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2024/02/09

春風亭小柳枝の死去

また好きな落語家が一人亡くなってしまった。
春風亭小柳枝(9代目)が、1月31日老衰のため死去した。88歳だった。
航空写真測量の会社でサラリーマンとして10年余り勤務し、新劇の俳優を目指したこともある異色の経歴の持ち主だが、落語では本格的な古典を演じていた。
芸風は最初の師匠である四代目春風亭柳好に似て、大きな声を出さずに喋る地味なタイプだったが、ジワリと心に響くような芸だった。
顔に残る傷は、包丁で襲われた時に犯人を取り押さえた際に負ったものだった。
また、芸協のハワイアン・バンドのメンバーでもあった。
『青菜』は、今でもこの人がベストだと思っている。
ご冥福を祈る。

2024/02/04

本を書くより芸を磨け

1月早々に行われたある落語会が顔付けが良く、会場が自宅から比較的近かったのと、年末ごろには体調も安定していたので久々にチケットを取った。
処が正月明けに不調になってしまい、娘に代わりに行って貰うことになった。
出演者は前座を除いて4人で、トリが喬太郎、仲入りがさん喬、前方が一之輔、食いつきは立川流の中堅どころのそこそこ知名度のある人だった。
娘の感想は、協会の3人は面白かったが、立川流の人は下手で面白くなかったとのことだった。
ロビーではその人の書いた著作の販売が行われていて、タイトルから察すると落語論の様だったという。
娘は、「本を書くよりまず自分の芸を磨けと」と思ったそうだ。
あの流派の人は家元の影響からか理屈っぽいのがいて、なかにはマクラで落語論とか芸談風な持論を披瀝するのもいて、辟易としたことがある。
落語家の書いた落語論や芸談に関する本も何冊か読んでことがあるが、感心したり納得したりできたのは桂米朝や三遊亭圓生の著作で、他はあまり参考にならなかった。
芸の裏づけが薄い人のものは概して説得力がない。
やはり芸人は、本業を磨くことが何より大事だろう。

2024/02/02

あの頃の色物の芸人

私が小学生時代(昭和20年代)に寄席で活躍していた落語家について2度にわたり紹介してきた。
今回は色物(寄席で落語以外の芸)の芸人について書いてみる。
先ずは柳家三亀松、当時は大変な人気で、色物では珍しくトリをとっていた。三味線漫談ともいうべき芸だったが、プログラムには「ご存知」柳家三亀松とあった。ただ、当時私は面白いと思ったことがなかった。小学生じゃ無理だったのかも。
三味線漫談では、都家かつ江も人気が高かった。女優としても映画に出ていたが、毒舌で「ここ(新宿末広亭)と人形町(末広)じゃ客ダネが違う」なんて平気で言っていた。高座は面白かった。
三味線コントでは、「のんき節」で売っていた瀧の家鯉香がいた。
音曲では、春風亭枝雀が美声で、細い首を長く伸ばして唄っていた。
漫才では、リーガル千太・万吉が人気があった。ゆっくりとしたテンポで喋りあうのだが、独特の間が特徴だった。
宮田洋容・布地由起江のコンビも、ラジオでレギュラーを持つほどの人気があった。二人とも声が良く、ミュージカル風のネタを入れていた。
楽器を持った歌謡漫才では都上英二・東喜美江がいた。東京では珍しい夫婦漫才だった。
講談は黄金時代とも言うべきで、一龍齋貞山(7代目、俗にお化けの貞山)、一龍齋貞丈(5代目)、宝井馬琴(5代目)といった錚々たる顔ぶれが揃っていた。講談は子どもには馴染めないと思われるだろうが、上手い人の講釈は楽しめた。
紙切りでは、初代林家正楽。
動物物まねでは、江戸家猫八 (3代目)。NHKの「お笑い三人組」のレギュラーでもあったが、トークの上手い人だった。
浪曲では、広沢菊春(2代目)。出囃子に乗って座布団の上で演じるといった変わったスタイルで、浪曲を落語風にアレンジしたり、又はその逆を行ったりして楽しませていた。
奇術では、怪しい中国訛りで喋り続けながら手品を演じたゼンジー北京がいた。コミックマジックの走りだ。
以上のように、色物でも綺羅星のごとく腕の良い人が揃っていたので、寄席は充実していた。

