アウトロー

2008/03/05

「立ち退き」ビジネスは儲かりまっせ

Suruga不動産を買ったのは良いがそこに入居者がいて、住むことも出来なければ取り壊しもできないし、転売しようにも買い手がつかない。この人さえ退去してくれれば、一気に資産価値があがる。普通は転居費用をはずんで立ち退いて貰うのですが、それでもダメな場合は、そのスジの人にお願いする。まあ世間よくあることですね。
東証2部上場の「スルガコーポレーション」(岩田一雄・会長兼社長)が取得した不動産を、大阪市の不動産会社「光誉実業」社長・朝治博容疑者に依頼して入居者を立ち退かせ、解体して転売していたことが発覚しましたが、正に典型的な例ですね。
所有者は転売して儲け、間に入った不動産業者には手数料が入り、暴力団には金が渡され、入居者は多額の立ち退き料が支払われる。かくして関係者全てがハッピーとなり、メデタシメデタシとなるとは限りません。違法な手段で立ち退かせれば立派な犯罪です。

私のサラリーマン現役時代の取引先に、不動産業者がいました。と言っても、社長一人だけの会社ですが。
この人、裁判所の職員と通じていて、適当な競売物件の紹介を受けます。資産価値があるのに入居者がいるため買い手がつかない、そういう問題物件です。
連絡を受けた社長は、その物件を格安で落札します。その後、地元の暴力団に入居者の立ち退きを頼み、無事退去して貰ってこれを転売する。暴力団に手数料を払い、残りが自分の取り分になります。そうそう、情報を流してくれた裁判所職員にも、お礼をせねば。
1年間に2件の物件を扱えば、十分食べていけるそうですから、ボロイ商売ですね。

なかには競売を妨害する目的で、暴力団が入居者を送り込んでくるケースもあります。法外な退去費用をふっかけてくるわけです。
そういう人間を立ち退かせるのも暴力団、つまり攻めるも守るもヤクザということで、何のことはないマッチポンプですね。
こんな事が全国で、日常的に繰り返されているというのが実情でしょう。
だからいつまで経っても、不動産業界や建設業界は暴力団と手が切れない。

不動産の所有権をめぐる法律の盲点、これを改正しないと、これからもこうした不法行為は絶対に無くならないでしょう。

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2007/11/24

ヤクザの一分

Odu_kinosukeこう言うとお叱りを受けるかも知れないが、ヤクザは世の中にとって必要な存在だと私は思っています。ヤクザが社会的責務を自覚して行動してさえしていれば、周囲のカタギの人と共存できる筈です。
以前、銀座のバーのママから、こんな話を聞きました。

彼女が若い頃勤めていたクラブでは、客のツケはホステス持ちになっていた。客の支払いが滞納するとホステスの給料から差し引かれるというシステムだった。高級店になるとツケが月100万円という客もいて、彼女の客で1000万円ツケが溜まったケースがあった。
何度も催促したが埒が明かず、結局地元のヤクザに500万円で債権譲渡した。ヤクザが取り立てに行ったら即刻1000万円支払ってくれたそうだ。
彼女は債権の半額500万円を回収でき、ヤクザは手数料として500万円懐に入れて、双方メデタシメデタシになった。
また、水商売をやっていると性質の悪い客がトラブルを起こして、他の客に迷惑を掛けることがある。そういう時にヤクザに頼むと、彼らは直ちにトラブルを解決してくれ、他の客も嫌な思いをしなくて済む。
ミカジメ料は払っているが、必要経費だと思っている。

飲み屋のツケとなると裁判で取立ては難しいし、かと言ってホステスや店側が全額かぶるのも辛い。
酔客のトラブルにしても、事件でも起きなければいちいち警察を呼ぶわけにもいかない。警官から事情を訊かれたりすれば、お客も嫌な思いをすることになります。
こんな事を引き受けてくれるのはヤクザだけだから、大いに助かるという事なのでしょう。
警察は民事不介入が原則ですから、上のケースはヤクザが民事警察(但し有料)の役割を果たしたということになります。カタギに迷惑は掛けていない。
そんなヤバイ所に近付かなければ良いという意見もあるでしょうが、品行方正ばかりとは限らないのが世の常でもあります。

