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2023/03/26

談春の「これからの芝浜」

「文藝春秋」4月号に立川談春が、自らが演じる「これからの芝浜」について記事を書いている。
談春によると、中学生の頃に談志の「芝浜」を聞いて談志への入門を決意したとある。すべてを投げうって人生を賭けてみとうと思わせる力が談志の「芝浜」にあったという。
昨年、「将来結婚をしたいか、その必要性を感じているか」というアンケートに対し、10代、20代の男女の30%が、「結婚はしたくないし、必要性も感じない」と答えたという。
知人の20歳のお嬢さんは、「男なんて面倒だから要らない」と両親の前で宣言したと。母親が、独りだろ淋しいと思う時が来るわよと言うと、娘は「だから今から勉強して、良い会社に入ってお金を貯めて家を買って、猫を飼うの」とと言われたという。
まあ、昨今の風潮である「今だけ、金だけ、自分だけ」の典型ですね。
「談志さんの芝浜を初めて聞いて素晴らしいと思いましたが、可愛い女房とは結局は縋る女として演じられているのですね」と、これは40代女性の感想。
談春はショックを受けたという。
自分が感動した「芝浜」をそのまま伝えても相手の心に届かないという未来図がぼんやりながら透けて見えた気がしたと、談春はいう。
それは時代だから仕方ないし、その危機を数多く乗り越えてきたから落語は滅びずにきたということは理解しているが、自分が狼狽えるほどのショックを受けた理由は、「自分も老いてゆくのだ」という意識せざるを得ないという現実に直面したからだという。
己の人生の歴史を否定される時代が、共通の言語も認識も持てない時代が、やがて来る。
談春は「芝浜」を変えて演じた。
女房がついた嘘を亭主ははじめから知っていたという設定にした。「また夢になるといけねえ」という最後のオチも変えた。亭主が3年ぶりに酒を飲む場面も加えた。
元の「芝浜」を知っていた人たちは驚いてくれたが、初めて聞いた人はあまり違和感がなかったのが救いだったという。
談春は芸歴40周年を迎えたのを機に、「これからの芝浜」でツアーをやろうと計画していると、結んでいる。

以下は私の感想。
①落語は元々万人を対象にした芸能ではない。寄席があったのは江戸や大阪といった大都市に限れていたので、ハナから客層は限定されていた。一部の好事家に揉まれ洗練されてきたのが落語の歴史だ。
②人間は独りでは生きてゆけない、「芝浜」もそれを教えてくれる。「今だけ、金だけ、自分だけ」という人が落語を通して人生を考え直してくれる事を願っている。
③「芝浜」の女房は賢い女で、決して可愛い女ではない。可愛い女として演じるのは邪道としか思えない。
④女房のついた嘘を実は亭主は見抜いていたという解釈は、三木助の「芝浜」でも可能だ。「芝浜」をメルヘンとしているのはこの為だ。

2023/03/05

「極め付き」の落語と演者

「極め付き」とは、一般にすぐれたものとして定評のあること、折り紙つきを指す。「極め付きの芸」という言い方がある。
ここでは現在のところ最高であり、これからもこれを超えるものは出現しないだろうと思われる4席を紹介する。

三代目春風亭柳好「野晒し」
実際の高座をみて強烈な印象を受けた。
新宿末広亭の高座に柳好が上がってくると、会場全体がパっと明るくなった。客席からはいっせいに「野晒し」の掛け声があがる。顔をあげた柳好が軽く頷きネタに入る。
唄い調子にのってテンポよく運ぶ噺に会場は爆笑の連続。
柳好のこのネタの肝は釣り人が唄う「さいさい節」で、これを超える演者に出会った事がない。

