「天保水滸伝」と、その後
前回の記事で書いたたように、天保の時代に下総に有力な博徒が集まった。
①外房は有力な漁場であり、漁業が発展したこと
②獲れたイワシを干した「干鰯」は肥料として人気が高く、醤油とともにこの地方の特産物として高収入を得ることができた
③利根川が年貢米の運搬の要路となっていたことで、下総は漁港として発展したこと
④現金収入が増えて、相撲や博打といった娯楽に人気が集まっていたこと
⑤飢饉の影響もあり農業では食べていけない若者の中には無宿人になる者が出てくるが、この地域では人足として受け入れた
⑥人足の受け入れや手配、娯楽のための興行を仕切ることで、博徒集団が形成された
博徒同士が利権(縄張り)を守るために刀剣で武装するようになる。
幕府としては治安悪化が大きな問題になるが、従来の幕藩体制では抑えることが出来なくなっていた。そこで関八州全体を取り締まる権限を持つ「関東取締出役(しゅつやく)」を置くが、彼らには地域の博徒の現状など把握できないため、手先として「道案内」を現地採用した。
終戦直後の混乱期には警察力が足りなく、ヤクザに治安の一部を担わしたのと同様である。
下総の道案内に飯岡助五郎が就き、いわゆる「二足の草鞋」をバックにして勢力を拡大してゆく。もう一人有力な博徒に笹川繁蔵がおり、両者は縄張りをめぐって小競り合いを繰り返していた。
助五郎は道案内の立場を利用して、関東取締出役から繁蔵一家の捕縛を命じられる。
助五郎一家は船で利根川をのぼり、笹川一家の捕縛にむかい、「大利根河原の決闘」が始まる。
笹川方には病気療養中の用心棒である平手造酒(本名は平田深喜)も現場にかけつけ、斬り合いとなる。
この争いで助五郎一家は4名が死亡し、船で逃亡、捕縛は失敗に終わる。繁蔵一家では死亡は平手造酒一人だった。
ここからは私見だが、当時の博徒の抗争では、命がけで戦うことはあまり無かったと思われる。もしそんな事をしていたら、命がいくつあっても足りないだろう。この決闘では、平手造酒は元武士だったので本気で斬り合いになったのではなかろうか。
浪曲や講談、映画などでは専ら助五郎が悪役になっているが、所詮は博徒同士の縄張り争い、どちらに正義があるとは言えない。
ただ助五郎が「御上」を利用したので、世間は繁蔵贔屓になったと思われる。
繁蔵は追っ手を恐れて旅に出るが、弘化4年(1947年)笹川に戻った時に、助五郎の子分たちに暗殺されてしまう。
この話がここで終わるなら単なるヤクザの抗争であり、「水滸伝」の意味を成さない。
親分繁蔵が暗殺されたので、子分の勢力富五郎が後を継ぐことになった。勢力は今までの経緯から助五郎とその背後にいる関東取締出役を恨み、戦いに挑んでゆく。
嘉永2年(1849年)に12代将軍徳川家慶が、下総小金原の牧で鹿狩りを行うことになったが、勢力富五郎一味が跋扈していて治安が悪化していた。このため関東取締出役は約500名もの捕り方を集め、勢力の捕縛に向かう。
勢力富五郎と子分たちは、小南村金毘羅山の山頂に立てこもり、52日間に及ぶ大捕物となった。嘉永2年(1849年)4月28日に、ついに力尽きた勢力は自決し、戦いは終わる。このことが本家「水滸伝」の梁山泊になぞらえたのだ。
幕府としては、
①たかが博徒一味の捕縛に52日間も要したこと
②勢力らの武器に鉄砲や槍、刀などが備わっていたこと
に衝撃を受ける。
この件は、幕府の力が弱まっていたことを示し、やがて江戸幕府は終焉に向かってゆくことになる。
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