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2022/05/07

「天保水滸伝」と、その後

前回の記事で書いたたように、天保の時代に下総に有力な博徒が集まった。
①外房は有力な漁場であり、漁業が発展したこと
②獲れたイワシを干した「干鰯」は肥料として人気が高く、醤油とともにこの地方の特産物として高収入を得ることができた
③利根川が年貢米の運搬の要路となっていたことで、下総は漁港として発展したこと
④現金収入が増えて、相撲や博打といった娯楽に人気が集まっていたこと
⑤飢饉の影響もあり農業では食べていけない若者の中には無宿人になる者が出てくるが、この地域では人足として受け入れた
⑥人足の受け入れや手配、娯楽のための興行を仕切ることで、博徒集団が形成された

博徒同士が利権(縄張り)を守るために刀剣で武装するようになる。
幕府としては治安悪化が大きな問題になるが、従来の幕藩体制では抑えることが出来なくなっていた。そこで関八州全体を取り締まる権限を持つ「関東取締出役(しゅつやく)」を置くが、彼らには地域の博徒の現状など把握できないため、手先として「道案内」を現地採用した。
終戦直後の混乱期には警察力が足りなく、ヤクザに治安の一部を担わしたのと同様である。
下総の道案内に飯岡助五郎が就き、いわゆる「二足の草鞋」をバックにして勢力を拡大してゆく。もう一人有力な博徒に笹川繁蔵がおり、両者は縄張りをめぐって小競り合いを繰り返していた。
助五郎は道案内の立場を利用して、関東取締出役から繁蔵一家の捕縛を命じられる。
助五郎一家は船で利根川をのぼり、笹川一家の捕縛にむかい、「大利根河原の決闘」が始まる。
笹川方には病気療養中の用心棒である平手造酒(本名は平田深喜)も現場にかけつけ、斬り合いとなる。
この争いで助五郎一家は4名が死亡し、船で逃亡、捕縛は失敗に終わる。繁蔵一家では死亡は平手造酒一人だった。
ここからは私見だが、当時の博徒の抗争では、命がけで戦うことはあまり無かったと思われる。もしそんな事をしていたら、命がいくつあっても足りないだろう。この決闘では、平手造酒は元武士だったので本気で斬り合いになったのではなかろうか。
浪曲や講談、映画などでは専ら助五郎が悪役になっているが、所詮は博徒同士の縄張り争い、どちらに正義があるとは言えない。
ただ助五郎が「御上」を利用したので、世間は繁蔵贔屓になったと思われる。
繁蔵は追っ手を恐れて旅に出るが、弘化4年(1947年)笹川に戻った時に、助五郎の子分たちに暗殺されてしまう。

この話がここで終わるなら単なるヤクザの抗争であり、「水滸伝」の意味を成さない。
親分繁蔵が暗殺されたので、子分の勢力富五郎が後を継ぐことになった。勢力は今までの経緯から助五郎とその背後にいる関東取締出役を恨み、戦いに挑んでゆく。
嘉永2年(1849年)に12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことになったが、勢力富五郎一味が跋扈していて治安が悪化していた。このため関東取締出役は約500名もの捕り方を集め、勢力の捕縛に向かう。
勢力富五郎と子分たちは、小南村金毘羅山の山頂に立てこもり、52日間に及ぶ大捕物となった。嘉永2年(1849年)4月28日に、ついに力尽きた勢力は自決し、戦いは終わる。このことが本家「水滸伝」の梁山泊になぞらえたのだ。
幕府としては、
①たかが博徒一味の捕縛に52日間も要したこと
②勢力らの武器に鉄砲や槍、刀などが備わっていたこと
に衝撃を受ける。
この件は、幕府の力が弱まっていたことを示し、やがて江戸幕府は終焉に向かってゆくことになる。

