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2023/09/03

(続)この演者にはこの噺

前回より対象者を少し拡げて選んでみました。
演者と『演目』、()内の数字は「代目」を表しますが一部は省略しています。

桂かい枝『堪忍袋』
桂吉朝『質屋蔵』
桂文華『近日息子』
三遊亭圓歌(3)『坊主の遊び』
春風亭一朝『淀五郎』
春風亭小朝『牡丹灯篭よりお札はがし』
桃月庵白酒『松曳き』
隅田川馬石『明烏』
入船亭扇橋(9)『麻のれん』
入船亭扇辰『匙かげん』

2023/08/30

素噺と音曲師

三遊亭圓生(6代目)の話によれば、かつての東京の噺家は大きく素噺と音曲師に分かれていたという。
ここで言う音曲師というのは、音曲だけを演じるのではなく、噺の途中や最後に音曲を入れる噺家を指している。多い時は一晩の寄席に音曲師が5-6人も出ていたことがあったそうで、かなり比率も高かったようだ。前に上がった人の曲は後の人は避けて演じていたという。
音曲師のネタは素噺の人は演じなかったというから、きっちりと一線を画していたことになる。
最後の音曲師と言われているのは柳家枝太郎だが、昭和19年に戦災で亡くなってしまったと言う。
音曲師の中で圓生が最も上手いと思ったのは3代目三遊亭萬橘で、実に良い声をしていたと語っている。
素噺と音曲師の垣根がなくなったのでと断って、圓生は『包丁』を演じている。
ストーリーは、清元の師匠おあきを女房にしてヒモの様な暮らしをしていた久次が、他の若い女が出来たので女房と別れようとする。一計を案じて金に困っている仲間の寅を引き込んで、久次の留守に寅がおあき宅を訪れ、酒にまかせておあきに言い寄り、そこに久次が出刃包丁を持って現れておあきの不義を責め、おあきを田舎の芸者かなんかに売り飛ばして二人で山分けするという算段だ。
この噺のキモは、酔いに任せて寅が、小唄を唄いながらおあきの袖を引く場面だ。寅は『八重一重』を口三味線をひきながら唄うのだが、この場面を上手く演じるのが腕の見せ所だ。
『八重一重』
八重一重  
山も朧に薄化粧  
娘盛りはよい櫻花
嵐に散らで主さんに  
逢うてなまなか後悔やむ
恥ずかしいではないかいな
圓生はこの場面を実に上手く演じていた。音曲の素養がないと演じるのが無理なネタで、他の演者のものを聴いたことがあるが、小唄(他の曲に変えてる人もいた)の部分がダメで気の抜けたビールの様だった。
他に音曲の素養が必要な『汲みたて』『三十石』(東京版)といったネタも、圓生亡き後に引き継ぐ人がいない。
唄と踊りは噺家にとって必要な修練だが、中堅や若手の人たちは努力しているのだろうか。音曲師の後継者が育っていないということは、落語界全体の課題として捉える必要があるだろう。
他では、春風亭一朝が『植木のお化け』で音曲噺を演じている。

2023/08/05

落語『永代橋』

落語のネタに『永代橋』というのがある。
圓生や彦六の正蔵の録音があるが、私もナマの高座で聞いたことがなく珍しいネタに属するだろう。
このネタを紹介しようと思ったのは次の理由による。
①文化4年(1807年)8月19日、深川八幡の祭りの日に永代橋が群衆の重みで落下し多数の犠牲者を出した実際の事件がテーマになっている珍しいネタであること。
②勤務先の関係で数年間は、毎日バスで永代橋を往復していたこと。
③舞台となった深川八幡の周辺は飲み屋街で、夜な夜なこの辺りを飲み歩いた思い出の街であること。

【あらすじ】
深川八幡祭りは、赤坂日枝神社の山王祭り、神田明神の神田祭りとともに「江戸三大祭り」の一つ。8月15日を中心に例祭が行われるが、文化4年は天候の関係で8月19日に日延べとなっていた。この日、一ツ橋公が船で永代橋下を通るということで午前11時頃までは橋は通行止めになり、橋の周辺は群衆で溢れかえっていた。通行が解除されると群衆は一斉に橋の上に殺到し、その重みで足下駄が折れ大勢の群衆が川に落下していく大惨事となった。
遺体が引き上げられ身元が判明したものは各町内の大家に通知が届き、大家は遺体の引き取りの責任を負う。
神田たて大工町の大家・太兵衛の元に役人から、支配下の武兵衛が水死したのでと、遺体の引き取りを命じられる。現場に向かおうとしていたら当の武兵衛が歩いてきた。それなら本人に引き取らせれば間違いないと、大家は武兵衛を伴って遺体安置所に行く。
遺体を確認すると武兵衛はこれは俺じゃないと言い出し、大家と喧嘩となる。
事情を聞いた役人が、遺体が身に着けていた武兵衛の名札の入った紙入れを示すと、武兵衛は自分のもので、祭りに行く途中で掏られたもので、そのため永代橋に行かなかったと説明し、役人も納得する。遺体はスリだったのだ。
収まらないのは大家から死人扱いされた武兵衛で、大家を訴えると息巻くが、役人が、
「大家は太兵衛で、お前は武兵衛、太兵衛に武兵衛(多勢に無勢)でかなわない」
でサゲ。