ヤクザの歴史を紐解いてみると、「博徒」と「的屋」(香具師)に行き着きます。
博徒は文字通り博打打ちで、起源は平安時代に遡るのだそうです。
また、的屋(香具師)の起源は、「古事記」に出てくる火之加具土神(ほのかぐつちのかみ)という説もあるようですから、いずれにしろ古代から存在しているのは確かでしょう。
江戸時代には寺社の境内で賭博を開帳し、収入を得ていました。今でもギャンブルの世界で「テラ銭」という言葉を使いますが、元々は寺で得た金ですから「寺銭」が語源です。
彼らは又、寺社の境内で縁起物を売り手数料を得ていましたし、祭礼の時は会場整理から露天商の取りまとめまで仕切っていました。
そう考えると、江戸時代のヤクザは神社や仏教寺院の経営に貢献していたわけで、日本の伝統的宗教を陰から支えていたことになりますね。

近代において、ヤクザが社会に貢献した例の一つは、戦争直後の新宿の焼け跡闇市でしょう。
終戦から3日目の新聞に、こんな広告が出たそうです。
「転換工場並びに企業家に急告! 平和産業の転換は勿論、その出来上がり製品は当方自発の”適正価格”で大量に引き受けに応ず・・ 新宿マーケット 関東尾津組」
中心人物だった尾津喜之助は、「光は新宿から」というスローガンを掲げて、終戦の8月20日(日にちには異説あり)には、新宿駅周辺の焼け跡にマーケットが立ち並びました。
また、当時無力となっていた警察の代りに新宿の治安を引き受けました。
もちろん不法占拠ですから、東京が復興すると共に小津組も新宿を追われることになりますが、終戦直後の混乱の時期に、「市」を立ち上げ運営できたのは彼らの力に拠るものです。
その後新宿が、東京の商業と文化の中心地として発展したのは、ご承知の通りです。

しかし最近のヤクザは、何たるテイタラクであろうか。
銀行強盗だの偽札作りだの、単なる犯罪集団と化してしまいました。
11月8日に佐賀県武雄市の病院で、入院患者が何者かに射殺される事件が起きました。明らかに暴力団の抗争による人違い殺人と見られていますが、1週間経っても犯人が名乗り出てこない。人間として一片の良心が残っているのなら、直ちに出頭すべきです。
ヤクザの一分、矜持はどこに行ったのか。
こういう世の中に何の役にも立たない、反社会的な存在に成り下がったヤクザ連中には未来はありません。

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2006/06/09

ある女の物語(後編)

Hatakeyama2
娘と二人で暮らし始めたその女にとって、子供をいとおしいと思う反面、そこに分かれた元夫の面影を見ると、疎ましく感じることもある。
女手一つで親子が生きてゆかねばならないから、仕事を始めた。だがどうも長続きしない。女は他人との人間関係を持続するのが苦手だった。もしかすると夫や娘といった家族に対しても、人間関係が保てないのかも知れない、女は次第にそう思うようになった。結局短期間で、転職を繰り返すようになった。
外で仕事をすれば、家庭がおろそかになる。もともと料理が大の苦手だし、家事全般が嫌いだったので、娘との食事はコンビニ弁当か、近くの食堂で済ませた。

そうした女の行動に、周囲の目は段々厳しさを増してくる。女はそれを痛いほど感じると、何だか常に周りから疎外されていた学生時代に戻ったような気がしてきた。
女は寄る辺ない生活を紛らわせるために、パチンコにはまり、金に困ればサラ金、そして最後は自己破産とお定まりのコースを歩み、娘が小学校にあがるころには、生活保護を受けるようになった。

相変わらず男関係だけは派手だった。相手の男の家やラブホテル、そして時には女の自宅で、男達との性的関係を持った。
女は、男達が彼女の体だけを目的にしているのは、十分承知していた。しかし女にとってはそうした時しか、自己の存在感、アイデンティティーが感じられなくなっていた。なにがしかの金を手に得られることも、日々の生活に困っていた女にとっては有り難かった。

男との情事の間は、娘は一人になる。女の自宅が提供される時は、娘はその間家の外に出されることになる。かわいそうとは思ったが、そうするしか方法が無かった。
一軒置いた隣の家に、娘の二つ下の男の子がいて、良く二人で遊んでいた。娘が表に出されている間、家の中に入れてくれて、時にはおやつや食事も与えてくれた。その事には、女は感謝した。
しかしその家の両親から、時には「もう少し娘さんの面倒を見てあげなさいよ。」と忠告を受ける時もあった。周囲の人々も皆同じ思いだったが、本人に直接言ってきたのは、その隣家の親だけだった。
女は言われても仕方ないと思う反面、自分の生活に口出しされると思うと、腹が立った。娘の面倒もこちらから頼んだわけではないし、他人の生活は放っておいてくれ、そうした反発心も抱いた。