2022/04/13

ヤクザの番付「近世侠客有名鏡」と「天保水滸伝」

明治23年に作られた「近世侠客有名鏡」は、博徒の番付ともいうべき資料だ。名前をみるとこの時点では既に亡くなっている人が多く、19世紀半ばの天保年間に勢力をふるったヤクザの親分衆をランク付けしたものと思われる。
講談や浪曲、時代劇などでお馴染みの名前が並んでいて、大関のふたりは、武蔵の大前田英五郎と伊豆の大庭ノ久八。上野の国定忠治は関脇、甲斐の「ドモ安」こと武井安五郎は小結。前頭で私が知っている名をさがすと、下総の飯岡助五郎、同じく勢力富五郎、同じく佐原ノ喜三郎、甲斐の黒駒ノ勝蔵、武蔵の小金井小次郎、駿府の清水次郎長、下野の日光ノ圓蔵といったところ。勢力富五郎の親分である笹川繁蔵の名は見あたらない。
地方の名前を見ると分かるとおり、関東地方が圧倒的だ。この時代にはいると、
一つには、商品経済が発達して各地で名産品が生まれて百姓の間に格差が生じたこと
二つには、河川など流通を握った者が力をつけたこと
三つには、天保の大飢饉で食べられなくなった百姓が、職を求めて仕事がある地方に集まったこと
四つには、民衆が娯楽を求めて芝居(地方歌舞伎)や相撲、賭博などに人気が集まり、それらを主催する者が勢力を伸ばしてきたこと
などから、関東地方に有力な博徒が出現した。

ここで「天保水滸伝」の話題にはいるが、下総には干鰯(ほしか:鰯を乾燥したもの)と醤油という特産物があり、利根川を通じて江戸など消費地に運ばれていた。その中で九十九里浜の飯岡地域で勢力を伸ばしたのが飯岡助五郎だ。助五郎は相撲取りを目指すが挫折、その後は漁師の網本を経て博徒に。
徳川幕府の政策として、関東周辺には大大名を置かず、小大名や旗本が入り組んだ形で支配していた。幕府は治安維持のため関東取締出役(しゅつやく)を設置し、関八州一帯を取り締まる権限を与えた。しかし彼らは現地の情報を知らず、そのため特に博徒の情報に詳しい者を「道案内」に任命した。この道案内に飯岡助五郎が就き、いわゆる「二足の草鞋」で勢力を拡大してゆく。
一方、笹川河岸を拠点としていた笹川繁蔵も相撲取り崩れであり、両者は相撲興行権をめぐって争い、天保15年(1844年)に関東取締出役が助五郎に、繁蔵の捕縛を命じる。これを機に、両者が利根川を挟んだ「大利根の決闘」が起きる。いよいよ「天保水滸伝」の幕が切って落とされた。
さあ、ここからが面白くなりますが、ちょうど時間となりました、この続きは又の機会に。

2020/12/21

「どんきゅう」と呼ばれた男

これは私がまだ小学生のころに母から聞いた話ですが、とても印象的でまるで短編小説やドラマみたいな物語です。
時代は昭和10年代、日本が中国に侵出して満州という傀儡国家を作った時期から、太平洋戦争に突入する間のできごとです。私が生まれる前になります。
当時、両親は中野でカフェ店を開いていました。カフェというのは今の喫茶店と異なり、テーブルに背の高いボックスという名前のソファが置かれ、女給(ホステス)が客の横についてお酌したり、レコードに合わせてダンスしたりする店です。今ならクラブとスナックの中間といった所でしょう。
店の常連客の一人に「どんきゅう」と呼ばれていた男がおりました。成人になっていたにも拘わらずこれといった定職につかず、趣味がケンカという変わった男です。背が小さかったけどケンカはめっぽう強かったそうで、あだ名も相手にどんと突くと、きゅうっと参ってしまう事から付けられたものです。ケンカには怪我が付き物ですが、警察沙汰になることは無かったそうです。一つには当時は今と違ってケンカという暴力に周囲が寛大でした。それと「どんきゅう」の父親が警察署長だったということもありました。戦前の警察署長はとても権威がありましたから。
周りには目をひそめる人もいて、「あんなのは早く徴兵して軍隊で性根を叩きこまれた方がいい」という声もありました。これもどうやら、警察署長の一人息子だったことが兵隊に取られなかった理由のようです、
ちょっと脱線しますが、徴兵検査は平等ですが、実際に徴兵されて戦地に送られるかどうかは別で、必ずしも公正とは言えなかったようです。この問題をテーマにして松本清張が「時間の習俗」という小説を書いています。
ただ私の母は「どんきゅう」のことを可愛がり、彼も母のことをママさんといって慕っていたようです。
その「どんきゅう」が店の女給の一人、仮に名前をオトキとしておきましょう、そのオトキに惚れてしまい求婚してきました。オトキは器量も気立ても良い娘だったそうですが、「どんきゅう」の行状から断ったのです。そうしたら「どんきゅう」の父親が母の所に来て、「どうか嫁にしてくれ」と頭を下げたんです。母も断りきれず、オトキに話をすると「そこまで仰るのなら」と求婚を受け容れ、二人は結婚しました。
周囲もこれで「どんきゅう」の行状も収まるだろうと期待していましたが、又もやケンカで相手に大怪我をさせてしまったのです。
オトキはそれを苦にして「私の力が足らず申し訳ありません」という遺書を残して自殺してしまいました。
さすがの「どんきゅう」もこれには堪えたようで、すっかり落ち込んで以後は真面目になったようです。
その年の8月15日、仲間と一緒に片瀬海岸に海水浴に出かけた「どんきゅう」が水死してしまいました。事故は新盆の日でもあり、周囲の人は、「きっとオトキさんに足を引っ張られたんだね」と言ってたそうです。
私の知らない昭和10年代のできごとですが、なぜか深く心に残っているのです。

