寄席・落語

2022/06/25

十代目入船亭扇橋に期待する

先日、落語協会から今秋9月下席より3人が真打昇進することが発表され、その内の一人である入船亭小辰が「十代目入船亭扇橋」を襲名するとのこと。
小辰の古典を真っ直ぐに演じてもその面白さが伝えられる技量は、二ツ目の中でも群を抜いていた。
欲をいえばより華やかさがほしい所だが、これはおいおい身に着けてゆくことだろう。
大師匠の名跡を継ぐのを機会に、一層の飛躍を期待したい。

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2022/06/24

戦時下の寄席など(吉村昭「東京の戦争」より)

吉村昭「東京の戦争」は、昭和16年から20年の終戦に至る時期の、東京下町の暮しを中学生だった吉村の眼を通して描いたもので、貴重な記録文学になっている。
昭和17年といえば、東京に初の空襲があった年だが、15歳の吉村少年は映画館や芝居、寄席にせっせと通っている。中学生がそういう場所の出入りするのは保護者同伴というのが規則だったので、上野「鈴本」に行く時は制服や制帽、カバンを全て駅の一時預かりに預けてから行っていた。
客席は畳敷きで木製の箱枕が置かれ、客はそれに頭を乗せ横になっていたが、上手い人が出てくると起き上がって聴いていた。
出演者(以下、何代目は当方が想定して加えた)は、桂文楽(8代目)、三遊亭金馬(3代目)、春風亭柳好(3代目)、桂文治(8代目)、春風亭柳橋(6代目)、林家正蔵(7代目、初代三平の実父)といった顔ぶれだったというから、随分と豪華だったんだね。
正蔵は派手な着物で噺も華やかで、吉村はその個性が好きだった。
若い落語家が噺が終わった後、両手をついて、「召集令状を頂戴しまして、明日出征ということになりました。拙い芸で長い間御贔屓にあずかり、心より御礼申し上げます」と、深々と頭を下げた。客席からは、「体に気を付けな」「又ここに戻ってこいよ」と声がかかる。
落語家は何度も頭を下げ、腰をかがめて高座を下りていった。
吉村少年は浅草六区にも足を運び、特に花月劇場がお気に入りだったようだ。
ここでは軽演劇がかかっていて、清水金一(シミキン)、森川信らが出演していた。森川の演技はしっとりとしていて、体がふるえるような可笑しさがあった。森川といえば「男はつらいよ」シリーズの初代おいちゃんを演じていたが、吉村によれば浅草時代の森川とは別人のようだった。
当時人気の「あきれたぼういず」も出演していた。川田義雄(晴久)、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓、山茶花究による日本のヴォードヴィルグループで、その演芸様式は後にグループ名から取って「ボーイズ芸」と呼ばれるようになった。
その芸に客たちは興奮し、吉村は陶然としていたそうだ。
舞台には柳家三亀松も出演していて、「間」の効果を知り抜いた類い稀なる芸人だったと吉村は書いている。
私見だが、三亀松は出来不出来があり、明らかに手抜きする時もあったが、晩年に観た人形町末広での高座はゾクゾクするほどの魅力があった。
戦時下でも、こうした寄席や大衆芸能が盛んに行われ、浅草六区などは雑踏を極めていたという事実には驚かされる。
しかし、浅草の賑わいも劇場も、昭和20年3月10日の東京大空襲によって灰燼に帰してしまう。

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2022/05/28

澤孝子の死去

浪曲師の澤孝子が、5月21日に死去した。
私は、澤の舞台は10年以上前に一度だけしか観てないが、国立演芸場の最前列で聴いた時はあまりの迫力に思わず椅子から滑り落ちそうになった。それほど強く印象に残っている。
浪曲というと演台に派手なテーブルかけが設えていて、立ったまま演じる事が多いのだが、澤は珍しく高座の座布団に座り語る「座り高座」で演じた。
今回調べてみたら、師匠が二代目廣澤菊春だった。菊春は寄席に出ていた浪曲師で、やはり「座り高座」で演じていた。話は脱線するが、菊春は落語浪曲という新しい分野をひらいた人で、小学生だった私も楽しめる面白い語りで人気があった。
澤の舞台は、声・節・啖呵とも申し分なく、すっかり魅了されてしまった。
古典芸能の中では浪曲は昔から女流で活躍した人が多いが、澤孝子のように日本浪曲協会会長を務めた人は稀だと思う。
ご冥福を祈る。