ある日娘が下校時間を過ぎても、自宅に戻ってこなかった。夕方になっても姿を見せず、女はその一軒置いた隣家を訪ねた。両親が男の子に尋ねると、下校後しばらく一緒に遊んでいたが、その後男の子だけが自宅に戻ったという答えだった。
深夜になっても戻らず、翌日近くに流れている川の下流で、娘の遺体が発見された。
警察は事故と事件の両面から捜査したが、結局誤って川に転落して水死したとの結論となった。

娘の葬儀に参列した近所の人々の目は、娘を亡くした憐れな母親に対する目ではなかった。男との情事のために、娘を放置してきたこの女に対する深い怒りがそこにあった。
「娘さんは、あんたに殺されたも同然。」という表情が読み取れた。中には露骨にそうしたことを仄めかす者もいた。
「娘の死は事件であって欲しい」と女は真剣に願うようになった。他人の手にかかって殺されたのであれば、周囲の目は一気に同情に変わってくれるだろう、そう思ったからだ。

警察には再捜査するよう、度々要請に訪れた。一向に重い腰をあげようとしない警察に文句を言ったら、「あんたにとっては、事件より事故のほうが気楽なんじゃないの。」と警察官から言われた。警察まで自分を疎外している、その時女はそう感じた。
仕方がないので、娘の目撃情報を得るために手製のビラを作って近所に持っていったが、反応は概して冷淡だった。
娘の水死で警察が捜査に動いた影響から、あれ以来男達もすっかり寄り付かなくなった。
残されたのは、一人ぼっちになった女と、周囲の冷たい目だけだった。

そんな時隣家の親が、生前の娘が写っているビデオテープを持ってきてくれた、再生してみると、娘と隣家の男の子が楽しそうに遊んでいる姿が映し出された。
女は娘の姿に、涙が止まらなかった。何もして上げられなかったことを今更のように思い出し、声を上げて泣いた。
そうしている内に、学校時代からのイジメや疎外感、離婚、転職、サラ金からの督促、自己破産、生活保護に至る辛い思い出が蘇ってきた。
娘を失った今も同情されるどころか、近隣の人たちから警察までみんなが自分を責めている、そう感じた。
そうした数々の思いが、次第にオリのように、女の胸の底に沈殿してきた。

そうして又ビデオを見返していると、普段なら一緒に遊んでくれていた隣家の男の子が、あの日なぜか娘を残して自宅に帰ってしまったことを、ふと思いついた。
何故なんだろうと考えているうちに、隣家の家族に対する憎しみが湧き上がってきた。
今の女の不幸が、まるで隣家に全て原因があるようにさえ、思いつめ始めた。

気が付くと、娘が行方不明になったと思われる時間帯になっていた。
カーテンの開いた窓から、隣家の男の子が一人で歩いて来るのが見えた。周囲には誰もいない。
女は、急いで玄関先に出ると、その男の子に「ねえ・・・」と声を掛けた。

(完)

以上の物語は、もちろん私の完全な創作です。
なぜこの物語を書いたかといえば、秋田の小学校1年生、米山豪憲君殺害事件で、現在畠山鈴香容疑者が逮捕、取調べを受けています。
大変痛ましいこの事件は、まだ全貌が明らかではないのですが、私は特別な人格を持った人間の特殊の犯罪ではないと考えています。むしろ日本中どこでも起こりうる、普遍的な犯罪ではないだろうかとさえ思っています。
親が、あるいは他人の大人が、子供を殺す事件が後を絶ちません。
社会全体が、こうした不幸な事件を少しでも減らすために、何ができるだろうか。この物語を書きながら、その事を考え続けました。

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2006/06/07

ある女の物語(前編)

Hatakeyama
その女はどちらかといえば無口で引っ込み思案な性格だったため、幼い頃から親しい友人が作れなかった。学業もはかばかしくなく、学校に行っても楽しいことなど何も無かった。
最初の転機は小学5年生の時に訪れた。担任の教師がしつけと称して、給食で食べ残したものを手のひらに乗せてまま立たされた。それは教育方針というより、教師から生徒へのイジメとも思えた。