 

2017/08/13

ヤクザのヒーローはみな幕末の人間だった「博徒の幕末維新」

高橋敏「博徒の幕末維新」 (ちくま新書2004/2/6初版)
Photo_3
当ブログで、2015年に”「吉良の仁吉」を知ってますか?”という記事を書いたところ、予想外にアクセスを集めている。日によっては100を超え、毎月のアクセス数ではTOP10の常連になっている。
仁吉は私たちの年代(特に男性)にはお馴染みだが、今の世代の人たちには知られていない。同時に、どんな人物なのか、興味は持たれているようだ。
吉良仁吉は「清水次郎長伝」に出てくるが、実は次郎長も、その敵役である黒駒勝蔵も、国定忠治も、「天保水滸伝」の勢力富五郎も、私たちがよく知っているヤクザ(博徒)は全て幕末に活躍した人物ばかりだ。
時代背景が描かれていないが、数多い股旅ものの主人公たちも、みな幕末の人間だったに違いない。
座頭市だって、映画の第一作で飯岡助五郎一家に草鞋を脱いでいるので、やはり設定は幕末だったということになる。
では、なぜ幕末にこれだけ多くのヤクザが活躍できたのか。言い換えれば、なぜ幕末に彼らが必要とされていたかを解き明かしているのが高橋敏「博徒の幕末維新」 である。

嘉永6年(1853)6月8日深夜、伊豆七島の流刑の島新島から、七人の流人が島抜けを敢行した。そのリーダーが、清水次郎長の敵方として知られる甲州博徒の巨魁、竹居安五郎(通称は吃安(どもやす)、安五郎は吃音のくせがありこう呼ばれた)である。
この時期には、ペリー提督率いる黒船が伊豆近海にあらわれた直後であり、その警備に手を取られ新島を管轄していた韮山代官江川英龍も島抜けを見逃がしてしまった。
しかし、島抜けに一度は成功しても大半はその後捕縛され、処刑される運命にあった。この時も、安五郎を除く6人は間もなく捕まってしまう。
ところが、ひとり安五郎のみが伊豆から甲州まで逃げ帰り、子分の黒駒勝蔵と再会を果たしている。
本書は、先ずこの謎に挑んでいる。

一つには、幕末の時代には幕府の権力が弱まり、治安の一部を博徒の親分に任せるしかなかった。いわゆる「二足の草鞋」である。
もう一つは、この年にペリー艦隊に対抗し江戸の直接防衛のために、幕府は伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。工事は急ピッチで進められ、1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成した。
この工事には膨大な人出が要る。多数の土木作業員を一気に集め、それらを管理監督させるには、やはり博徒の親分の力が必要だったのだ。
この砲台工事を請け負った親分が竹居安五郎と懇意だったため、幕府も彼を見逃すしかなかったのだ。

「武居の吃安 鬼より怖い どもっと吃れば 人を斬る」と恐れられていた安五郎は、甲州に戻って再び活動を続けるが、幕府側の謀(はかりごと)にあって殺されてしまう。
後を継いだ黒駒勝蔵は、利権をめぐって清水次郎長と暗闘を繰り返しながら、勢力を拡大してゆく。
しかし、幕末から明治維新という時代の波は、彼らにも容赦なく押し寄せてゆく。

こんな波を上手く泳いで切り抜けたのは次郎長だ。
対する勝蔵は次第に尊皇思想に傾いてゆき、幕府方から追われることになる。
次郎長が善玉、勝蔵が悪玉と私たちが刷り込まれてきたのは、この辺りの事情からだ。
やがて勝蔵は、官軍の先遣隊である赤報隊に入隊し、慶応4年(1868)には隊長にまで昇進する。
官軍は出来るだけ抵抗なく東に向かうために、赤報隊に年貢の半減を宣伝させる。効果は抜群で、どこでも官軍は歓迎されるが、元よりそんな政策を実現する気などない。都合が悪いと見るや、赤報隊をニセ官軍として、隊員たちを処刑してしまう。
勝蔵は、この件には連座しなかったが、別の不当な理由で捕らえられ、斬首される。
本書は、その背景について詳述している。
勝蔵の墓は、子分の大岩・小岩に挟まれて、故郷で静かに眠っているという。

