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2024/07/09

大瀬うたじの訃報

大瀬うたじ(おおせ・うたじ、本名藤沢能仁)が7月6日に脳幹出血のため死去した。76歳だった。
訃報では漫談家という紹介だが、寄席フアンにとっては、漫才師の大瀬ゆめじ・うたじ時代の記憶を思い出す。
ゆめじが駄ジャレを言うが、うたじはそれがシャレであると分からず、テーマに関する薀蓄を述べる、独特のスタイルだった。
その二人の行き違いが絶妙なタイミングで、真面目な顔をしたうたじの解説を、ゆめじがウンザリした表情で受けるのだ。
主なネタは、うなぎ、割箸など。
このコンビが好きで、寄席では出番が楽しみだった。
残念ながら2013年に解散してしまい、二人揃っての舞台は見ることが出来なかった。
相方のゆめじは昨年11月26日に既に死去している。
ご冥福を祈る。

2024/06/26

落語『文違い』の魅力

江戸時代に四宿、つまり日光・奥州街道の千住、中山道の板橋、甲州・青梅街道の内藤新宿、東海道の品川の四つの宿場をいう。
それぞれの宿場は岡場所にもなっていて、特に品川は繁盛していたようだ。
落語の廓噺の舞台は圧倒的に吉原が多いが、四宿を舞台にしたものもあり、落語『文違い』の舞台は内藤新宿だ。
『文違い』は好きなネタの一つで、登場人物の性格や人間関係がまるで心理劇を見ているような気分にさせられる。
普段の寄席では高座にかかる機会が少ないので、以下にあらすじを紹介する。

内藤新宿の遊郭の女郎のお杉は、間夫(本命)の芳次郎から目の治療費20円を用立てるよう頼まれる。
馴染みの客で我こそはお杉の間夫を自認する半七に、金をせびる父親との縁切り金として20円を無心するが、半七は半額の10円しか集められなかった。
困ったお杉は、別の馴染み客である田舎者の角蔵に、母親が病気で治すためには高価な唐人参を食べさせなけれならないと言って、角蔵が仲間から預かった15円を強引にふんだくる。
お杉は半七のいる部屋に戻ると、金を出すのを渋る半七から5円ださせ、20円というまとまったを持って1階の密会の小部屋に待っていた芳次郎に渡す。
お杉は芳次郎に、今晩泊まってくれと頼むが、芳次郎はこのままでは失明するが、シンジュという20円もする薬を塗れば良くなるし、一刻を争うので今直ぐに医者の治療をうけねばならないと言って、お杉を振り切って杖をつきながら表に出る。
てっきり治療に向かうと思われた芳次郎だが、杖を捨て近くに待機させていた人力車の乗って去る。
この様子を不審の目で見たお杉が、忘れ物を取りに二人の密会の場所に戻ると、そこに置き忘れた芳次郎宛の女からの手紙。
開けてみると、女が身請けの話を断るために20円が必要だと芳次郎への金の無心。眼病だと偽ってお杉から20円騙し取るという手口まで書かれていた。
ここでようやく、お杉が芳次郎に騙されたことに気づき、怒りに震えながら元の自分の部屋に戻る。
一方、半七はお杉の抽斗の中から、芳次郎からの手紙を見つける。
そこには、芳次郎が「眼病を治すために20円が必要で、半七という客から父親との縁切り金として・・・」とあり、騙されたと知った半七もかんかんだ。
鉢合わせした二人は掴み合いの大げんかを始めた。
この騒ぎを部屋で聞いていた角蔵は若い衆に、「早く行って止めてやれ。『15円やったのは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな」
「あ、ちょっくら待て、そう言ったら、おらがお杉の色男だちゅうことが知れやしねえかな」
でサゲ。