三代目桂三木助「芝浜」
登場人物は二人だけで、15ー20分ほどで演じる小品といって良い。芝の浜に買い出しに行き財布を拾う。家に帰ってお祝いだといって仲間と宴会を開く。ひと眠りして起きたら、女房が全ては夢だっと言い張り、亭主は納得してしまう。
そんな分けは無いだろう。これはメルヘンなのだ。
メルヘンをメルヘンとして演じた三木助の高座が全てだ。
これを近ごろでは噺をこねくり回して妙にリアリティを持たせたり、尾ひれを一杯つけて長く引き伸ばし大ネタとして演じる傾向があるが、方向性が間違っている。

八代目三笑亭可楽「らくだ」
以前の記事でこの噺については詳細に書いているので、興味のある方はそちらを参照願う。
古典落語の登場人物はほとんどが町民階級だ。これは当時の寄席が町民によって支えられていたからだろう。
このネタはその下の最下層に属する人たちを描いたもので、彼らの倫理観やネットワークが表現されている。
注目すべきは、屑屋のらくだに対する強い恨みで、それでいてらくだの葬礼を引き受ける優しさが同居している。
この部分の描き方が可楽が優れており、東京上方を含め可楽の「らくだ」を超えるものに出会ったことがない。

桂米朝「百年目」
このネタの肝は、部下の失敗に上司はどう対処すべきかという普遍的な意味を含んでいることだ。
特に大旦那が番頭を説諭する場面で、厳しさと同時に相手を励ましてみせる度量の深さが感じられる。
この大旦那の風格が米朝の真骨頂だ。
今後も米朝を超える演者は出てこないだろう。

2023/02/06

落語家とバラエティー番組

春風亭一之輔がTV番組の「笑点」に新メンバーとして加わったことが話題となっている。
コアの落語フアンの中には「何をいまさら」とか「一之輔、お前もか」といった反応もあるだろうが、人選としては悪くない。
メディアによっては「笑点」を演芸番組としているのもあるが、あれは完全なバラエティ番組だ。
一之輔にバラエティーとしての適性があるかどうかだが、元々が器用なので問題はなかろう。
現在の「笑点」の出演者が落語家としては一流とは言い難い顔ぶれなので、番組制作側としては軸になる人を求めていたのだろう。
噺家が本業以外の分野で活躍することは昔から行われてきた。立川談志や5代目三遊亭圓楽が「笑点」に出た頃も、既に人気落語家だった。
古今亭志ん朝だって若い頃はドラマや演劇に出ていたし、「週刊志ん朝」というバラエティー番組も持っていた。
ただ、談志や志ん朝がある時期から落語に専念したのに対し、圓楽は最後まで「笑点」に出続けた。それがその後の3人の落語家としての実績の差に現れてしまった様に思える。
先日、東京新聞でのインタビューで柳家喬太郎が、「自分はバラエティーに向かないので、そういうお話は全てお断りしている」と語っていたが、それも一つの選択だ。一方、映画や演劇には主演しているので、そちらの適性はあるということだろう。
一之輔が今後、本業とのバランスをどう取っていくのか注目したい。