もともと好き嫌いの多かった女は、度々そうした体罰の対象にされた。それを避けるために、給食に出た嫌いなものを自分の机に隠してしまうことにした。時間が経つと机の中の食べ残しは、強烈な臭いを発することになる。「臭い」「汚い」と罵声を浴びるようになり、やがてクラス全体からイジメを受けることになる。
自分の身の回りのことがきちんと整理できない性格もあって、身なりも決して清潔とはいえず、こうした事もイジメの口実となった。
女はますます心を閉ざすようになると、今度は「心霊写真」というあだ名がつき、ますます周囲から疎外された存在となった。

中学、高校と進むが、なにせ狭い地域の中であり、小学生の時の人間関係がそのまま尾を引き、その後も級友からは無視あるいはイジメを受け続けた。
やがて高校を卒業する頃になると、就職を転機に今までの自分を捨てて、新しく生まれ変わろうと決意した。
就職先は県内有数の温泉場にある大きなホテルだった。女はそこで仲居として働いた。
初めて地元のシガラミから抜け出せ、同僚とも新しい人間関係を作ることができた。

女は長身で色白の美形だったから、宴席で度々男の客から声が掛かるようになる。相手の中には性的関係を持つこともあった。バブルという時代背景もあって、小遣いにも不自由をしなくなった。
そうなると女に、人生初めて自信のようなものが生まれてきた。花に吸い寄せられる蝶のように、女の身体を求めて寄ってくる沢山の男達を見ながら、何か自分が生まれ変わったような気分になった。初めて人生の大輪を咲かせたような、弾んだ気持ちに浸れた。
最初は夢中で励んだ仕事だが、ホテルの仲居というのは長時間、重労働で、休みも自由には取れない。遊びたい盛りの年頃の女にとっては、次第に嫌気がさしてきて、結局1年過ぎた頃にホテルを退職した。

嫌な思い出ばかりの故郷だが、女には帰るところはそこしかない。
実家に戻った女は、接客業には馴れていたので、夜は地元のスナックで働くようになった。ルックスも良いし、客あしらいの良かった女に早速馴染みの男性客がついて、間も無くその中の一人と結婚した。新居は実家からも近い新興の県営住宅だった。
そして程なく長女が生まれ、親子3人の家庭ができた。
しかし生来の家事嫌いで、料理も掃除も何もせず、食事は外食かコンビニ弁当という生活に、今度は亭主の方が音を上げた。
やがて協議離婚が成立し、女は娘と二人暮らしの生活を再スタートさせた。

(つづく・・・)
<お断り>この物語はフィクションであり、実在の人物とは関係ありません。

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2005/10/04

身近にあった「人身売買」(その2)

baby
これは人身売買とは云えないかも知れませんが、戦前によくあった「貰い子」の話しです。乳児を別の家族が引き取って育てるのですから、そこにある程度のお金のヤリトリがあったことは、想像に難くありません。

戦前、私の母は「貰い子」の仲介をしていました。相手は主に親類縁者と、私の両親が経営していたカフェ時代の女給さんたちです。元々世話好きの母が、完全なボランティアとして行っていたものです。
当時は、堕胎が自由にできない時代で、婚外で子供が出来て悩んでいる人が多かったようです。避妊方法が今ほど普及していなかったことも、原因です。
今だったら「デキコン」で目出度くゴールインとなるのですが、何せ戦前は親の許しがなければ結婚できなかった。それに不倫や浮気、こちらは当時も結構多かったんですね。

一方、これは現在でも深刻な問題ですが、子供が出来ずに悩んでいる方もいました。母はその間をつなぎ、望まずに生まれてしまった子供を、子供を欲しがっている家庭に仲介したわけです。
これだけなら現在でもある養子になるわけですが、違うのは実子として仲介した点です。
養子の場合、子供が成人してある時期、戸籍を調べれば、自分が本当の子ではないと分かるわけで、それが原因で親子関係が崩れたり、子供がグレル例も多かったそうです。

母は産院や産婆を抱きこんで、ニセの出生証明書を作らせ、譲り受けた赤ちゃんを最初からその家庭の実子として、役所に届けさせるのです。そうすれば生んだ方も何も痕跡が残らず、譲り受けた側も戸籍上は実子となりますので、万事が円く収まるという仕組みです。

