、第二の崩壊に導くと。
反面、プーチン時代のプラス面として、ロシア人の日本への関心が激増した。誰もが日本食や日本アニメを愛し、日本文学を読むようになり、俳句を作る。日本人とロシア人は気質やメンタリティーが近いと思うと述べている。
こういう時だからこそ日本とロシア双方が、お互いの国の実情や国民性を理解し合うことが大切ではあるまいか。

 

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2022/01/26

世界遺産を有難がる時代は終わった

佐渡金山の世界遺産登録をめぐって国会でも質疑にとりあげられていたが、それほどの問題なのかと思ってしまう。
あらためて日本の世界遺産の登録リストを見てみると、17件となっている。他に登録の候補となる暫定リストに佐渡金山を含めて5件。それとは別に、文化庁が文化遺産を公募したところ、各地方から数十件の応募があった。
これだけ拡がってていくと、有難みも薄れる。
世界遺産登録の目的の一つに観光の振興があるが、登録直後は観光客が押し寄せたが、その後は閑古鳥という例もあるらしい。魅力がなければ人は集まらないのは当然のこと。
例えば京都、コロナ以前は世界中から観光客が訪れていたが、仮に京都が登録から外れていても状況は変わらないだろう。
海外のあちこちに行ってみると、「ガッカリ世界遺産」に数多く出会った。説明を受けてもその価値が分からない。
反対に、素晴らしい景観や文化的価値がありながら、世界遺産に登録されていない例も沢山見てきた。
現在、世界遺産に合計1,154件登録されているが、世界遺産条約締約193か国中、1件も登録物件を持たない国が27か国ある。以前の日本もそうだったが、国によっては登録を申請しない方針の所もある。
ドイツのドレスデン・エルベ渓谷は、かつてユネスコの世界遺産に登録されていた。その景観の美しさは勿論のこと、ドレスデンの市街地は第二次世界大戦の末期に、連合軍の空爆により一面瓦礫の山と化した。市民はその瓦礫を集めて組み直し、戦前の街の姿を再建した。この景観には誰しも感動する。
Before
After
処が、市民の生活のためにエルベ川に橋を1本架けようとしたら、世界遺産を取り消すと言われた。住民投票の結果、市民は世界遺産より橋の建設を支持し、登録は取り消された。私がドレスデンを訪れたのは、世界遺産が取り消された後だったが、大勢の観光客で賑わっていた。登録が削除されても、ドレスデンの歴史もエルベ川の景観も、何も変わっていないからだ。ドレスデン市民の心意気に拍手を送りたいと思う反面、いったい世界遺産って何の意味があるのだろうかという疑問を抱いた。
観光に寄与しようとしまいと、伝統文化を保存し継承してゆく努力はせねばならない。日本には、文化財の保存・活用と、国民の文化的向上を目的とする「文化財保護法」があり、この法律に基づき伝統文化を守っていけば良いのだ。
もうそろそろ、世界遺産を有難がる風潮は見直した方がいい。

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2021/02/19

京都芸大「セクハラ裁判」のトンデモ判決

いささか旧聞に属するが、前から気になっていた判決だったので、学問の自由の観点からとり上げてみたい。
概要は以下のとおりだ。

京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の公開講座で、講師からわいせつな作品を見せられ精神的苦痛を受けたとして、受講した女性が大学側に約330万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が4日、東京地裁(伊藤繁裁判長)であった。判決は、わいせつな作品を受講生に見せたことを「セクハラにあたる」と認定。大学側に対し、講義内容を事前に告知するなどの義務を怠ったとして、約35万円の賠償を命じた。
判決によると、大学側は2018年、ヌードをテーマに講師を招いて全5回の講座を都内で開催。その中で、美術家の会田誠氏は四肢を切断された全裸の少女の絵などを、写真家の鷹野隆大氏は全裸の男性の写真などを1~2時間にわたりスクリーンに映した。
判決は、2人の作品が「露骨な表現で、正常な性的羞恥(しゅうち)心を害するわいせつ性がある」と指摘。受講生が成績評価を受けるには出席が欠かせないことをふまえ、「作品を見るよう強要されたセクハラだ」と判断した。その上で、作品を講義前に確認した大学側はセクハラを予見できたとして、「退室可能なことを事前に告知するべきだった」と認定した。講座を受けたことと、女性が患った急性ストレス障害の因果関係も認めた。
(asahi.com 2020/12/4付より引用)