全体の構図は『粗忽長屋』に似ているが、サゲがイマイチのせいで高座にかかる機会が少ないのだろう。
ドキュメンタリーを織り込んだ珍品ではある。

2023/07/30

小三治のモノマネ

手元にある柳家小三治「初天神」の録音、口演の年月が記録されていないが、改築前のイイノホールでの最後の「東京落語会」という事から、恐らくは2006年頃かと思われる。
この高座のマクラで小三治は、前座時代の「東京落語会」の思い出を語っていて、珍しく下記の演者のモノマネを披露している。
・春風亭柳橋(6代目):芸術協会の創立者で44年間会長職を務めた。周囲は師匠と呼ばず先生と呼んでいた。
・三遊亭金馬(3代目):東宝専属だったので寄席には出なかったが、ラジオ出演が断然多く、分かり易い話芸で人気者だった。
・三笑亭可楽(8代目):小三治がフアンだと言っていたが、ミュージシャンに可楽フアンが多いことで知られていた。
・三遊亭圓生(6代目):滑稽噺、人情噺、音曲噺、芝居噺など落語のあらゆるジャンルの第一人者。
・古今亭志ん生 (5代目):桂文楽(8代目)と共に昭和の落語界を代表していた。破天荒というべき芸風は不世出といってよい。
小三治のモノマネはいずれもその特徴をよくつかんでいて似ている。会場は大受けだったようだ。
この他モノマネの対象にはなっていないが、同時代に活躍していて芸を競っていた噺家として、
桂文楽(8代目)
桂三木助(3代目)
春風亭柳好(3代目)
柳家小さん(5代目)
などがいた。
小三治が「皆、雲の上の人たちだった」と回想しているように、落語の黄金時代だった。
このうち何人かはナマの高座に接している。私は幸せ者だ。

2023/07/22

祝!人間国宝「五街道雲助」

7月21日、五街道雲助が落語界4人目の人間国宝に選ばれた。落語家としては4人目で、古今亭一門からは初の人間国宝だ。
次の人間国宝としては雲助か権太楼を予測していたので、順当な結果といえる。
10代目金原亭馬生に入門し、滑稽噺から人情噺までた幅広い高座を演じるが、芸風は必ずしも師匠ゆずりとは言えない、独特の語り口だ。
「名人長二」や「双蝶々」など、埋もれていた古典を掘り起こし復活させた功績も大きい。
芸風は一口でいえば江戸の粋を体現していて、住まいが浅草観音様の近くというのも納得する。
東京新聞に連載していた自伝的なエッセ-によれば、若い頃はなかなかの遊び人だったようだ。
高座では派手さはないが、私服姿を二度ほどみかけたがオシャレで、さすが芸人だと思った。
弟子は3人いるが、師匠を含めて4人全員が亭号が異なるという珍しい一門だ。3人の弟子はいずれも優秀だ。

2023/06/28

古今亭八朝の死去

落語家の古今亭八朝が6月26日、老衰のため死去した。71歳だった。
八朝の経歴は、1970年4月に三代目古今亭志ん朝に入門。73年5月に志ん吉の名で前座。75年11月、二ツ目昇進し、八朝に改名。1984年9月に真打に昇進した。
残念ながら八朝のナマの高座には接していないが、ラジオ番組に出演した時の録音が残っていて、マクラで自己紹介をしている。
時期は不明だが、これから入院するような事を語っていたので、もともと持病があり、それが71歳で老衰になった原因だったのかも知れない。
前座時代に、柳家権太楼や立川談四楼と共に「仁義なき落語会」という名称の会を開いていたと言う。前座は独自の落語会を行うのは禁止されていて、それが師匠の志ん朝にばれて大目玉を食ったとある。
演じたネタは『真田小僧』だったが、志ん朝の芸風を継いだものだった。
ご冥福を祈る。