母は「貰い子」を仲介するにあたり、鉄則を持っていました。
一つは、赤ちゃんを譲る側と貰う側、双方に会うのは母だけで、絶対に直接顔を会わさせないこと。
もう一つは、赤ちゃんを譲った側の人とは、母はその後一切接触しないこと。
それと、赤ちゃんを譲る側の身元が確かであることを条件にしていました。
例えば、慶応病院の医者が看護とデキテ子供が産まれてしまったというようなケースです。こういう場合は、出生証明書の偽造も、楽だったのでしょうね。
言葉は良くないですが、母には一種の「品質保証」の考え方があったのだと思います。
「実子」を永久に真実とするためには、生みの親との関係を完全に遮断しなければなりません。そのためには、極めて合理的な方策だと云えます。

子供を貰った方の家庭とは、母は親しくお付き合いをしていました。先方は頻繁に母のところを訪ねてきていましたし、母は時々先方に行って子供の様子を観察し、子供に問題が起これば相談に乗っていました。
母はよく私に、「ひとつだけ失敗しちゃったけど、他の子はみんな出来が良くて、上手くいってるよ。」と言っておりました。
そうしてその子供たちは、最初から最後まで実の子として育てられました。

母のこうした行為は、確かに違法です。
でも人間の幸せ、生まれてきた赤ちゃんたちの幸せ、と言う観点に立てば、決して悪いことではありません。

母は神奈川県多摩の農村の生まれですが、子供の頃は未だ乳児の「間引き」が行われていたそうです。
産婆さんが、生まれたばかりの赤ん坊の口に、水で濡らした障子紙を当て、あとは亡骸を山林に埋めておしまいです。
とても残酷な話しですが、当時の貧しい農家が生き抜いていくには、それ以外方法が無かったのでしょう。
それに比べれば、母が仲介した「貰い子」たちは、遥かに幸せだったと思います。

今の人たちの中に、開発途上国での色々な出来事をとりあげて非難する向きがありますが、たかだか数十年前の日本でも、こうしたことが日常的に行われていたことを、知っておく必要があります。
善悪の基準も、時代によって変わってきます。

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2005/08/03

身近にあった「人身売買」(その1)

私が未だ中学生のころ、1950年代の後半の話しで、少し身内の恥を晒すような話しですが、私の伯父に鉄五郎という人がいまして、仕事師だったんですが、博打が大好きでした。この息子、私の従兄にあたりますが、この人の名前は鉄なんとかと言ってました。私たちは、オヤジの方を大鉄、息子の方は小鉄と呼んでました。
その小鉄ですが、怠け者で定職に就かず、ニコヨンと呼ばれていた当時の失対事業で、1日240円の日銭稼ぎの生活です。処が、博打好きだけは親譲りで、いつもピーピーしてました。

小鉄はそれでも女に手を出すのだけは早くて、20代初めには所帯を持ちました。所帯たって、とにかく小鉄は働かず、博打ばかり打っているのですから、生活が成り立たない。そこで、女房が飲み屋に働きに出ていたのです。
その女というのは、美人じゃあなかったが、中肉中背の、いわゆる男好きのするタイプだったと記憶しています。歳は、当時でまだ20代半ばってところでしょうか。

その飲み屋に、クズヤが通って来ていた。当時「クズやー、お払い」といって、一般家庭を回って、クズを買い集めていた商売、今なら環境事業自営業者とでも云うんでしょうね。そのクズヤが、女に惚れちまった。もう40過ぎのいい歳だったのですが独身で、職業柄、いままで女性とお付き合いするチャンスが、無かったんでしょうね。
だけど、小鉄という立派な(あまり立派とは言えないが)亭主がいる。そこで思い余ったクズヤが、小鉄の所に乗り込んできて、女房を譲ってくれと懇願した。小鉄は、そんなら50万円出すなら、お前に譲ってやると、啖呵を切った。当時大学卒の初任給が1万円に達していない頃の50万円、今なら1000万円近い大金です。どうせ出やしないと、高をくくっていたんでしょう。

ところが、クズヤはそれなら50万円出しましょうと言い出した。結構金も貯めていたんでしょうが、余程その女に惚れてたんでしょうね。
小鉄も、言い出した手前後に引けず、そんなら50万円で手を打とうと話がまとまり、その女房はクズヤに売られてしまった。