本書は、彼らアウトローの幕末から明治維新にかけての運命を、歴史学的に位置づけた労作である。
一読する価値がある。

2014/07/11

角田美代子というモンスターを生んだ闇

一橋文哉(著)「モンスター 尼崎連続殺人事件の真実」(講談社刊 初版2014年4月)
Photoこの本に描かれた尼崎事件とは、1998年から2011年にかけて兵庫県尼崎市を中心に、高知県、香川県、滋賀県、京都府の5府県で、複数世帯の家族が長期間虐待のうえ8名の殺害が確認され、他に少なくとも3名、実際には10名近い人たちが死亡あるいは失踪者となっている連続殺人事件である。
報道では「尼崎連続変死事件」「尼崎連続殺人事件」とも呼ばれている。
著者の一橋文哉は全国紙・雑誌記者を経てフリージャーナリストとなり、「ドキュメント『かいじん21面相』の正体」(雑誌ジャーナリズム賞受賞)でデビュー。以後、グリコ・森永事件、三億円強奪事件、宮崎勤事件、オウム真理教事件など殺人・未解決事件や、闇社会がからんだ経済犯罪をテーマにした優れたノンフィクション作品を次々と発表している。
私も主要な著作は全て読んでいて、著者の技量を高く評価している。

日本の犯罪史上稀にみる凶悪事件の主犯・角田美代子の手口は「家族解体ビジネス」ともいうべきもので、ごくありふれた家族のちょっとした弱みにつけ込み巧みに仕組んで、家族同士を反目させた上でその家族の所有している財産を全て奪い取るというものだ。
この「家族解体ビジネス」は前例があり、実は私の近い親類にもこの被害にあい、家族はバラバラにされ、土地と家屋を全て奪われたという実例がる。周囲が気が付いた時は手も足も出ない状況だった。この件はいずれ当ブログで記事にする予定だ。
しかし角田美代子の犯行はこうした手口にとどまらず、家族同士間で虐待、監禁させ、自分に従う者は養子縁組などで美代子ファミリーに取り込み、反抗する人間は家族の手で殺害させるという極めて残虐な点に特徴がある。こうして取り込まれた人間は美代子の「疑似家族」の一員となって次の犯行に加担して行く。もちろん彼らも美代子に反抗したり逃亡したりすれば、凄まじいリンチや殺害が待っているから言う通りになるしかない。
美代子本人が手を下さず被害者の家族を実行犯とすること、美代子が家族の一部と複雑な養子縁組をする事により家族内の揉め事に見せかけ、警察の民事不介入を利用して捜査の手を逃れていたのも特徴の一つだ。
正に角田美代子こそ、その非人間性においてモンスターと呼ぶより他はない。

しかしこの事件の最大の問題は、主犯の角田美代子が2012年12月に、取り調べ中の兵庫県警本部の留置所内で「変死」(公式的には「自殺」と処理されているが、死までの経緯や「自殺方法」には謎が多く、敢えてここでは「変死」とする)してしまい、彼女が事件の核心についてほとんど語らなかった事と、1通の供述書も取れないまま終結してしまったため、事件の真相は永久に闇に葬られることになった。

美代子ファミリーの起こした事件の中には明らかな刑事事件もあり、兵庫県警を中心にいくつもの情報提供があったし、中には被害者が直接警察に駆け込む事さえあったにも拘らず、警察は最後まで動かなかった。これも謎として残されている。もし早い段階で警察が適切な捜査を行っていれば、一連の事件の被害は最初の段階で食い止めることが出来た筈で残念でならない。
そのせいか彼らの悪事が発覚したのは、被害者の一人が監禁場所の兵庫から逃げ出し、大阪府警に駆け込んだのがきっかけだった。
そして肝心の主犯を不手際で留置所内で「自殺」させてしまったのも兵庫県警だ。
著者が事件と兵庫県警を結ぶ接点がどこかにあるのではと疑ったのも当然といえる。

本書では山口組系暴力団幹部のMという男の存在に着目し、そのMこそ角田美代子の犯罪の指南者だったことを突き止める。美代子は多くのメモを残しているが、その中でMから教示された詳細な手口が書かれており、その指示に従って犯行を行っていたことを明らかにしている。
Mからの情報の中には警察の動きや、警察関係者でしか知り得ない情報も含まれており、美代子がより一層Mを信頼する理由ともなった。むろん美代子がMに対し指導料を支払っていたことは想像に難くない。
Mの急死後、美代子はそれまでの犯罪では考えられないようなヘマを犯し、結局それがきっかけとなって事件の全容が明るみに出ることになるのだが、いかにMの存在が大きかったかの証でもある。