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2022/05/22

第219回「朝日名人会」(2022/5/21)

第219回「朝日名人会」
日時:2022年5月21日(土)14時
会場:有楽町朝日ホール
前座・入船亭扇ぱい『饅頭こわい』
春風亭朝之助『だくだく』
桃月庵白酒『干物箱』
入船亭扇遊『ねずみ』
 ― 仲入り―
柳家権太楼『鼠穴』

雨模様だったので傘持参で出かけたが、往復ともに雨にあわずに済んだ。久々に都心に出ると景色がまぶしい。

朝之助『だくだく』
このネタのポイントは、後半で畳み込むような喋りで見せ場を作ることだが、そこがやや物足りなかったな。

白酒『干物箱』
暗いニュースが続いていたが、久しぶりに明るいニュースとして、例の山口県阿武町で4630万円が誤送金され、回収できなくなっている事件をとりあげていた。大した問題ではないにも拘わらず、連日ワイドショーで話題にしているのも、コロナとウクライナ戦争報道疲れへの反動かな。
湯屋に行くと出かけた若旦那が途中で知人に出会い、物真似が上手い善公を使って若旦那と入れ替わるという知恵を授かるという場面を加えていた。
善公が二階に上がってから、若旦那と花魁が再会してじゃれ合う場面を連想し大騒ぎするので、親父に咎められる。この場面がいかにも白酒らしい演じ方だった。この人は相変わらず面白い。

扇遊『ねずみ』
扇遊とは二三言葉を交わしたことがある程度だが、誠実な人柄に見えた。その演者の個性がネタに生きている高座だった。
ご存知甚五郎もので、最大の聴かせ所はねずみ屋の主人・卯兵衛が語る身の上話だ。酷い中味だが、ここを淡々と語る姿に甚五郎が心を打たれる。幼い倅の卯之吉の健気な姿にも甚五郎が心を寄せる。
ねずみ屋の主対虎屋の主、甚五郎対飯田丹下という善悪の対比も巧みに描かれていた。
聴き終わって清々しい気分になれるのは、やはり演者の人柄によるものだろう。

権太楼『鼠穴』
持ちなれない大金を持つと、時に人間を破滅させるという怖さを描く。同じネズミの付くタイトルだが、こちらは全く雰囲気の異なるストーリーだ。
オリジナルでは、三文の元手を貰った竹次郎が、小さな商いから始めて大店を持つようになるという筋。前から気になっていたのは、江戸の町で三文では、暮らしてゆけないだろういうことだった。そこを補うように、権太楼は空腹で倒れていた竹次郎を、見ず知らずの人が助け、食べ物と水を与えてくれる(江戸は水もタダではない)。さらにその人が住む長屋の大家に事情を話すと、竹次郎に物置を貸してくれて、住む所が確保できた。そこから竹次郎は小商いを始めて、その働きぶりに感心して後援者が出来てきて、その人の紹介で質屋の跡取りとなる。江戸の町人の人情で竹次郎は立ち直ることができたわけだ。権太楼は、その辺りを丁寧に描いてみせた。
後半では、火事で焼け出された竹次郎が娘を連れて兄のもとを訪れ金を無心するが、冷たくあしらわれる。オリジナルでは、元手を作るために娘を泣く泣く吉原に売るが、その金も掏られれしまい、絶望した竹次郎は首を括ろうとするが、権太楼はこの部分を全てカットして演じた。
そうすることにより、人間の心の中に棲む善悪の心を浮きだたせる心理劇として演じようとしたのではないかと推察する。
一見の価値のある見事な高座だった。