2023/01/29

噺家の死、そして失われる出囃子

この20数年の間に、多くの噺家と別れを告げねばならなくなった。
志ん朝、談志、小三治、喜多八、5代目圓楽、米朝、枝雀と、ほかにも沢山いる。好きだった色物の芸人も数多く亡くなってしまった。
枝雀の様に突然の悲報を受ける場合もあれば、次第に弱ってゆく姿を見ながらこちらも覚悟していったケースもある。
柳家喜多八のケースでは、死の直前まで毎月のように高座を見続けてきた。最後の方は声もかすれてきて見るのも辛かったが、それでも全力を振り絞っての高座には感動をおぼえた。
5代目三遊亭圓楽の最後の高座では、椅子と机という姿だった。それも事務机で背の高いもので、紙をひろげていたので恐らくはメモを見ながらの口演だったのだろう。
古今亭志ん朝の場合は以前から異変に気付いていたので、後から弟子や周辺の人々が何も予測していなかったと聞いて意外な感じを持った。あの痩せ方は尋常ではなかった。もっと周りが注意していれば、最悪の事態は免れただろうと残念に思う。
好きな噺家の死は、親友を失ったような寂寥感に襲われる。
もう一つ寂しいのは、出囃子まであの世へ持って行ってしまうことだ。「野崎」や「鞍馬」の様に複数の人が使っていた場合は残るのだが、それ以外はそのまま「永久欠番」になってしまう例が多い。
有名な所では古今亭志ん生の「一丁入り」がある。あの独特のリズムと志ん生の芸風がよくマッチしていた。
もう再び聞く機会がないと思っていたら、先年、桂米朝がネタの中で使っていた。「骨釣り」で石川五右衛門の幽霊が出てくる場面があるが、ここで「一丁入り」が演奏されていた。
5代目春風亭柳朝の出囃子「薩摩さ」は、孫弟子の一之輔が使っている。
志ん朝の出囃子「老松」もよい曲だった。「老松」が鳴り志ん朝が登場するまでのワクワク感が堪らなかった。
米朝の「地獄八景」じゃないが、あちらで「志ん生・志ん朝親子会」や「米朝・枝雀二人会」に出会えるのを楽しみにしておこう。

2023/01/26

この演者にはこの噺

著名な、あるいは好きな噺家の代表的な演目を、出囃子と共に一覧にしてみました。
過去にも何度か同じ試みを行ってきましたが、今回の特長は次の通りです。
①新たな顔ぶれを数名加えたこと
②新作の比率を高めたこと
③演目の選定に当たっては演者の特色が濃いものを選んだ
(数字)は何代目かを示したが、不要と思われる者は割愛しました。
なお、元の原稿はエクセルで作成しましたが、ブログに上手く落とし込むことが出来ず、お見苦しい点はご容赦願います。

 演者    出囃子   演目
金原亭馬生(10) 鞍馬  笠碁
桂枝雀   昼まま 三十石夢の通い路
桂雀々    新鍛冶屋  手水廻し
桂春団治(3)  野崎  代書屋
桂文楽(8)   野崎  鰻の幇間
桂米朝     三下り鞨鼓  百年目
桂三木助(3)  つくま  芝浜
古今亭志ん生(5) 一丁入り 品川心中
古今亭志ん朝   老松  お見立て
三笑亭可楽(8)  勧進帳  らくだ
三遊亭圓生(6)  正札付  包丁
三遊亭圓楽(5)  元禄花見踊り 町内の若い衆
三遊亭金馬(3)  本調子鞨鼓  勉強
春風亭一之輔   薩摩さ  普段の袴
春風亭柳朝(5)  薩摩さ  宿屋の仇討
春風亭柳好(3)  梅は咲いたか 野晒し
春風亭柳枝(8)  三下がり鞨鼓 王子の狐
笑福亭松喬(6)  高砂丹前  首提灯
笑福亭松喬(7)  お兼晒し  月に群雲
立川志の輔    梅は咲いたか みどりの窓口
立川談志     木賊刈り  源平盛衰記
露の新治     金比羅船々 大丸屋騒動
林家正蔵(8)    菖蒲浴衣 一眼国
柳家喜多八    梅の栄 鈴ヶ森
柳家喬太郎    まかしょ コロッケそば
柳家小さん(5)   序の舞 粗忽長屋
柳家小三治    二上り鞨鼓  出来心
柳家権太楼    金毘羅船々  鼠穴

 