この噺の要点は、「間夫は勤めの憂さ晴らし」という言葉にある通り、通ってくる客はみな我こそが間夫だと見栄をはっている。
そこを女郎のお杉はつけ込んでまんまと大金をせしめるが、実はお杉自身が間夫から騙されていたというストーリー。
この噺のもう一つ面白いのは、払う方が相手に謝りながら金を受け取らせるという点だ。
騙す方が相手の弱点につけこみ、脅しをかけながら金を絞り取るのだ。
お杉→半七 夫婦になるのに邪魔な父親との縁切り
お杉→角蔵 夫婦になるのに母親が重病だから治療費が要る
芳次郎→お杉 既に夫婦気取りの間柄で、相手が盲人になったら大変だ
この様に相手の事情に合わせて騙すテクニックは、今の詐欺にも見られもので、この噺が現代でも受け入れられているのは、その為だろう。
しかも、上手く騙して金をせしめたと思われた芳次郎が、実は貢いでいる相手がいたという、どんでん返しが気が効いている。
各登場人物の性格付けや人間関係が明確なのも魅力だ。
知る限りでは、古今亭志ん朝の高座が光る。

2024/06/17

ミュージシャンに愛された「八代目三笑亭可楽」

柳家小三治が、最も好きな落語家として名前をあげたのは八代目三笑亭可楽だ。
ある落語会で顔を合わせた時に、あまり好き過ぎて声も掛けられなかったとマクラで語っている。
二人の芸風は似てないが、客に阿るところが無いのが共通点と言えるか。
古い記憶だが、可楽の高座というのは顎を引いてやや上目つかいで、低い声でボソボソと喋っていた。
ネタが決まれば、マクラからサゲまで全く同じに演じていた。ブレない。
当時の寄席で、明るい酔っ払いは柳好(三代目)、暗い酔っ払いは可楽と言われていた。
確かに十八番の『らくだ』にしても『味噌蔵』にしても、登場人物は心から楽しく酔ってるわけではない。
特に『らくだ』の屑やが、それまで従順に酒を飲んでいたのが、「ふざけんねえ、ふざけんねえ」のセリフを機に、怒りを爆発させる演出は見事だ。
ミュージシャン、それもジャズ演奏者に可楽フアンが多かったことでも知られる。ジャズと可楽の語りにはどこか親和性があったのだろうか。
フランク永井も可楽フアンを公言していた。
不遇で下積みが長く、晩年人気が出た矢先に病死してしまったのが残念だ。

2024/06/05

四代目「紫紺亭志い朝」

四代目紫紺亭志い朝は俳優というよりコメディアンの方が通りが良いか、「三宅裕司」が明治大学落語研究会に所属していた当時の高座名だ。
もちろん古今亭志ん朝の名前からもじったもので、紫紺亭は明大のスクールカラーから、志い朝は「C調」(調子の良いこと、又は人物)から採ったもの。
かつて松竹歌劇団(SKD)に所属していた母親の影響で幼い頃から日本舞踊、三味線、長唄、小唄などを習う。中学時代から落語を始めた。
結局、三宅は進路を落語ではなく喜劇を選び、劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)を旗揚げし、現在に至るまで座長を務めている。
その後、明大落研の後輩から紫紺亭志い朝の高座名は、五代目の立川志の輔、六代目の渡辺正行に引き継がれた。
明大出身の落語家は多く、五街道雲助もその一人だ。入学した翌年に飛び級で卒業したとマクラで語っていた。
もし三宅裕司が落語の道に進んでいたら、今ごろは看板の噺家になっていたかも。