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2022/05/05

落語「らくだ」考

古典落語に「らくだ」という演目がある。上方では「らくだの葬礼」というタイトルで演じられることがある。落語ファンならお馴染みのネタだが、普段の寄席では高座にかかる機会が少ない。
代表的な演者としては、上方なら6代目笑福亭松鶴、東京なら8代目三笑亭可楽があげられる。
「らくだ」は他のネタと比べて特徴的なのは、主要な登場人物が社会の下層に属する人々だということにある。
先ず、らくだ自身(噺の始まる前に既に死亡している)が身寄り頼りがないという設定だ。こいう人だと長屋に住むのが難しかったはずだ。現にらくだが死んでも引き取り手がなかったわけで、たまたま第一発見者が兄貴分だったから葬礼まで出すことができた。大家としては助かったのだ。
その兄貴分もらくだ同様の、江戸時代でいえば人別帳から席が抜かれているような無宿者だったのではなかろうか。主人公の屑屋も身分は低いし、松鶴によれば長屋の住人はみな出商売(棒手振り)というから、店を構えた商人ではない。
そして最後に出てくる火屋(火葬場)の隠亡(火葬場の番人)は、江戸時代では賤民とされていた。
こうした最下層の人々を演じるので、演者にも適不適があると思う。例えば、8代目桂文楽には適さないし、志ん生や5代目小さんは合うけど、圓生は合わない気がする。上方なら、3代目春団治は多分演じていないだろうし、米朝もピッタリ来ない。
一番の推しは、先にあげた8代目可楽だ。東京でいえば、可楽を超す人はいない。屑屋がらくだの兄貴分と酒を呑む場面で、それまで堪えていた屑屋がいきなり「ふざんけんねぇ、ふざけんねぇ」の二言で、怒りを爆発させる。らくだから酷い扱いを受けてきた悔しさと、兄貴分からアゴで使われてきた屈辱感が、ここで一気に爆発するのだ。この場面の演じ方は可楽の独壇場だ。らくだの死骸を坊主する際は、屑屋が頭の毛を毟り取るという凄惨な演じ方も、らくだに対する怒りを示している。
名演と定評がある松鶴の「らくだ」だが、ひとつ納得のいかない点がある。それは屑屋が「らくださんのとこで弁当を使わせて貰っていた」と語る場面だ。出商売の商人はお得意さんの家で弁当を使わせて貰うのはよくあることだが、それはお得意さんとのコミュニケーションのためでもあり、お茶や水を貰うことも出来るからだ。しかし、屑屋はらくだに度々酷い目にあっており、そういう家でわざわざ弁当を使うというのは不自然だ。他は申し分ないだけに、惜しまれる。

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2022/04/29

令和3年度「花形演芸大賞」に「桂小すみ」

やや旧聞に属するが、令和3年度「花形演芸大賞」受賞者は下記の通り。
<大賞>
桂小すみ(音曲)
<金賞>   
神田伯山(講談)
瀧川鯉八(落語)
古今亭志ん五(落語)
笑福亭べ瓶(上方落語)
<銀賞>   
柳家わさび(落語)
柳家㐂三郎(落語)

ここで注目されるのは、大賞を受賞した「桂小すみ」だ。音曲師が大賞を受賞するのは、花形演芸大賞史上初となる。
落語や漫才、講談に比べて地味な存在ながら、音曲は寄席になくてはならぬ色物だ。特に「膝」と呼ばれるトリの前の出番では、音曲が使われることが多い。
後継者育成のために国立劇場では「寄席囃子」の講座を持っていて、若手のお囃子を送りだしているが、高座に上がる音曲師になる人は少ない。三味線と唄の他にトークが必要で、客の反応をみての即興性も求められる。
桂小すみの高座は二度ほどみたが、久々に腕の立つ若手が出てきたなという印象だった。
彼女は大学時代にはウイーンに国費留学の経験を持ち、音楽教員を経て国立の養成所で学び、お囃子(下座)を経て2018年に桂小文治に入門し音曲師としてデビューした。
まだトークの部分では柔らかさが要ると思うし、当方の好みから言わせて貰えば色っぽさが欲しいところ。
彼女の大賞受賞で音曲の分野に光があたるのを期待したい。