著者の調査は更に一歩進み、なぜMが警察関係の情報に詳しかったのかという点について、Mと接点があったと見られる兵庫県警幹部だった県警OBの存在を把握し、面会に行っている。著者が「Mという人物を知っていますよね」と訊ねると、県警OBは「そんな男は知らない。失礼だぞ、君。私はヤクザと付き合いなど無い。」と明確に否定されてしまった。著者がMは男だともヤクザだとも言ってないのにも拘らず。
美代子は拘留中もノートに日記風のメモを残していたが、その最後のページにはこう書かれていた。
「私は警察に殺される」。
角田美代子というモンスターを生んだのは、もちろん生い立ちや生活環境に負う所が大きいが、それだけではない。日本社会が抱える闇の部分が彼女の成長を促進したともいえよう。その闇の中で本人も死んで行ったとするなら、なんと言う皮肉であろうか。

美代子らの犯罪にあった被害者らの家族というのは、揃ってごくありふれた家族であり、家族同士の仲も良かった。だから我々だっていつなんどき彼らの「家族解体ビジネス」の被害者になるか分からない。そういう怖ろしさが本書を読むうちに伝わってくる。
彼らにつけ込まれるような弱み(特に金銭がらみ)を持たない事が肝要だが、そうも行かない事もある。
注意せねばならないには私の親類のケースもそうだったが、美代子も最初はとても親切な人間として登場し、先ず一家の主を信用させ次第に家族の中へ入り込んで来るという手口だ。
そして些細なことで因縁をつけてきて、やがて要求をエスカレートしてくる。
美代子が眼をつけた中にも幸い被害を免れた人や被害が最小限で済んだ人もいるが、共通しているのは最初の段階で要求を毅然とはね付けていることだ。特に戸主の姿勢が大事だという点が教訓のようだ。

余談だが、笑顔を振りまきながら「私たちは日本国民の生命と財産を守るために全力をあげます」なんて言ってる人物には注意が必要かも知れない。
「ファシズムは笑顔でやってくる」と言うではないか。

2013/09/03

「露店のクジが当らない」って、当たり前じゃないの

9月2日付の産経新聞によると、当たりが入っていないくじを引かせて現金をだまし取ったとして、露店アルバイトの男が詐欺容疑で大阪府警に逮捕されたという。きっかけは賞品の人気ゲーム機目当てに、子供たちに負けじと1万円以上をつぎ込んだ男性の訴えだった。
男性は警察官にこう力説したという。「何度引いても当たらない。あのクジは詐欺だ」。
記事によるとこの事件は7月27日夜、大阪市阿倍野区の阿倍王子神社の夏祭りの初日に起きた。
代金は1回300円、2回なら500円。プラスチック製の箱の中から1~100番までの数字が振られた紙くじを引き、60番以上が出れば最新ゲーム機やゲームソフトなどの賞品が当たるという触れ込みだった。
このクジに1万円つぎこみ当りが1枚もなかったという男性の訴えで、阿倍野署が捜査したところ、外れクジばかりだった。男は捜査員に「当たりは入れていません」と告白。男はそのまま逮捕され、今月起訴されたというもの。

あれ、知らなかったんですか。あの手のクジは当たりませんよ、アタシら、子どもの時から知ってましたよ。
当りを出しだら採算がとれず、店は潰れてしまう。そんな商売誰がやる。
だいいち、ギャンブルにインチキは付き物だ。
自分の子どもがまだ小さい頃、縁日に連れていくとクジを引きたがる。黙ってみていると何枚引いてもハズレばかり。そんな時に「このクジはインチキだ」とイチャモンをつけたりしない。子どもには「残念だったね」という言葉をかけてお仕舞にする。
子どもたちもそうした経験を積んで大人になって行く、それでいい。

若いころ、会社の同僚が浅草へ遊びに行ったら、ストリップ小屋がたっていた。看板には裸の女性が露わに描かれていて興味をそそる。それにしては入場料が格安で、これはお得だとチケットを買って中に入ったら、舞台に出てきたのはサルだった。確かに裸ではあった。
その同僚も含めて客たちは「上手く騙しやがったな」と苦笑しながら外へ出たそうだ。「詐欺だ、金返せ!」なんて野暮な客はいなかったのだ。
かつての見世物小屋なども、みなインチキだったようだ。客もそれを承知で、「今度はどんな手で来るのかな」と、騙されるのを楽しみに金を払っていたらしい。