2024/01/28

林家正楽の訃報

落語フアンならこの人の名前を知らぬ人はいないだろう。
紙切り芸の第一人者である林家正楽(3代目)が、1月21日亡くなった。76歳だった。
直前まで寄席に出ていたそうで、とても残念な気持ちだ。
紙切りという芸は、当日客席からのリクエストがあればその場で紙を切り抜いてゆく芸で、事前の準備ができない難しい芸だ。
客層は子どもから老人まで幅広く、テーマも具体的なことから抽象的なものまで(例えばその年の芥川賞の作品というリクエストもあった)あるので、膨大な情報を頭に入れる必要がある。
同時に紙を切ってる間を客が退屈しないようにせねばならない。
正楽の場合は前後に体を揺らせながらトークを入れていた。このトークも楽しみの一つだった。
寄席ではトリの前に出る「ひざ代わり」の出番が多く、トリの口演時間の関係で数分ということもあれば十数分も時間を繋ぐこともある難しい役目だ。
あの芸をもう一度見たいと願うファンも多いだろう。
ご冥福を祈る。

2024/01/12

あの頃の一風変わった落語家の思い出

以前、小学生時代に寄席で出会った落語家の思い出を書いたが、今回はちょっと変わった人について触れてみたい。
上方の落語家で東京の協会に席を置き寄席に出ていた人がいた。
代表的なのが桂小文治(2代目)で、芸協の副会長として弟子も多い。ただこの人の関西弁は聞き取りづらく、内容は分からなかったせいか面白くなかった。今聴いてもやはりつまらない。
ただ、1席終わってから踊ることがあったが、これは上手かった。
小文治を聴いて、やっぱり落語は東京だよなと思っていたら、その考えを改めたのが三遊亭百生(2代目)の高座だ。
コテコテの関西弁だったにもかかわらず内容が聴き取れ、噺も面白かった。そして何より愛嬌があった。
桂小南(2代目)はソフトな関西弁で聞きやすく、明快な語り口で人気があった。
桂右女助(後に6代目三升家小勝を襲名)は、新作の『水道のゴム屋』で売っていた。
古今亭今輔(5代目)は、お婆さん落語で人気を博した。「お爺さんは黙ってらっしゃい!」なんてやっていた。
口の悪いのは鈴々舎馬風(4代目)で、高座に上がって開口一番が「よく来たな」だった。刑務所に慰問に行って、「満場の悪漢諸君!」と挨拶したという有名なエピソードが残されている。
桂枝太郎(2代目)は、漫談風の高座だった。
三遊亭小金馬(後の4代目三遊亭金馬)は腹話術だった。
三遊亭圓馬(4代目)は押し出しは良かったが、噺はあまり面白くなかった。
文楽や志ん生といった人たちは、ホール落語やラジオ番組出演が主で、普段の寄席には出なくなっていた。

2023/12/23

落語に解説は不要

落語会のオープニングなどで主催者(席亭)がネタなどを解説するケースがあるが、あれは邪魔でしかない。
演芸番組で演芸評論家が解説するのを聞いたことがあるが、あれも無駄だ。
落語という芸能は、圓朝作の長編ものを除けばそれほど難しい内容のものはない。
ストーリーそのものは子どもでも分かる。
私が親に連れられ始めて寄席で落語を聴いたのは6歳の頃だ。十分楽しかったし、また連れて行ってくれとせがんだ程だ。
印象に残っているのは3代目桂三木助の『蛇眼草』で、ひっくり返って笑った。
小学2-4年にかけて、親や近所の落語好きの女性(オールドミスと呼ばれていたっけ)に連れられて何度か新宿末広亭に行った。
そこで3代目春風亭柳好『野ざらし』や6代目春風亭柳橋『時そば』、桂小金治『禁酒番屋』や
4代目三遊亭圓遊『堀の内』、10代目桂文治(当時は伸治)『反対俥』などが面白くて印象に残っている。
9代目桂文治は子ども心に下手だなと思ったが、今聴いても大して面白くない。
だから子どもでも中身は分かるし、良し悪しの判別はつく、落語というのはそういう芸能なのだ。
先ほどの落語好きな近所の女性のことだが、この人が寄席で笑ったのを見たことがない。客席でニコリともしないのだ。
不思議な人だなと思ったが、楽しみ方は人それぞれなんだね。
客の聴き方楽しみ方は百人百様、だから落語に解説なんか要らない。