2022/12/04

「落語家」談志と、「噺家」小三治と

月刊誌「図書」12月号に、写真家の橘蓮二が「落語家と噺家」というタイトルで、立川談志と柳家小三治の思い出を書いている。
業界以外の人の目で、しかも二人を撮り続けた写真家という目を通して、二人にどういう印象を持ったかという点で興味ある記事だ。
タイトルの由来は、談志が「噺家なんぞと呼ばれたくない。俺は落語家だ」と言っていたのに対し、小三治は「私は話を語って聴かせるだけの噺家」と語っていたことによる。
同じ5代目柳家小さん門下でありながら、対照的な芸風だったいう点が面白い。
橘によれば、二人の「落語家」と「噺家」を別の表現に置き換えるなら、「表現」と「描写」だと言う。
談志が「伝統を現代に」を実践すべく、落語を一度解体、再構成して、演者がどう表現するかに重きを置いていた。
小三治は、言葉のデッサン力で、物語の起伏よりも光景を描くことに注力した。感情を使い過ぎぬよう落語の世界に溶け込む。演者の気持ちを優先するのはなく、登場人物の了見になる。
二人は全く別の落語世界に生きているように感じるのだが、表現の根幹は共通することが多かった。共に人間の営みや滑稽さや切なさに向きあい続ける、答の出ない人生への問いかけを生涯やめることはなかったと、橘は言う。

橘が談志を撮り始めて最初の2年間は全く口をきいてくれず、挨拶してのもチラリと一瞥されるだけだったが、ある日「オイ橘、お前はもう好きにしていい、いつでも撮らせてやる」と言われた。
周囲が求める立川談志として振舞い続ける首都圏の会に比べ、地方公演では自分のペースで過ごすリラックスした姿が撮れる。
自問自答を繰り返し、それまでの信念すら勝手な思い込みと疑い、既存の人間の本質を落語によって証明しようと格闘を続ける姿は鮮烈だったと言う。
無頼で奔放なイメージで語られることが多かった談志だが、ファインダー越しに受けた印象は繊細な心配り人。誰よりも他者の感情の揺れを察知する能力に長け、もっと鈍感であれば楽だったのにと思う事があったが、それこそ持って生まれた業、良くも悪くも世界が見え過ぎていた。
世界と自分とのバランスを取るために選んだのは、破壊と創造が同居したトリックスターであり続けることだったと言う。
私自身は、多くの高座に接した小三治に比べ、談志をライブでみた回数が圧倒的に少なかったで(好きじゃなかったから)、橘の言っていることは理解できない事も多いのだが、優れた談志論であると思う。

橘にとって最も印象的だった小三治の高座は、2008年3月の、まるで演者と観客が物語の中で一つに溶け合ったような圧巻の、「千早ふる」だった。
「自分で言うのもおこがましいが、小三治落語の完成形だった」と言っていたように、その日の高座は言葉一つ一つが優しい音になり、柔らかく舞うような所作と共に描いた空間はまるで異次元にいるようだったと言う。
こういう高座に出会ったフアンは幸せだね。
橘にとって最後の撮影になったのは、昨年9月23日の三鷹公会堂での「錦の袈裟」だった。珍しく小三治の方から声がかかり、「身体に気をつけろよ、元気でな」「ありがとうございます、また伺います」が最後の会話となった。
その10日後に演じた「猫の皿」が小三治の最後の高座になってしまった。弟子によると、高座を降りてからも「今日のサゲは上手くいったよ」と終始ご機嫌だったとのこと。
予定調和でない人生の、日々を愛で、人は何かの加減で生きているだけと、風に吹かれる柳の如く飄々と生きていた小三治の人生。
権威を嫌い、人間国宝になった時も弟子を前に、「芸人は芸がすべて、肩書などいらない」と言った。
高座では、聞き所をことさら強調せず、登場人物の想いがこぼれ落ちるのを待つように意識を手放し、感情のグラデーションで物語を彩った。台詞で想像力を掻き立てる表現力だからこそ掬いとれない秘めた心の内は、敢えて言葉に出すことことなく伝えた。
その研ぎ澄まされた感性こそが小三治落語の真骨頂だと、橘は言う。

長引くコロナ禍による閉塞感と、分断を煽る不穏な空気。気持ちの均衡が崩れそうになった時こそ、他者を許容する「落語的発想」が必要になる。
二人の稀代の芸人が愛した落語を通じて時代を見れば、きっと世知辛い日常も別の顔になって現れる、と橘は締めくくっている。