捜査関係者によれば、くじ引きの露店が詐欺容疑で摘発される例は極めて異例だという。「正直、露店くじをめぐって客が被害を申告したというケースですら今まで聞いたことがなかった。祭りで楽しい気分になったついでにくじを引くせいで、多少損をしても余興と思って目をつぶる人が多かったのではないか」と指摘していると記事には書かれている。
ごもっとも。
警察もご苦労なこった。
新聞もこんな記事で紙面をさくより、もっと大事な問題があるだろうに。

2011/09/10

ヤクザにも言わせろ

(司会)本日は最近の暴力団追放の動きにつきまして、「誉苦組」組長にお出で頂き、色々お話を伺いたいと思います。
では組長、どうぞこちらへ。

(組長)あんまりこういう公の場で喋ったことがないけど、せっかくの機会なんで言いたいこと、言わせて貰います。
先ず紳助が極心連合会と付き合ってクビになったけど、あれ、何がいけないのかね。
ヤクザと芸能人は同業者だよ。同業者同士仲良くするのは当たり前だろ。
吉本興業なんてのが、あんなデカクなったのは、誰のお蔭だと思ってるんだ。
歌手だってなんだって、地方で興行するときゃ、みんな俺たちの世話になってきた。
相撲取りだってそうだろう。地方巡業を仕切ってきたのは、すべて俺たちだ。
夜になりゃ、飲ませて抱かせて小遣いまでやってさ。
大阪に本場所もってきたんだって、元はといえば山口組の力だ。
それを今になって組員は入場禁止だと、ふざけるなと言いたい。

賭博はいけないなんて言うけど、公営ギャンブルは何故いいの、おかしいじゃない。
やってることは一緒だろ。
サッカー籤なんて文部科学省がやってるんだろう。あれは教育上いいことなのか。
俺らは少なくとも、子どもにバクチはやらせないぜ。
みかじめ料なんて、すっかり悪者にされてるけどさ。
じゃあ訊くが、飲み屋や風俗でトラブルが起きたとき、誰が鎮めるんだね。
警察を呼びぁいいなんてバカがいるが、冗談言っちゃいけない。
ああいう場所に出入りしているのを知られたくない客なんて大勢いる。オマワリなんて呼べる筈ないんだ。
だから俺たちが行って、静かに収めるわけだ。
俺たちがいるから、お客さんが安心して遊べる。
つまり警察に代わって歓楽街の治安を守ってるんだから、報酬を払って貰うのは当たり前だろ。
警察っていやぁ、知り合いのデカには時々拳銃の隠し場所を教えてやって、点数を稼がせてる。感謝されてるさ。
お返しとして、オメコボシには与かってるけどね。
お互い、共存共栄ってとこかな。

暴力団だって、世の中のためになることをしてるんだよ。
福島原発での作業、あんなのやる人間なんていないぜ。
でも、誰かがやらなくちゃいけない。
そこで俺たちに声が掛かったというわけだ。
秘密のノウハウってやつで人間を集め、福島に送ってる。
もちろん、相応の手数料は頂いてるさ。
ピンハネだなんだって非難するのがいるけど、そんならあんた、代わりに原発へ行くかい。行ってくれる人を探せるかい。ムリだろ。
一人一日10万円貰っといて、本人たちへ渡すのは1万円以下っていうのはホントだ。
だけど俺たちの取り分なんて僅かなんだよ。
ほとんどが東電の関連会社に中抜きされてんだから、そっちを非難しろよ。

企業も政治家も、いつも汚い仕事を俺たちに押しつけておいて、邪魔になると除け者にしてくる。
俺たちから見りゃあ、あいつらの方がよっぽど汚いと思うけどね。

世界中どこへ行ったって、ヤクザがいない国なんてどこも無い。
暴力団追放なんて、どだいムリな話さ。

(司会)どうも貴重なお話、有難うございました。
なお会場の皆様にお願いがあります。
時節柄、今日ここで聴いたことは、絶対にブログやTwitterなどに書かないようお願い致します。

2010/11/26

海老蔵と「どんきゅう」

市川海老蔵のケガ騒動で思い出したが、「どんきゅう」という男の話。
戦前の中野でワタシの両親がカフェをやっていた時代だから、ワタシが生まれる前のことで、親から聞いたものだ。