でもこの「人身売買」、誰も損をしていなのです。
クズヤは、惚れた女と待望の所帯を持つことができた。
女は今までの極貧生活から抜け出して、自営業者夫人に納まり、幸せな生活を送れるようになった。
小鉄は、一度に夢のような大金を手にして有頂天、女房が50万円で売れたと、親戚近所に触れ回っていました。
三方が、みなハッピーな「人身売買」になったわけです。
メデタシ、メデタシ。

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2005/06/01

詐欺師

hosoki
小学校4-5年に掛けて、私の家の隣に詐欺師が住んでいたことがあります。1955年前後のことです。もちろん詐欺師というのは、後々分かったことですが。周辺の家は、軒並み被害を受けて、被害が無かったのは、我が家くらいでした。理由は簡単で、家に金が全く無かったからです。

よく詐欺の被害のニュースが流れると、何でだまされるのか、だまされる方も責任があるという論調がありますが、その隣家の詐欺師を見ると、やはりプロは、手口が違います。
その詐欺師の男は、当時30代半ばの年齢でしたが、先ず色男でした。服装は、子供の私が見ても、いつもパリッとしていた。当然ですが、口が達者で、愛想が良い。とにかく、他人を誉める。よく母親に私のことを、この子は本当に頭の良い子で、きっと将来はとても偉い人になりますよ、などと断言するのです。これだけ誉められると、人間悪い気はしないものです。結果は、大外れでしたけど。

休日の朝に、天気がいいと庭に出て、オペラの一節を歌うのです。これがテノールで、実に良い声なのです。むろん歌詞は、原語です。
家族は、子供がいないで、奥さんと二人家族でしたが、この奥さんというのがモデルのように綺麗な人でした。後から考えれば、奥さんも共犯だったのですが。当時の日本では珍しかった、室内犬を飼っていました。外出のときは、常にその真っ白い犬を抱いていました。
庭には、四季の花が植えられ、いつも奥さんが綺麗に手入れしていました。
こうした、一つ一つが、詐欺師をゴージャスに装っていたわけです。

小道具の使い方も、上手です。まだ幕下力士でしたが、相撲取りを贔屓にしていました。その二人の力士は、ちょくちょく詐欺師の家を訪ねてくると、一緒に連れて出掛けます。
大きな相撲取りを従えて、町を歩いていると、その本人がとても大きく見えるのです。
整髪も、街の理容店には行きません。当時、新宿伊勢丹百貨店の中に、理容店がありました。全員指名制で、そのかわり市価の10倍くらいの金を取っていました。
一度、詐欺師のおごりで、伊勢丹の理容店に散髪してもらい、帰りに喫茶店でクリームソーダを飲ませて貰ったのには、感激しました。でもその店で、詐欺師の前に、奥さんよりもっと綺麗な女性が現れて、驚きました。浮気相手だということは、子供でもすぐ分かりました。
詐欺師は、私に片目をつぶって、「家の人には、絶対内緒だよ。」 と、言いました。私は、床屋と喫茶店の恩義がありましたので、生涯秘密にしようと、心に誓いました。何だか、小さな共犯みたいです。
男の詐欺師は、女タラシであることも、要件のようです。

詐欺の内容は、詳しいことは分かりませんが、大きな事業で高い利益が得られるという、出資金詐欺であったようです。
ある朝突然、夫婦が家財もろともドロンです。家は、既に売却されていました。購入した人も、詐欺師の消息は全く分からない。
被害にあった人の中には、今度見付けたら、生かしちゃおかないと、息巻く人もいましたので、被害額としては、当時そうとう甚大だったと思われます。
後から振り返れば、思い当たることもあったようですが、何しろプロは、舞台設定がうまい。
見てくれには、徹底的にこだわり、そのための投資は惜しまない。

私は、こうして幼い頃に、詐欺師と2年間、近所付き合いしましたので、そういう人に会うと、ニオイで分かります。お陰で、今日まで、一度も詐欺の被害にあったことがありません。
TVで見る人ですと、例えば細木数子センセイ、十分ニオイます。

幼い頃に、周囲にヤクザや娼婦、二号さん、詐欺師、博徒、色々な人が身近にいたということは、私の人生にとって、大変役に立っています。

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2005/03/19

カフェの女給さん

jokyuu戦前に生家がカフェをしていた関係で、戦後も母と当時の女給さんたちとの交流がありました。父は水商売の自営業者らしからぬ人間嫌いで、家の外交は、姐さん肌の母の仕事でした。ですから元女給さんたちも、母を慕って家に出入りしていました。