2023/03/26

談春の「これからの芝浜」

「文藝春秋」4月号に立川談春が、自らが演じる「これからの芝浜」について記事を書いている。
談春によると、中学生の頃に談志の「芝浜」を聞いて談志への入門を決意したとある。すべてを投げうって人生を賭けてみとうと思わせる力が談志の「芝浜」にあったという。
昨年、「将来結婚をしたいか、その必要性を感じているか」というアンケートに対し、10代、20代の男女の30%が、「結婚はしたくないし、必要性も感じない」と答えたという。
知人の20歳のお嬢さんは、「男なんて面倒だから要らない」と両親の前で宣言したと。母親が、独りだろ淋しいと思う時が来るわよと言うと、娘は「だから今から勉強して、良い会社に入ってお金を貯めて家を買って、猫を飼うの」とと言われたという。
まあ、昨今の風潮である「今だけ、金だけ、自分だけ」の典型ですね。
「談志さんの芝浜を初めて聞いて素晴らしいと思いましたが、可愛い女房とは結局は縋る女として演じられているのですね」と、これは40代女性の感想。
談春はショックを受けたという。
自分が感動した「芝浜」をそのまま伝えても相手の心に届かないという未来図がぼんやりながら透けて見えた気がしたと、談春はいう。
それは時代だから仕方ないし、その危機を数多く乗り越えてきたから落語は滅びずにきたということは理解しているが、自分が狼狽えるほどのショックを受けた理由は、「自分も老いてゆくのだ」という意識せざるを得ないという現実に直面したからだという。
己の人生の歴史を否定される時代が、共通の言語も認識も持てない時代が、やがて来る。
談春は「芝浜」を変えて演じた。
女房がついた嘘を亭主ははじめから知っていたという設定にした。「また夢になるといけねえ」という最後のオチも変えた。亭主が3年ぶりに酒を飲む場面も加えた。
元の「芝浜」を知っていた人たちは驚いてくれたが、初めて聞いた人はあまり違和感がなかったのが救いだったという。
談春は芸歴40周年を迎えたのを機に、「これからの芝浜」でツアーをやろうと計画していると、結んでいる。

以下は私の感想。
①落語は元々万人を対象にした芸能ではない。寄席があったのは江戸や大阪といった大都市に限れていたので、ハナから客層は限定されていた。一部の好事家に揉まれ洗練されてきたのが落語の歴史だ。
②人間は独りでは生きてゆけない、「芝浜」もそれを教えてくれる。「今だけ、金だけ、自分だけ」という人が落語を通して人生を考え直してくれる事を願っている。
③「芝浜」の女房は賢い女で、決して可愛い女ではない。可愛い女として演じるのは邪道としか思えない。
④女房のついた嘘を実は亭主は見抜いていたという解釈は、三木助の「芝浜」でも可能だ。「芝浜」をメルヘンとしているのはこの為だ。

2023/03/05

「極め付き」の落語と演者

「極め付き」とは、一般にすぐれたものとして定評のあること、折り紙つきを指す。「極め付きの芸」という言い方がある。
ここでは現在のところ最高であり、これからもこれを超えるものは出現しないだろうと思われる4席を紹介する。

三代目春風亭柳好「野晒し」
実際の高座をみて強烈な印象を受けた。
新宿末広亭の高座に柳好が上がってくると、会場全体がパっと明るくなった。客席からはいっせいに「野晒し」の掛け声があがる。顔をあげた柳好が軽く頷きネタに入る。
唄い調子にのってテンポよく運ぶ噺に会場は爆笑の連続。
柳好のこのネタの肝は釣り人が唄う「さいさい節」で、これを超える演者に出会った事がない。

三代目桂三木助「芝浜」
登場人物は二人だけで、15ー20分ほどで演じる小品といって良い。芝の浜に買い出しに行き財布を拾う。家に帰ってお祝いだといって仲間と宴会を開く。ひと眠りして起きたら、女房が全ては夢だっと言い張り、亭主は納得してしまう。
そんな分けは無いだろう。これはメルヘンなのだ。
メルヘンをメルヘンとして演じた三木助の高座が全てだ。
これを近ごろでは噺をこねくり回して妙にリアリティを持たせたり、尾ひれを一杯つけて長く引き伸ばし大ネタとして演じる傾向があるが、方向性が間違っている。