これがなんでトンデモ判決かというと、理由は以下のとおり。
①もしこの講義内容が例えば高校の美術の授業で行われたとしたら問題だが、この場合は大学の公開講座であり、受講するのは自由であること。
②講座のテーマは「人はなぜヌードを書くのか」で、問題となった第3回のテーマは「ヌードあれこれ話」で、内容説明では「芸術と対立概念になりそうなポルノの話、第二次性徴期の話、フェミニズムの話などは避けて通れない」とあったとのこと。受講者はこれを承知で受講した筈だ。
③原告の女性は京都芸大の卒業生であり、自身も美術モデルであることから、この会の講義のテーマや講師(会田誠、鷹野隆大)から予め内容は予測できただろう。
④大学が受講者に講義内容の告知義務を怠ったという判決理由だが、もし講師の講義内容を事前にチェックし受講者に告知する義務を負わせるなら、大学が講義内容を事前にコントロールすることとなり、学問の自由への明らかな侵害である。

本判決に対して表現の自由や学問の自由を主張する側から、あまり批判の声が上がっていないのは不思議だ。

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2020/12/08

反戦川柳作家「鶴彬」

12月8日付東京新聞に「鶴彬獄死の末にある戦」というタイトルの社説が掲載された。この見出しは「つるあきら ごくしのすえに あるいくさ」という五七五の俳句の形式になっている。79年前に日本が太平洋戦争に突入した日に鶴彬(つるあきら)の業績を通して言論弾圧について記したものだ。

鶴彬は本名・喜多一二(きたかつじ)。 明治42年(1909年)、石川県高松村(現かほく市)生まれ 。 15歳で川柳界にデビュ ー。大阪の町工場で働きながら、“プロレタリア川柳”を発表する。 川柳界の権威・井上剣花坊に師事し21歳で兵役。しかし機関誌「無産青年」を軍に持ち込んだとし、治安維持法違反により懲役2年の実刑判決を受ける。 出所し除隊後に多くの反戦川柳を発表する 。 昭和12年(1937年)12月3日に治安維持法違反の嫌疑で特別高等警察に検挙され、東京都中野区野方署に留置された。たび重なる拷問や留置場での赤痢によって、昭和13年1938年9月14日に29歳の若さで世を去った。
川柳の世界でも当時は国威発揚のものが主流となっており、新聞の「川柳」欄の選者になっていたような大御所たちは、むしろ鶴彬を排除する側に動いた。
今も政府による「日本学術会議」の任命拒否について、一部の学者が政府を支持する主張を行っているのと同様である。
故郷の石川県かほく市高松には鶴彬の句碑が建てられているが、これには同郷だった自民党の国会議員だった小川半次氏の尽力があったという。昔はこういう立派な自民党議員がいたということだ。

鶴彬作の代表的な川柳は次の通り。
 銃剣で奪った美田の移民村
 半島の生れでつぶし値の生き埋めとなる
 ユダヤの血を絶てば狂犬の血が残るばかり
 ざん壕で読む妹を売る手紙
 召集兵土産待つ子の夢に見る
 枯れ芝よ!団結をして春を待つ
 暁を抱いて闇にいる蕾
 高粱の実りへ戦車と靴の鋲
 屍のゐないニュース映画で勇ましい
 万歳とあげて行った手を大陸において来た
 手と足をもいだ丸太にしてかえし
 胎内の動き知るころ骨がつき

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2019/06/22

【書評】サピエンス全史(上・下)

ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (訳)「サピエンス全史(上・下)文明の構造と人類の幸福」 (河出書房新社 2016/9/8初版)

話はそれるが、落語に『胴切り』というネタがある。侍の試し切りで、男の胴と足が真っ二つ。上半身の胴は銭湯の番台で、下半身の足は蒟蒻屋でそれぞれが働くというストーリーだ。これが架空の話だと思っていたが、どうやら現在の技術で実現可能なのだ。
2008年にバイオニック生命の技術を使って、米国のノースカロライナ州のアカゲザルが椅子に座ったまま、日本の京都にあるバイオニックの足を思考で制御する実験に成功した。
ね、凄いでしょ。
でもこのまま技術が進んでいけば、私たち人類(ホモ・サピエンス)の未来はどうなっていくのだろうか。やがて、私たち人類を超えた別の人類が生まれるかも知れない。
7万年に及ぶサピエンスの歴史を振り返って、未來を考えていく事の重要性を本書は訴えている。

上下で600ベージになる本書はタイトルだけ見ると専門書のように見えるが、文章は平易で読みやすい。
以前から娘に薦められていたのだが無視していたら、とうとう「さあ、読みなさい」とばかり本が届けられた。仕方なく読み始めたが、これが面白い。夢中になって読了してしまった。
人類がこの地球に誕生した時には、サピエンス以外のいくつかの人類が存在していた。しかし他の人類が全て絶滅したが、サピエンスだけは生き残った。いや、他の人類だけでなく地球上の大半の生物を絶滅に追い込み、牛や豚、鶏、羊といった食料に必要なものだけを家畜化してきたのがサピエンスの歴史だ。