女給さんになる人は色々な事情を抱えていて、地方から上京してきた身寄りの無い女性もいたし、中には女郎さんが歳をとったので卒業して女給になったという人もいて、結婚して子供もいましたが、見たところはごく普通の家庭の奥さんでした。
驚いたのは、相手の旦那、これも例外なくサラリーマンなどカタギの人たちでしたが、その女性の素性を知っていて結婚していたんです。
まあ考えて見れば、昔の娼婦は合法であったわけですから、彼女たちも一職業婦人だったのです。この辺りの感覚、特に娼婦に対する偏見と差別意識は、現在のほうがずっと強いですね。

戦後その内の一人が旅館を開いたというので、母が小学校1年生の私を連れて訪問したことがありました。その旅館というのが、当時でいう連れ込み旅館(今のラブホテル)だったようなのですが、女性従業員が沢山いた所を見ると、むしろ赤線に近かったんだと思います。
そのうち母が急に帰ろうと言い出して、早々に帰宅したのですが、後で聞いたら母がたまたま通りかかった部屋で、旅館の人が女性従業員へお仕置きしている現場を見てしまったんだそうです。

別の女性で芸者をしていた人がいたのですが、旅回りの役者に入れあげて金を貸し、返してもらえないと母に泣き付いてきたことがあります。この時も母はなぜか私を連れて、その大衆演劇の座長をしていた役者の家に取り立てに行きました。そうしたら、病気で寝ていた無精ひげの風采の上がらない男が出てきました。それが座長だったんです。
結局手持ち無いということで、そのまま帰ってきました。後で母が、なんであんな男に入れあげたんだろうと嘆いてました。

元女給さんたち一人一人の行く末は、まるでドラマを見ているような気がします。
私も母のお陰で、幼い頃から随分と社会勉強をしてきました。

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2005/02/23

ヤクザの話

mannen突然ですが、ヤクザの話しです。
多くの方にとっては、ヤクザは塀の向こう側、別世界の存在と思われますが、私の場合はかなり身近な存在でした。

生家が中野駅の近くで、太平洋戦争の前後に水商売をやっていたのですが、あの辺は昔からヤクザの住まいが多かった。特に終戦直後、飲食店に出入りするような人たちには、まっとうな人は少なかったわけです。
家のすぐ近くに、万年東一(左上の写真の中央の人物)という人が住んでいたのですが、この人は日本のヤクザ史上に残る大親分でした。
日本で初めて愚連隊を作った人で(あまり誉められた話じゃあ無いですが)、以前勝新太郎が主演の映画シリーズ”兵隊やくざ”のモデルになった人物です。
でも何故か組を作らず、最後まで一匹狼を通した人でもあります。当時の暴力団組長たちも、この人には頭が上がらなかったとされる大物です。
万年さんのことは、宮崎学ら数人の作家が評伝を書いてますので、興味のある方はそちらをどうぞ。

その万年さんですが、私達の店に殆ど毎日来ていました。未だ幼かった私を大変可愛がってくれて、姿をみると必ず抱き上げてくれました。
彼がいるのでどうしても関係者が集まってくる。どうも店の客の大半がそのスジの人だったようです。
いつも店の中でお兄さんたちが注射を打っていたので、母にあれは何してんのとたずねると、ヒロポンだと教えてくれました、代表的な覚せい剤ですから、今なら持っているだけで逮捕ですね。大人になるとみんなヒロポンを打つのかと、純真な私はその当時そう思ってました。
母から、もし街で人に刺されたら絶対その場を動くな、傷口を押さえてじっとしていないと出血多量で死ぬからと教えられましたが、今から考えると小さな子供にそんなこと教えてどうする、と思います。

万年さんは、地元ではごく普通の生活を送っていたので、彼の素性を知っている人は殆どいなかったそうです。
当時のヤクザには、堅気には迷惑を掛けないという矜持があったのでしょう。

最近、世の中を騒がしている振り込め詐欺も偽札も、暴力団の資金源であったことが判明しましたが、情けない話しです。
庶民相手に詐欺をやってシノギをするなんざぁ、ったくヤクザの風上にも置けねぇ。

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