2024/05/30

蝶花楼桃花が31日間連続口演

蝶花楼桃花が、7月に池袋演芸場で31夜の連続独演会を行う。
「桃花 31夜」と題して31日間ネタおろしを含む、異なる演目を披露するという。
落語家の中には、これだけ演じる力量がある人はいるだろうが、問題は31日間客が入るかどうかだ。それだけの集客力があるかだ。
現在の桃花の人気から充分にいけるという確信があるのだろう。
何せ、真打昇進後4か月で寄席のトリをとったのは、落語協会では最速の記録だ。
前座でデビューしたのは2007年、当時は春風亭ぽっぽの高座名でネタは「平林」を演じたが、上手い女流が出てきたなという印象で、当ブログに感想を載せた。
私は元々女性は落語家には向かないという信念があったが、桃花と同じ時期に前座でデビューした立川こはる(現在は立川小春志)の二人を見て、考え方を変えた。
2011年、二ツ目に昇進し「春風亭ぴっかり☆」に改名。寄席や落語会で何度か高座に接したが、古典を磨くという姿勢は好ましく感じた。そして着実に力をつけてきた。
2022年3月下席より真打に昇進して「蝶花楼桃花」に改名した。
残念ながら、その頃から当方は体調を崩し、寄席や落語会にも行けない状態になった。従って蝶花楼桃花になってからの高座は未見である。
何時の日か、健康が戻れば桃花の高座を見たいと願っているが、難しそうだ。

2024/02/09

春風亭小柳枝の死去

また好きな落語家が一人亡くなってしまった。
春風亭小柳枝(9代目)が、1月31日老衰のため死去した。88歳だった。
航空写真測量の会社でサラリーマンとして10年余り勤務し、新劇の俳優を目指したこともある異色の経歴の持ち主だが、落語では本格的な古典を演じていた。
芸風は最初の師匠である四代目春風亭柳好に似て、大きな声を出さずに喋る地味なタイプだったが、ジワリと心に響くような芸だった。
顔に残る傷は、包丁で襲われた時に犯人を取り押さえた際に負ったものだった。
また、芸協のハワイアン・バンドのメンバーでもあった。
『青菜』は、今でもこの人がベストだと思っている。
ご冥福を祈る。

2024/02/04

本を書くより芸を磨け

1月早々に行われたある落語会が顔付けが良く、会場が自宅から比較的近かったのと、年末ごろには体調も安定していたので久々にチケットを取った。
処が正月明けに不調になってしまい、娘に代わりに行って貰うことになった。
出演者は前座を除いて4人で、トリが喬太郎、仲入りがさん喬、前方が一之輔、食いつきは立川流の中堅どころのそこそこ知名度のある人だった。
娘の感想は、協会の3人は面白かったが、立川流の人は下手で面白くなかったとのことだった。
ロビーではその人の書いた著作の販売が行われていて、タイトルから察すると落語論の様だったという。
娘は、「本を書くよりまず自分の芸を磨けと」と思ったそうだ。
あの流派の人は家元の影響からか理屈っぽいのがいて、なかにはマクラで落語論とか芸談風な持論を披瀝するのもいて、辟易としたことがある。
落語家の書いた落語論や芸談に関する本も何冊か読んでことがあるが、感心したり納得したりできたのは桂米朝や三遊亭圓生の著作で、他はあまり参考にならなかった。
芸の裏づけが薄い人のものは概して説得力がない。
やはり芸人は、本業を磨くことが何より大事だろう。