八代目三笑亭可楽「らくだ」
以前の記事でこの噺については詳細に書いているので、興味のある方はそちらを参照願う。
古典落語の登場人物はほとんどが町民階級だ。これは当時の寄席が町民によって支えられていたからだろう。
このネタはその下の最下層に属する人たちを描いたもので、彼らの倫理観やネットワークが表現されている。
注目すべきは、屑屋のらくだに対する強い恨みで、それでいてらくだの葬礼を引き受ける優しさが同居している。
この部分の描き方が可楽が優れており、東京上方を含め可楽の「らくだ」を超えるものに出会ったことがない。

桂米朝「百年目」
このネタの肝は、部下の失敗に上司はどう対処すべきかという普遍的な意味を含んでいることだ。
特に大旦那が番頭を説諭する場面で、厳しさと同時に相手を励ましてみせる度量の深さが感じられる。
この大旦那の風格が米朝の真骨頂だ。
今後も米朝を超える演者は出てこないだろう。

2023/02/06

落語家とバラエティー番組

春風亭一之輔がTV番組の「笑点」に新メンバーとして加わったことが話題となっている。
コアの落語フアンの中には「何をいまさら」とか「一之輔、お前もか」といった反応もあるだろうが、人選としては悪くない。
メディアによっては「笑点」を演芸番組としているのもあるが、あれは完全なバラエティ番組だ。
一之輔にバラエティーとしての適性があるかどうかだが、元々が器用なので問題はなかろう。
現在の「笑点」の出演者が落語家としては一流とは言い難い顔ぶれなので、番組制作側としては軸になる人を求めていたのだろう。
噺家が本業以外の分野で活躍することは昔から行われてきた。立川談志や5代目三遊亭圓楽が「笑点」に出た頃も、既に人気落語家だった。
古今亭志ん朝だって若い頃はドラマや演劇に出ていたし、「週刊志ん朝」というバラエティー番組も持っていた。
ただ、談志や志ん朝がある時期から落語に専念したのに対し、圓楽は最後まで「笑点」に出続けた。それがその後の3人の落語家としての実績の差に現れてしまった様に思える。
先日、東京新聞でのインタビューで柳家喬太郎が、「自分はバラエティーに向かないので、そういうお話は全てお断りしている」と語っていたが、それも一つの選択だ。一方、映画や演劇には主演しているので、そちらの適性はあるということだろう。
一之輔が今後、本業とのバランスをどう取っていくのか注目したい。

2023/01/29

噺家の死、そして失われる出囃子

この20数年の間に、多くの噺家と別れを告げねばならなくなった。
志ん朝、談志、小三治、喜多八、5代目圓楽、米朝、枝雀と、ほかにも沢山いる。好きだった色物の芸人も数多く亡くなってしまった。
枝雀の様に突然の悲報を受ける場合もあれば、次第に弱ってゆく姿を見ながらこちらも覚悟していったケースもある。
柳家喜多八のケースでは、死の直前まで毎月のように高座を見続けてきた。最後の方は声もかすれてきて見るのも辛かったが、それでも全力を振り絞っての高座には感動をおぼえた。
5代目三遊亭圓楽の最後の高座では、椅子と机という姿だった。それも事務机で背の高いもので、紙をひろげていたので恐らくはメモを見ながらの口演だったのだろう。
古今亭志ん朝の場合は以前から異変に気付いていたので、後から弟子や周辺の人々が何も予測していなかったと聞いて意外な感じを持った。あの痩せ方は尋常ではなかった。もっと周りが注意していれば、最悪の事態は免れただろうと残念に思う。
好きな噺家の死は、親友を失ったような寂寥感に襲われる。
もう一つ寂しいのは、出囃子まであの世へ持って行ってしまうことだ。「野崎」や「鞍馬」の様に複数の人が使っていた場合は残るのだが、それ以外はそのまま「永久欠番」になってしまう例が多い。
有名な所では古今亭志ん生の「一丁入り」がある。あの独特のリズムと志ん生の芸風がよくマッチしていた。
もう再び聞く機会がないと思っていたら、先年、桂米朝がネタの中で使っていた。「骨釣り」で石川五右衛門の幽霊が出てくる場面があるが、ここで「一丁入り」が演奏されていた。
5代目春風亭柳朝の出囃子「薩摩さ」は、孫弟子の一之輔が使っている。
志ん朝の出囃子「老松」もよい曲だった。「老松」が鳴り志ん朝が登場するまでのワクワク感が堪らなかった。
米朝の「地獄八景」じゃないが、あちらで「志ん生・志ん朝親子会」や「米朝・枝雀二人会」に出会えるのを楽しみにしておこう。

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