2022/10/29

独り言

タレントとしては優れていたが、
落語家としては「並」だった。
あの程度の芸で
「圓生襲名」を口にするなんざぁ
おこがましい。

2022/10/13

師匠の暴力暴言を弟子が告発

当ブログで以前に書いた記事「落語家の廃業」に、昨日からアクセスが急増している。原因を調べたら、「FRIDAY」WEB版に「落語界の名跡『三遊亭圓歌』の”壮絶暴言&暴力”を弟子が実名告発」というタイトルの記事が掲載されていた。
内容は、師匠である三遊亭圓歌が弟子の天歌に対して長期にわたり暴力や暴言を繰り返してきて、耐え切れなくなった天歌が師匠に「破門」を懇願しても受け容れて貰えないというものだ。
天歌によれば、何かあれば、暴言、暴力の後、「破門だ」と言われ、「坊主にすれば許す」ということが何度も繰り返されたという。
それも理不尽なことが多く、弟子からすれば何でそんなに怒られるかが分からない。
事例としては、以下の通り。
①公衆の面前の街頭でいきなり殴り倒され、通行人が警察に通報する騒ぎになった。天歌は、これは世間では犯罪になるんだと始めて知った。
②暴言も、「今後俺の視界に入るな」「同じ市に住むな。引っ越ししろ」と強要。
③暴力で支配して、弟子が辞めそうになったら『破門』を盾に弟子を黙らせる。そういうことをずっと繰り返してきた。
落語協会に訴えても、師匠と弟子の関係について口を挟むのは難しいという見解だ。
現在は、天歌は訴訟に踏み切っている。
三遊亭天歌の経歴は次の通り。
2009(平成21)年12月 三遊亭歌之介(現・圓歌)に入門
2010(平成22)年7月 前座となる 前座名 三遊亭ございます
2014(平成26)年11月1日 二ッ目昇進 「三遊亭天歌」と改名
なお、兄弟弟子に「三遊亭ありがとう」がいたが、前座の時に廃業している。
落語家の師弟関係については、漏れ聞くところによれば問題がある場合もあるようだが、ここまで拗れたのは珍しいと思う。
かつて相撲の世界では、兄弟子という字は「無理偏にげんこつ」と書くと言われていたが、落語界にも似た様な状況が残っているということか。

2022/09/26

第74回「大手町落語会」(2022/9/25)

第74回「大手町落語会」
日時:2022年9月25日(日)13時
会場:日経ホール
<  番組  >
前座・林家八楽『平林』
柳家やなぎ『さよならたっくん』
三遊亭萬橘『新聞記事』
桃月庵白酒『今戸の狐』
~仲入り~
春風亭柳枝『堪忍袋』
柳家さん喬『妾馬』

三遊亭萬橘が、高座のナマ配信はNGにしていると言う。噺家の姿勢として正解だと思う。落語という芸能は演者と客が同じ空間と時間を共有して始めて成り立つものだ。だから一期一会で、同じ演者が同じネタを演じても同じ出来にはならない。客が時間と費用をかけて寄席や落語会に足を運ぶのはそのためだ。コロナの影響で興行が打てず、芸人も生活に困窮しているという事からナマ配信が頻繁に行われるようになった事情は分かるが、それは本来の姿とは言えまい。
この日も萬橘の高座だけはナマ配信を外したようだ。

八楽『平林』、師匠が紙切りの二楽というから変わり種。

やなぎ『さよならたっくん』
先ずマクラから、キャンセル待ちの人が多いので航空券を譲って欲しいなんて空港内放送を聞いたことがない。あるのはオーバーブッキングのケースで、航空会社としてはチケットの譲渡に破格の条件を出す場合がある。
ネタは新作で、地方から上京しようとする娘を、付き合っていた男が代行に頼んでやめさせようとするという筋だった。
設定が古くさいし、ただただツマラネエ。