「どんきゅう」の趣味は喧嘩で、背が小さかったがやたら喧嘩は強かった。仇名も相手を「どん」と突くと、一発で「きゅう」と参ってしまうところから付けられたものだ。
相手はケガをするが、当時の日本では若い男が喧嘩でケガをするなぞ普通のことで、誰も問題にしない。
素手で喧嘩をしている内は良かったが、やがて脇差(ドス)を振るうようにエスカレートしていく。
そうなると血の雨が降り、相手も重傷を負うことになれば、警察沙汰になってゆく。
ところが「どんきゅう」の父親というのが警察署長だったし、「どんきゅう」は一人息子だったので、親の力でいつも事件はもみ消しにされていた。
近所の人たちは、ああいう男こそ徴兵されればいいのにと言っていたが、何故か「どんきゅう」は兵役を免れていた。
昔も今も、抜け道っていうのは変わらないのだ。

その「どんきゅう」が、ワタシの両親がやっていたカフェの女給の一人に惚れてしまった。
名前を仮に志津としておこう。
とても気立ての良い娘で、「どんきゅう」は求婚するが、彼の行状を知っているから志津はウンと言わない。
とうとう父親の警察署長が我が家に来て、志津と結婚したら「どんきゅう」が心を入れ替えると言っているので、何とか嫁にくれないかと泣き付いてきた。
志津にこのことを話すと、私のために「どんきゅう」の行状が改まるならと、結婚を受け容れることになった。

「どんきゅう」は結婚してしばらくは大人しくしていたが、やがてある日のこと、喧嘩で相手に大ケガをさせてしまう。
責任を感じた志津は、ワタシの両親と「どんきゅう」の両親宛てに「私の力が足りず、『どんきゅう』さんに又間違いを起こさせてしまい、申し訳ありません。」という趣旨の遺書を残し、自害してしまう。
さすがに志津の自殺はこたえたらしく、ようやく「どんきゅう」の行状は改まった。
志津の新盆の日、「どんきゅう」は友人らと鎌倉に海水浴に行くのだが、そこで溺れて死んでしまう。
近所の人たちは、きっと志津ちゃんが足を引っ張ったんだよと噂したそうだ。

この話、すごく良い話でしょう。
いつか記事にしようと思っていましたが、たまたま海老蔵が負傷したニュースを見て、書いてみました。
もし海老蔵と新妻の小林真央がこの記事を読んだら、どのように感じるでしょうか。

【追記】
理念に無縁の梨園がリオンに殴られ残念無念

2008/03/05

「立ち退き」ビジネスは儲かりまっせ

Suruga不動産を買ったのは良いがそこに入居者がいて、住むことも出来なければ取り壊しもできないし、転売しようにも買い手がつかない。この人さえ退去してくれれば、一気に資産価値があがる。普通は転居費用をはずんで立ち退いて貰うのですが、それでもダメな場合は、そのスジの人にお願いする。まあ世間よくあることですね。
東証2部上場の「スルガコーポレーション」(岩田一雄・会長兼社長)が取得した不動産を、大阪市の不動産会社「光誉実業」社長・朝治博容疑者に依頼して入居者を立ち退かせ、解体して転売していたことが発覚しましたが、正に典型的な例ですね。
所有者は転売して儲け、間に入った不動産業者には手数料が入り、暴力団には金が渡され、入居者は多額の立ち退き料が支払われる。かくして関係者全てがハッピーとなり、メデタシメデタシとなるとは限りません。違法な手段で立ち退かせれば立派な犯罪です。

私のサラリーマン現役時代の取引先に、不動産業者がいました。と言っても、社長一人だけの会社ですが。
この人、裁判所の職員と通じていて、適当な競売物件の紹介を受けます。資産価値があるのに入居者がいるため買い手がつかない、そういう問題物件です。
連絡を受けた社長は、その物件を格安で落札します。その後、地元の暴力団に入居者の立ち退きを頼み、無事退去して貰ってこれを転売する。暴力団に手数料を払い、残りが自分の取り分になります。そうそう、情報を流してくれた裁判所職員にも、お礼をせねば。
1年間に2件の物件を扱えば、十分食べていけるそうですから、ボロイ商売ですね。

なかには競売を妨害する目的で、暴力団が入居者を送り込んでくるケースもあります。法外な退去費用をふっかけてくるわけです。
そういう人間を立ち退かせるのも暴力団、つまり攻めるも守るもヤクザということで、何のことはないマッチポンプですね。
こんな事が全国で、日常的に繰り返されているというのが実情でしょう。
だからいつまで経っても、不動産業界や建設業界は暴力団と手が切れない。