2024/02/02

あの頃の色物の芸人

私が小学生時代(昭和20年代)に寄席で活躍していた落語家について2度にわたり紹介してきた。
今回は色物(寄席で落語以外の芸)の芸人について書いてみる。
先ずは柳家三亀松、当時は大変な人気で、色物では珍しくトリをとっていた。三味線漫談ともいうべき芸だったが、プログラムには「ご存知」柳家三亀松とあった。ただ、当時私は面白いと思ったことがなかった。小学生じゃ無理だったのかも。
三味線漫談では、都家かつ江も人気が高かった。女優としても映画に出ていたが、毒舌で「ここ(新宿末広亭)と人形町(末広)じゃ客ダネが違う」なんて平気で言っていた。高座は面白かった。
三味線コントでは、「のんき節」で売っていた瀧の家鯉香がいた。
音曲では、春風亭枝雀が美声で、細い首を長く伸ばして唄っていた。
漫才では、リーガル千太・万吉が人気があった。ゆっくりとしたテンポで喋りあうのだが、独特の間が特徴だった。
宮田洋容・布地由起江のコンビも、ラジオでレギュラーを持つほどの人気があった。二人とも声が良く、ミュージカル風のネタを入れていた。
楽器を持った歌謡漫才では都上英二・東喜美江がいた。東京では珍しい夫婦漫才だった。
講談は黄金時代とも言うべきで、一龍齋貞山(7代目、俗にお化けの貞山)、一龍齋貞丈(5代目)、宝井馬琴(5代目)といった錚々たる顔ぶれが揃っていた。講談は子どもには馴染めないと思われるだろうが、上手い人の講釈は楽しめた。
紙切りでは、初代林家正楽。
動物物まねでは、江戸家猫八 (3代目)。NHKの「お笑い三人組」のレギュラーでもあったが、トークの上手い人だった。
浪曲では、広沢菊春(2代目)。出囃子に乗って座布団の上で演じるといった変わったスタイルで、浪曲を落語風にアレンジしたり、又はその逆を行ったりして楽しませていた。
奇術では、怪しい中国訛りで喋り続けながら手品を演じたゼンジー北京がいた。コミックマジックの走りだ。
以上のように、色物でも綺羅星のごとく腕の良い人が揃っていたので、寄席は充実していた。

2024/01/28

林家正楽の訃報

落語フアンならこの人の名前を知らぬ人はいないだろう。
紙切り芸の第一人者である林家正楽(3代目)が、1月21日亡くなった。76歳だった。
直前まで寄席に出ていたそうで、とても残念な気持ちだ。
紙切りという芸は、当日客席からのリクエストがあればその場で紙を切り抜いてゆく芸で、事前の準備ができない難しい芸だ。
客層は子どもから老人まで幅広く、テーマも具体的なことから抽象的なものまで(例えばその年の芥川賞の作品というリクエストもあった)あるので、膨大な情報を頭に入れる必要がある。
同時に紙を切ってる間を客が退屈しないようにせねばならない。
正楽の場合は前後に体を揺らせながらトークを入れていた。このトークも楽しみの一つだった。
寄席ではトリの前に出る「ひざ代わり」の出番が多く、トリの口演時間の関係で数分ということもあれば十数分も時間を繋ぐこともある難しい役目だ。
あの芸をもう一度見たいと願うファンも多いだろう。
ご冥福を祈る。

2024/01/12

あの頃の一風変わった落語家の思い出

以前、小学生時代に寄席で出会った落語家の思い出を書いたが、今回はちょっと変わった人について触れてみたい。
上方の落語家で東京の協会に席を置き寄席に出ていた人がいた。
代表的なのが桂小文治(2代目)で、芸協の副会長として弟子も多い。ただこの人の関西弁は聞き取りづらく、内容は分からなかったせいか面白くなかった。今聴いてもやはりつまらない。
ただ、1席終わってから踊ることがあったが、これは上手かった。
小文治を聴いて、やっぱり落語は東京だよなと思っていたら、その考えを改めたのが三遊亭百生(2代目)の高座だ。
コテコテの関西弁だったにもかかわらず内容が聴き取れ、噺も面白かった。そして何より愛嬌があった。
桂小南(2代目)はソフトな関西弁で聞きやすく、明快な語り口で人気があった。
桂右女助(後に6代目三升家小勝を襲名)は、新作の『水道のゴム屋』で売っていた。
古今亭今輔(5代目)は、お婆さん落語で人気を博した。「お爺さんは黙ってらっしゃい!」なんてやっていた。
口の悪いのは鈴々舎馬風(4代目)で、高座に上がって開口一番が「よく来たな」だった。刑務所に慰問に行って、「満場の悪漢諸君!」と挨拶したという有名なエピソードが残されている。
桂枝太郎(2代目)は、漫談風の高座だった。
三遊亭小金馬(後の4代目三遊亭金馬)は腹話術だった。
三遊亭圓馬(4代目)は押し出しは良かったが、噺はあまり面白くなかった。
文楽や志ん生といった人たちは、ホール落語やラジオ番組出演が主で、普段の寄席には出なくなっていた。

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