萬橘『新聞記事』
存在自体が面白い萬橘のようなフラのある人は得だ。自虐的なマクラだけで会場を引き込んでゆく。
お馴染みのネタだが、この人が演じると何となく可笑しいのだ。

白酒『今戸の狐』
古今亭のお家芸ともいうべきネタで、少し込み入っていて分かり辛い筋を明快に語っていた。落語家を脅すヤクザの人物像が良く出来てた。
ただ、最近の白酒は以前に比べややパワーが落ちている気がするのは私だけだろうか。

柳枝『堪忍袋』
古典と思われているが益田太郎冠者の新作、と言ってもかなり昔のことでもう古典になっていると言って良い。
8代目柳枝も得意としていたが、当代の柳枝は上方の演じ方だった。
主な違いは次の通り。
①東京版では夫婦喧嘩の原因は不明だが、上方版では原因は弁当の梅干し。
②東京版では大家が中国の故事から堪忍袋の効用を説くが、上方版では大家は薦めるだけ。
③東京版では酔っ払いが無理矢理袋をひったくったので緒が切れて、中の喧嘩がいっせいに飛び出す。上方版では嫁が「クソババア、死ね!!」と絶叫した時点で袋が満杯になり、病身の姑の前で袋がはじけて中に入っていた嫁の「クソババア、死ね!!」を聞いた姑が元気を取り戻す。
柳枝は笑いの多い上方版を東京に移しかえ、楽しく演じていた。

さん喬『妾馬』
通常の演じ方と異なるのは次の通り。
①八五郎が殿様の隣にいた妹のお鶴の傍まで行って、お鶴が抱いていた赤ん坊をあやす場面を加えた。
②八五郎が殿様の前で都々逸を唄うが、続いて手拍子で「ギッチョンチョン」を唄う。
①について、これだと殿様の側に侍っていたお鶴がずっと赤ん坊を抱いていたことになるが、状況としてあり得ないのでは。
②について、「ギッチョンチョン」は明治になってから座敷唄として流行ったもので、時代がずれているのではなかろうか。
①も②も、敢えて付け加える必要は無かったと思うので、この改変には疑問が残る。

2022/09/19

三遊亭圓窓の死去を悼む

落語家の六代目三遊亭圓窓(さんゆうてい・えんそう=本名・橋本八郎)が、9月15日に心不全のため都内の自宅で死去した。81歳だった。
【芸歴】
1959年3月 八代目春風亭柳枝に入門、「枝女吉(しめきち)」を名乗る
1959年10月 師匠柳枝の死去にともない、六代目三遊亭圓生門下に移り、「吉生(きっしょう)」と改名
1969年3月 抜擢され真打に昇進し、六代目三遊亭圓窓を襲名
1970‐1977年 「笑点」にレギュラー出演
1973年より 500の噺を口演する事を目指し隔月に3席ずつの口演を開始
2001年3月 「圓窓五百噺を聴く会」500席達成

師匠の芸風を継いだ折り目正しい高座が印象的だった。古典から新作まで、滑稽噺から人情噺まで、あらゆるジャンルの演目を演じた。
そして何より、公式サイトである「圓窓落語大百科事典・だくだく」でのネタの解説がとても参考になった。
例えば『青菜』の解説では、次の様に書かれている。
”東京の者にはこの落ちの意味がわからない。女房は「その名を九郎判官」と言って切り上げるべきなのに「九郎判官、義経」とまで言ってしまったので、熊五郎はその続きみたいに「弁慶にーー」と言った。それがなぜ落ちになるのかしら、と不審の念にかられる。
解説をすると、上方ではご馳走になることを「弁慶」というそうだ。これなら、立派な落ちである。
落ちを理解するには語彙が豊富でなければならない、と言えそうだ。”

心より哀悼の意を表します。

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