2023/11/02

祝!真打昇進 立川小春志、三遊亭わん丈

立川こはる改メ立川小春志(こしゅんじ)が今年の5月に真打昇進した。
脱落者が多い師匠談春の元で修業を重ねての成果だ。まるで猛獣使いだねなどと陰口を言っていたっけ。
未だ前座時代に階段ですれ違った時、珍しく和服を着た少年がいるなと思ったら彼女だった。小柄で痩身という外観だったが、高座に上がると歯切れの良い颯爽とした姿を見せる。
私は女流否定派だが、この小春志と蝶花楼桃花だけは別格だ。二人とも前座から見ているが素質は充分だった。
小春志真打ち昇進披露興行は10月28日〜11月1日、東京・有楽町朝日ホールで各日昼夜公演が行われた様だが豪華な披露興行だ。

11月1日付で落語協会から、令和6年3月下席より林家つる子と三遊亭わん丈の真打昇進が公示された。
三遊亭わん丈はミュージシャンから噺家にという変わり種。師匠の故三遊亭圓丈は新作専門だったが、わん丈は古典に力を入れていた(現在は天どん門下)。
二ツ目のわん丈独演会に何度か足を運んだが、これは一之輔の時以来で、それだけわん丈の高座には魅力があった。独特のリズム感も持ち味で、落語界に新風を吹き込んで貰いたい。

2023/11/01

落語『鼠穴』のキズと権太楼による改変

【オリジナルのあらすじ】
亡くなった父の遺した田畑を二等分した百姓の兄弟。金に換えた兄はそれを元手に江戸へ出て成功し大店を持つようになる一方、弟は遊びで全てを使い果たした挙句、江戸の兄のもとを頼って来る。兄はそんな弟に元手を貸すが中身はたったの3文しか入っていなかった。ケチな兄のやり方に弟は怒ったが、3文を元手にして身を粉にして働き、弟も大店の主になり妻子も持つ。
弟は借りた3文の金を返しに10年振りに兄のもとを訪れる。兄から10年前の3文の意味を聞かされ、弟は納得して兄弟で酒を飲み交わす。夜になり帰り支度を始める弟に、兄は「もし火事で家財をなくしたら、俺の身代を全部やる」と約束し、弟を家に泊める。
その夜、弟の店近辺で火事が起こり蔵や家もろとも全財産が焼けてしまった。弟は小さな店を始めたものの、奉公人はいなくなり心労がたたって妻が病に伏せてしまう。立ち行かなくなった弟は連れてを三たび兄の元を訪れて50両を借りたいと申し出るが兄は断った。あの晩の約束を持ち出したものの「あれは酒の上での戯言だ」と反故にされて喧嘩になり、兄の家から飛び出して途方に暮れていると、娘が「自分が吉原に身を沈めて金を工面する」と言い出し、娘は身売りをし50両を手にした弟だったが、吉原からの帰り道に掏摸に会い、全財産を失くしてしまう。絶望のあまり首をくくったところで、兄から「ずいぶんうなされていたが」と起こされる。実は兄の家に泊まってからのことはすべて夢だったのだ。
「おらあ、あんまり鼠穴のことを気にしてたもんだから」「ははあ、夢は土蔵の疲れ(五臓の疲れの地口)だ」とサゲ。

サゲがついているので人情噺とは言えないが、シリアスな心理劇のような良く出来た噺だ。
それだけに何度か聴いているうちに、筋書きにキズがある事に気になった。それは弟の竹次郎が無一文で田舎から江戸に出てきていたという点だ。しかも叔父なるの野垂れ死にしてしまう。ここに無理がある。
例えば上方落語に『胴乱の幸助』があるが、主人公の幸助は丹波から棒の先に天保銭3枚をはりつけて大阪に出てきた。裸一貫でとしているが、それでも約300文を用意しており、取り敢えず大阪で生き抜く準備はしていたわけだ。