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2022/04/24

第72回「大手町落語会」(2022/4/23)

第72回「大手町落語会」
日時:2022年4月23日(土)13時
会場:日経ホール
<  番組  >
前座・柳亭さん坊『寿限無』
三遊亭わん丈『星野屋』
柳亭こみち『妻の酒』
柳家権太楼『天狗裁き』
~仲入り~
三遊亭兼好『粗忽の使者』
柳家さん喬『百年目』

コロナ禍に自身や家族の健康問題もかさなり、寄席や落語会への足が遠のいてきたので、久々の外出となった。
2列目の通路側という理想的な席だったので、演者の仕草がよく見られた。

さん坊『寿限無』、このネタでミスするようじゃ。

わん丈『星野屋』
師匠だった円丈の死去にともない、三遊亭天どん門下に移ったと報告。この人と小辰は抜擢で真打にあげても良いと思うのだが。最近は、圓朝作品のネタ下ろしに挑むなど、意欲的な試みを続けている。
この演目は、妾の母親を除く全員が騙し騙されるので、恐らくは水商売を生き抜いてきたであろう母親のしたたかが印象的。
わん丈の高座は、各人物の演じ分けが明瞭で良い出来だった。登場人物がいささか現代的に見えるのは致し方ないかな。

こみち『妻の酒』
久々だ。ネタは有崎勉(柳家金語楼のペンネーム)が作った昭和の新作落語で、酒飲みの夫が妻から嫌な顔をされるというと、友人からそれなら妻に酒を飲ませたらどうかと助言。妻は飲むにつけ酔うにつけ次第に乱れてきて、夫が注意すると「昨日の貴方の真似をしただけ」でサゲ。途中ちょっとダレ気味だった。美声をいかして「心残り」を披露したのはご愛敬。

権太楼『天狗裁き』
マクラで、1月末にコロナに感染したことと、会う人ごとに後遺症について訊かれるが、この年になるとどこまで後遺症か区別がつかなくなると、言っていた。症状が軽かったのは何より。
お馴染みのネタだが、夢を見た男が女性の名を呼ぶが、これが全てお囃子の人の名。最後に出てきた「エリちゃん」は、もしかすると「恩田えり」かな? 権太楼の自由自在の世界。

兼好『粗忽の使者』
マクラで、幼稚園児の娘が「今日、パパは12時過ぎになるの」と言ったら、別の園児が「オペなの?」で爆笑。高級住地にお住まいなんですね。
侍の粗忽ブリと、兼好の目力の組み合わせが、可笑しい。

さん喬『百年目』
トリらしい大ネタだった。花見で番頭が酔って遊ぶ所で、忠臣蔵の「七段目」の「由良さん、こちら」を使ったのは工夫。こういう手があるのかと感心した。
反面、いくつかの疑問。
①花見の場面で、周囲の女性が「番頭さん」「旦那さん」と呼んでいたが、あそこは「旦那さん」に統一すべきだろう。
②翌朝の大旦那が番頭に説諭する場面で、番頭が子どもの頃にお灸をすえると「熱い熱い」と泣いたという話を3度繰り返したが、くどい。
③上記を含め、言動が大旦那としての風格に欠ける。米朝や圓生の高座と比べるのは酷かも知れないが。

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2022/04/04

柳家小三治とその周辺(下)