不動産の所有権をめぐる法律の盲点、これを改正しないと、これからもこうした不法行為は絶対に無くならないでしょう。

2007/11/24

ヤクザの一分

Odu_kinosukeこう言うとお叱りを受けるかも知れないが、ヤクザは世の中にとって必要な存在だと私は思っています。ヤクザが社会的責務を自覚して行動してさえしていれば、周囲のカタギの人と共存できる筈です。
以前、銀座のバーのママから、こんな話を聞きました。

彼女が若い頃勤めていたクラブでは、客のツケはホステス持ちになっていた。客の支払いが滞納するとホステスの給料から差し引かれるというシステムだった。高級店になるとツケが月100万円という客もいて、彼女の客で1000万円ツケが溜まったケースがあった。
何度も催促したが埒が明かず、結局地元のヤクザに500万円で債権譲渡した。ヤクザが取り立てに行ったら即刻1000万円支払ってくれたそうだ。
彼女は債権の半額500万円を回収でき、ヤクザは手数料として500万円懐に入れて、双方メデタシメデタシになった。
また、水商売をやっていると性質の悪い客がトラブルを起こして、他の客に迷惑を掛けることがある。そういう時にヤクザに頼むと、彼らは直ちにトラブルを解決してくれ、他の客も嫌な思いをしなくて済む。
ミカジメ料は払っているが、必要経費だと思っている。

飲み屋のツケとなると裁判で取立ては難しいし、かと言ってホステスや店側が全額かぶるのも辛い。
酔客のトラブルにしても、事件でも起きなければいちいち警察を呼ぶわけにもいかない。警官から事情を訊かれたりすれば、お客も嫌な思いをすることになります。
こんな事を引き受けてくれるのはヤクザだけだから、大いに助かるという事なのでしょう。
警察は民事不介入が原則ですから、上のケースはヤクザが民事警察(但し有料)の役割を果たしたということになります。カタギに迷惑は掛けていない。
そんなヤバイ所に近付かなければ良いという意見もあるでしょうが、品行方正ばかりとは限らないのが世の常でもあります。

ヤクザの歴史を紐解いてみると、「博徒」と「的屋」(香具師)に行き着きます。
博徒は文字通り博打打ちで、起源は平安時代に遡るのだそうです。
また、的屋(香具師)の起源は、「古事記」に出てくる火之加具土神(ほのかぐつちのかみ)という説もあるようですから、いずれにしろ古代から存在しているのは確かでしょう。
江戸時代には寺社の境内で賭博を開帳し、収入を得ていました。今でもギャンブルの世界で「テラ銭」という言葉を使いますが、元々は寺で得た金ですから「寺銭」が語源です。
彼らは又、寺社の境内で縁起物を売り手数料を得ていましたし、祭礼の時は会場整理から露天商の取りまとめまで仕切っていました。
そう考えると、江戸時代のヤクザは神社や仏教寺院の経営に貢献していたわけで、日本の伝統的宗教を陰から支えていたことになりますね。

近代において、ヤクザが社会に貢献した例の一つは、戦争直後の新宿の焼け跡闇市でしょう。
終戦から3日目の新聞に、こんな広告が出たそうです。
「転換工場並びに企業家に急告! 平和産業の転換は勿論、その出来上がり製品は当方自発の”適正価格”で大量に引き受けに応ず・・ 新宿マーケット 関東尾津組」
中心人物だった尾津喜之助は、「光は新宿から」というスローガンを掲げて、終戦の8月20日(日にちには異説あり)には、新宿駅周辺の焼け跡にマーケットが立ち並びました。
また、当時無力となっていた警察の代りに新宿の治安を引き受けました。
もちろん不法占拠ですから、東京が復興すると共に小津組も新宿を追われることになりますが、終戦直後の混乱の時期に、「市」を立ち上げ運営できたのは彼らの力に拠るものです。
その後新宿が、東京の商業と文化の中心地として発展したのは、ご承知の通りです。

しかし最近のヤクザは、何たるテイタラクであろうか。
銀行強盗だの偽札作りだの、単なる犯罪集団と化してしまいました。
11月8日に佐賀県武雄市の病院で、入院患者が何者かに射殺される事件が起きました。明らかに暴力団の抗争による人違い殺人と見られていますが、1週間経っても犯人が名乗り出てこない。人間として一片の良心が残っているのなら、直ちに出頭すべきです。
ヤクザの一分、矜持はどこに行ったのか。
こういう世の中に何の役にも立たない、反社会的な存在に成り下がったヤクザ連中には未来はありません。