想像だが柳家権太楼もこのキズに気になったのだろう、次の部分を付け加え改変して演じた。
兄と別れた後、空腹で倒れていた竹次郎を見ず知らずの人が助け、食べ物と水を与えてくれる。さらにその人が住む長屋の大家に事情を話すと、竹次郎に物置を貸してくれて、住む所が確保できた。そこから竹次郎は小商いを始める。
周囲の人たちの好意で竹次郎は生活基盤が出来たので、そこから商売に励むことになる。
これだとオリジナルのキズは克服され、ストーリーの展開に無理がなくなる。
ただ、この改変により竹次郎の兄に対する当初の恨みや、その後の感謝の気持ちがオリジナルに比べ薄らいでしまう傾きが出てくる様に思う。
どちらが良いか、評価の分かれるところだろう。

2023/09/03

(続)この演者にはこの噺

前回より対象者を少し拡げて選んでみました。
演者と『演目』、()内の数字は「代目」を表しますが一部は省略しています。

桂かい枝『堪忍袋』
桂吉朝『質屋蔵』
桂文華『近日息子』
三遊亭圓歌(3)『坊主の遊び』
春風亭一朝『淀五郎』
春風亭小朝『牡丹灯篭よりお札はがし』
桃月庵白酒『松曳き』
隅田川馬石『明烏』
入船亭扇橋(9)『麻のれん』
入船亭扇辰『匙かげん』

2023/08/30

素噺と音曲師

三遊亭圓生(6代目)の話によれば、かつての東京の噺家は大きく素噺と音曲師に分かれていたという。
ここで言う音曲師というのは、音曲だけを演じるのではなく、噺の途中や最後に音曲を入れる噺家を指している。多い時は一晩の寄席に音曲師が5-6人も出ていたことがあったそうで、かなり比率も高かったようだ。前に上がった人の曲は後の人は避けて演じていたという。
音曲師のネタは素噺の人は演じなかったというから、きっちりと一線を画していたことになる。
最後の音曲師と言われているのは柳家枝太郎だが、昭和19年に戦災で亡くなってしまったと言う。
音曲師の中で圓生が最も上手いと思ったのは3代目三遊亭萬橘で、実に良い声をしていたと語っている。
素噺と音曲師の垣根がなくなったのでと断って、圓生は『包丁』を演じている。
ストーリーは、清元の師匠おあきを女房にしてヒモの様な暮らしをしていた久次が、他の若い女が出来たので女房と別れようとする。一計を案じて金に困っている仲間の寅を引き込んで、久次の留守に寅がおあき宅を訪れ、酒にまかせておあきに言い寄り、そこに久次が出刃包丁を持って現れておあきの不義を責め、おあきを田舎の芸者かなんかに売り飛ばして二人で山分けするという算段だ。
この噺のキモは、酔いに任せて寅が、小唄を唄いながらおあきの袖を引く場面だ。寅は『八重一重』を口三味線をひきながら唄うのだが、この場面を上手く演じるのが腕の見せ所だ。
『八重一重』
八重一重  
山も朧に薄化粧  
娘盛りはよい櫻花
嵐に散らで主さんに  
逢うてなまなか後悔やむ
恥ずかしいではないかいな
圓生はこの場面を実に上手く演じていた。音曲の素養がないと演じるのが無理なネタで、他の演者のものを聴いたことがあるが、小唄(他の曲に変えてる人もいた)の部分がダメで気の抜けたビールの様だった。
他に音曲の素養が必要な『汲みたて』『三十石』(東京版)といったネタも、圓生亡き後に引き継ぐ人がいない。
唄と踊りは噺家にとって必要な修練だが、中堅や若手の人たちは努力しているのだろうか。音曲師の後継者が育っていないということは、落語界全体の課題として捉える必要があるだろう。
他では、春風亭一朝が『植木のお化け』で音曲噺を演じている。

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