月刊誌「図書」4月号に、矢野誠一「柳家小三治とその周辺(下)」が掲載されているので、概要を紹介する。
落語家は住んでいる地名が綽名となっていることは、ファンならご存知のとうり。8代目文楽なら黒門町、5代目小さんなら目白、6代目圓生なら柏木、小三治は高田馬場に住んでいたので「馬場の師匠」あるいは「馬場」と呼ばれていた。
余談だが、楽屋で師匠がたが「馬場は」という会話を交わしていたら、傍できいていた前座が「馬場なら10年前に死んでますよ」と言って大笑いになったという。ジャイアント馬場と勘違いしたのだ。
高田馬場駅のホームから、線路を挟んだ目の前に小三治宅があった。
ある夏の日に、小三治がパンツ一丁で屋根にのぼり、TVのアンテナを直していたところ、ホームにいた入船亭扇橋が「なにやってんだ」と声をかけた。小三治が「見りゃ分かるだろう。テレビのアンテナを直してるんだ」と答えた。この会話をきいたホームの乗客たちが爆笑して、後日小三治は扇橋に、「あんなとこで芸をやらされるとは思わなかった」と言った。いかにも、この二人らしいエピソードだ。
「東京やなぎ句会」では100回の吟行を重ね、そのうち10回は海外だった。どうやら行く先でトークショーを開いて、旅行費の足しにしてようだ。その際は、扇橋と小三治は落語を披露していた。時には落語なしの場合もあり、小三治は「着物を持っていかなくていい旅って、本当に楽なんだ」と言っていた。
香港経由でバリ島に行く句会では、出発になって航空機のトラブルで降ろされてしまった。こういう時は、ただ一人英語が話せる加藤武だけが頼りになった。加藤によると航空会社への抗議の仕方も国柄が出ていて、英国人とオランダ人は論理的、米国人や韓国人は感情的、そして日本人は「何とかしろ」の一点張りだったとのこと。
空港内なら何を食べても無料という食事券が配られ、オイルサーディンを頼んだら、缶詰のまま出てきた。矢野誠一が「ひどいね、せめて皿に移せよ」と言うと、小三治が「非常時だよ、我慢おし」とたしなめた。
結局、その日は飛行機が出発せず、一同は手配して貰ったホテルに送られたら、そこは天井と壁が鏡張りでベッドは円形、ボタンを押すと真ん中が浮き上がるという仕掛け。こんな部屋に二人で泊まるわけにはいかず、全員が一部屋に集まって一晩中バカ騒ぎ。
この旅行を手配した永六輔が責任を感じてしょげかえっていると、小三治が「旅はこうでなくっちゃ面白くない。トントン行ったんじゃ想い出にならない」と慰めると、永は号泣した。
小三治は、オートバイが趣味の一つで、よく同好の士と共にツーリングに出かけていたが、リュウマチを患ってから乗れなくなってしまった。「今でもオートバイに乗ってる夢を見るんだ」と言ってから、「そのうち落語演ってる夢を見るんだろうな」と続けていた。
オートバイに乗れなくなってからの小三治は、読書三昧の日を送るようになる。最初は大佛次郎の本を方端から読み漁り、次は永井荷風に傾倒する。きっと、荷風の生き方に感じるところがあったのだろうと、矢野は推定している。
東京五輪の開催には批判し続けていた。
著者の矢野が小三治と最後に会ったのは、2021年9月14日の紀伊国屋ホールでの「桂八十八襲名披露興行」の楽屋だった。
2021年10月7日に小三治が死去すると、「東京やなぎ句会」のオリジナルメンバーで残ったのは、矢野だけになってしまった。10月17日の第626回をもって、句会の名称は故人に返上することになった。
最終回で詠んだ、小三治(俳号は土茶)への追悼句は次の通り。
小首傾げ一サ苦吟や柳散る 倉野章子
ゴム留めの手紙の束や美男葛 小林聡美
冷まじやま・く・らを永く抱きにけり 中村梅花
どささんのほがらかにいた日のたのし 南伸坊
曲がらずに曲がらずに往く神の旅 矢野誠一
名月や幕降りてなほ頭垂れ 山下かほる

最後に、矢野誠一が選んだ小三治の秀句5句。
煮こごりの身だけよけてるアメリカ人
ひといきに葱ひんむいた白さかな
鶯のかたちに残るあおきな粉
旧姓に戻りましたと秋めく日
(追悼小沢昭一)
もう一度上がってたもれ冬の寄席