では何故サピエンスだけが生き残れたのか。それはサピエンスだけが「虚構」を信じることが出来たからだと著者は主張する。
他の人類では集団の人数が数百名が限度だったのに、サピエンスだけは数千名から数万名の集団が一つにまとまることが出来た。
例えばここに1本のバナナがあるとする。今このバナナを食べるのを我慢すれば、やがてそれが10本、20本になると。あるいは天国に行けると言われると、サピエンスは信じることが出来た。神を国家を帝国の存在をサピエンスは信じることができた。「1万円」と書かれた紙片を、なんの疑いもなく1万円と信じて使うことが出来る、これがサピエンスの特質だというのだ。

次に1万年前から始まった「農業革命」が、サピエンスの生活を一変させる。それまで小さな集団で移動しながら狩猟生活を送っていたが、農耕生活を送るために一定の土地に定住するようになり、単位面積当たりに暮らせる人数が爆発的に増加する。同時に統合への道を歩み始める。その推進力をなったのは、貨幣と帝国、そして宗教(イデオロギー)だった。
500年前に起きた「科学革命」はサピエンスのみならず、地上のあらゆる生命の運命を変えてしまった。そのきっかけは、サピエンスが無知であることを認めたからだと著者はいう。自らの無知を認めることにより、貪欲に知識を求めることが出来た。科学は政治と経済相互に依存して発達してきた。それらを最も効率的に動かしてきたのが資本主義と帝国主義とだと著者は主張する。

人類は進歩し全体的には生活は豊かになってきた。しかし果たして人類は幸せになったと言えるだろうかと著者は反問する。進歩が幸福と結びつくためには科学は何をなすべきだろうかと。
今ヒトゲノムの解析技術が進歩し、ネアンデルタール人を生み出すことも既に可能となっている。
遺伝子組み換え技術により、通常の何倍もの記憶力を持つマウスもできた。本来は乱交であるマウスを一夫一婦制のマウスに変えることもできた。
これらの技術がヒトに利用されることは、倫理や政治上の制限から禁止されている。しかし、認知症を発症しない、病気に罹りにくい、といった効果が期待された場合、果たして禁止し続けられるだろうか。
また、倫理感や政治体制というのは流動的なものだ。
フランケンシュタインが生み出される日も、そう遠くないかも知れない。
最後に著者は、私たちが直面している疑問は「何になりたいのか」ではなく、「何を望みたいのか」だと結んでいる。

一読の価値のある著書である。

 

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2018/06/24

沖縄追悼の詩「生きる」

「生きる」
相良倫子(浦添市立港川中学校3年)

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。

この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

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2017/09/04

小林一茶、もう一つの顔

一茶といえば幼い時に実母と死に別れ、継母に虐められて育ちながら、幼子や雀、蛙などの小動物にまで愛情をそそいだ好々爺というイメージがあるが、これと真逆な人間像が存在している。
15歳で故郷を出て江戸に、24年後の享保1年に実父・弥五郎の重病を知り、故郷の北国街道柏原宿に戻る。この時、重篤状態にあった弥五郎から、異母弟の弥兵衛と遺産を二分割する旨の遺書を獲得する。
一茶が不在だった24年間、故郷の生家を守り続けたのは継母と弥兵衛だった。
それが四半世紀も留守にしておいて、いきなり遺書をつきつけ遺産分割を迫る一茶に、継母と弥兵衛は激怒する。
近所同族はもちろんのこと、柏原宿の住民皆が弥兵衛家族に同情し、一茶は村八分同然の身となる。
しかし、一茶はひるむことなく相続を履行する契約証文をとりつけ、最後は江戸訴訟までちらつかせて脅し、粘りに粘る。
この結果、一茶51歳の文化10年には、柏原宿の屋敷真半分と、留守中の家賃元利まで上乗せしてむしり取り、帰住したのだ。
(以上は、月刊誌「図書」2017年9月号に掲載の高橋敏「一茶の遺産相続」を要約)

余談になるが、52歳の時に28歳の妻を娶るが(初婚)、妻は一茶との毎日3回の情交が原因で37歳に亡くなる。
これは、逆『短命』ですね。
一茶はその後、62歳と64歳の時に再婚、再々婚している。

一茶にしても衣食足りてなんとやらで、生活が安定していたからこそ、あれだけの発句が生まれたのかも知れない。
激しい性欲も、創作活動のエネルギーの発露か。

人間というのは実に色々な面を持っている。だから面白いのだ。

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