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2022/03/21

東京新聞主催の落語会「ひびらく」がスタート

3月20日付東京新聞で、東京新聞主催の落語会「日比谷らくご倶楽部」(「ひびらく」)がスタートすると報じられている。全国紙主催の落語会は出揃っているが、東京の地方紙では初だろう。
特長は、
・二ツ目を対象にしたレギュラー制
・3つのグループに分けて毎月開催
グループ分けは次の通り(*チームリーダー)。
「花言葉」*三遊亭わん丈、春風亭昇りん、昔昔亭昇
「飴御前」*林家つる子、林家あんこ、春風亭一花
「らくご少年」*桂竹千代、春風亭昇咲、立川談州
わん丈はバンドのボーカルからの、竹千代は漫才からの転身という変わり種だ。わん丈は独演会に何度か行ってるし、つる子と一花はお馴染みだが、他は未見。
第1回は4月20日午後7時開演で、「花言葉」が出演。会場は日比谷の中日新聞東京本社1階ホール。

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2022/03/06

柳家小三治とその周辺(上)

月刊誌「図書」3月号に、芸能評論家の矢野誠一の「柳家小三治とその周辺(上)」が掲載されているので、中身のいくつかを紹介したい。
小三治の経歴は、
1959年 5代目柳家小さんに入門、前座名は小たけ
1963年 さん治で二ツ目
1969年 10代目小三治を襲名真打昇進
二ツ目から真打までが6年間と、かなりのスピード出世だ。私が未だ若い頃に、小さん門下で、さん治(後の小三治)とさん八(後の入船亭扇橋)という有望な若手がいると聞いていたので、以前から注目を集めていたんだろう。
矢野は当初は新劇を目指していたが、60年安保の挫折のなかで寄席通いが始まり、未だ三遊亭全生時代の5代目圓楽と知り合う。ただ当時の寄席は落語の口演時間が短く、色物が多かったため、物足りなさを感じていた。そこで、好きな落語家の好きな落語を自分の手で聴きたいと考えて全生に相談したところ、「どんな大看板でも口説いてあげる」と、落語会のプロデュースの背中を押してくれた。
会場は出来たばかりのイイノホールに決め、出演者として8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん、8代目林家正蔵、8代目三笑亭可楽をリストアップし、出演依頼した。27歳の若造に大看板たちが快諾してくれたのは、全生の尽力のお陰だった。かくして、毎偶数月に開催の「精選落語会」が発足した。
開口一番は、圓楽、談志、柳朝、志ん朝の4人の輪番制だったというから、贅沢な顔ぶれだ。その後、吉生(圓窓)、さん八(扇橋)、さん治(小三治)を加えて7人制にした。この時、矢野が初めて小三治との出会いになったのだが、出演依頼を喜んで引き受けてくれると思っていたら、小三治は不愛想な表情で、「あ、そう」と言うだけだった。
若手の中には、目上の人間にへつらう者もいるが、小三治は孤高の姿を見せていた。
1969年1月に、矢野誠一、永六輔、江國滋、小沢昭一、永井哲夫、柳家さん八、桂米朝、大西信行、三田純一、柳家さん治の10人で、「東京やなぎ句会」の第1回を開き、以後は月に一度の句会を重ねた。
1969年9月には柳家小三治の襲名真打披露が行われ、お祝いの「後ろ幕」に句会のメンバーが、小三治得意のネタにかけて作った句を記した。矢野誠一の句は「百川」に因んで、
「風かをる百兵衛も居た山車の列」。
この後ろ幕は概ね評判が良かったが、当の小三治は、「みんな後ろ幕の俳句ばかり読んでて、俺の噺をきいてくれない」と言っていた。
「東京やなぎ句会」は、海外の10回を含め100回以上の吟行旅行を行ったが、これだけの友人を持っている人なんて、世の中にそういるもんじゃないだろうと、矢野は書いている。

「図書」に続編が掲載されたら、改めて紹介する予定である。

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