演劇

2009/12/06

「十二人の怒れる男」@シアターコクーン

Bunkamura20周年記念企画として、シアターコクーンで「十二人の怒れる男」を上演中だが、12月5日19時の回を観劇。
この作品(12 Angry Men)のオリジナルは、1954年に製作されたアメリカのテレビドラマを、1957年俳優のヘンリー・フォンダがプロデュース、主演し、映画化した作品。
「十二人の怒れる男」は映画史上に残る不朽の名作として、また巨匠シドニー・ルメットのデビュー作としても知られている。
今回これを蜷川幸雄演出で舞台化したものだ。
日本の裁判員制度がスタートしたことも、もちろん考慮されての企画だろう。

<スタッフ、キャスト>
作 レジナルド・ローズ
訳 額田やえ子
演出 蜷川幸雄

中井貴一:陪審員八号
筒井道隆:五号
辻 萬長:四号
田中要次:十二号
斎藤洋介:十一号
大石継太:七号
柳 憂怜:二号
岡田 正:六号
大門伍朗:十号
品川 徹:九号
西岡德馬:三号
石井愃一:陪審員長
新川將人:守衛

ストーリーは、
アメリカのある町で起きた、父親殺しの罪に問われた少年の裁判が行われ、12人の陪審員が評決に達するまで一室で議論することとなる。
法廷での証拠や証言は被告の少年に圧倒的に不利なものであり、全陪審員一致で有罪(死刑)になると思われたところ、ただ一人、陪審員八号だけが疑問を差し挟み少年の無罪を主張する。
彼は他の陪審員たちに、証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを主張し、激しい議論がぶつかり合う。
やがてその中から、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々にある変化が訪れるが・・・。

一般に「十二人の怒れる男」は、「法廷もの」に分類されるサスペンスドラマとされている。
しかし今回の舞台を見て、この作品は法廷あるいは陪審制度というものを通して描かれている「人間ドラマ」だと感じた。
激論の中から浮かんでくる陪審員たちの人間性、生い立ちや人となり、家族や友人関係、現在おかれている状況、そうした一人一人のことがあぶり出されていく。
裁かれているのは果たして被告の少年なのか、それとも陪審員自身なのか。

会議室で中央に置かれた机を12人が椅子に座って囲む、それだけの舞台だ。全てはこの一室の中の議論だけである。
背景には洗面所があり、手洗いの鏡が正面に向いている。
シンプルなだけに、演出は凝っている。
クライマックスシーンで、陪審員三号が絞り出すような声で「無罪」と叫ぶのだが、暗い背景の中で彼の白い後姿だけがこの鏡に映し出される(これは正面席しか見えなかったと思われる)。これが実に効果的だ。
客席が舞台を取り囲むように配置され、臨場感が出ていた。
犯罪が行われて部屋の間取りを説明する場面では、透明なアクリル板に見取り図が描かれ、客席のどこからも見られるよう工夫されていた。
ディスカッションドラマなのでセリフが特に重要だが、今回の上演にあたりオリジナルの英文を新たに翻訳したとあるが、そのせいか日本語として良くこなれていた。時にアメリカ社会が舞台となっていることを忘れてしまう程だった。

出演者は全員がベテランの演技派で固め、各人が持ち味を発揮して、終始舞台に緊張感が保たれていた。
特に陪審員三号を演じた西岡徳馬の熱演が光る。激しいボディアクションと感情の起伏、これと主演の中井貴一の冷静な演技の対比が、この舞台の中心だ。
二人のぶつかり合いと、その果てに生まれた友情が泣かせる。
他に、石井愃一が陪審員長役を好演し、辻萬長の抑制した演技、岡田正の存在感、品川徹の渋さ、大門伍朗の怪演が印象に残った。
難をいえば、筒井道隆の演技が見劣りしていていたこと。元不良少年というキャラも合わず、ミスキャストではなかろうか。
とはいえ手に汗握る熱演の連続で、総じてとても充実した舞台となっていた。

余談だが、ボクは昔からなぜこの作品のタイトルが「十二人の怒れる男」だったのか、ずっと疑問に思っていた。だって、怒ってる人もいるが、冷静な人もいるわけで、全員が「怒れる」じゃないだろうと。
そこでオリジナルのドラマが1954年制作であり、映画化はヘンリー・フォンダだという事から類推するに、1950-1954年に全米で荒れ狂ったマッカーシズム(赤狩り旋風)と関連があるのではないかと思ったのだ。
多くの映画人が共産主義の手先として告発され、ハリウッドを追われた人もいた。
この作品にはこのマッカーシズムに対する批判が背景としてあり、だから十二人の「怒れる」男だったのではなかろうかと。
そんなことも頭をかすめた。

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2009/12/01

ミュージカル「グレイ・ガーデンズ」@シアター・クリエ

Ootakeシアター・クリエで上演中の「グレイ・ガーデンズ」、11月28日17時30分の回を観賞。
満席であり、それも女性が大半。くたびれた爺さんは些か場違いの感も。
本作はアメリカ合衆国大統領ケネディの妻・ジャクリーンのエキセントリックな叔母とその娘の実話に基づいている異色のミュージカル。
元々は本場ブロードウェイで上演され、2007年トニー賞3部門(主演女優賞・助演女優賞・衣裳デザイン賞)を受賞している。
日本版演出を手がけるのは宮本亜門とくれば、これはもうヒット間違いなしではあるが・・・。

<主なスタッフ、キャスト>
台本: ダグ・ライト
音楽: スコット・フランケル
演出: 宮本亜門
音楽監督: 八幡茂

大竹しのぶ/イーディス・ブーヴィエ・ビール(1幕)
リトル・イディ・ビール(2幕)
草笛光子/イーディス・ブーヴィエ・ビール(2幕)
彩乃かなみ/リトル・イディ・ビール(1幕)
川久保拓司/ジョセフ・P・ケネディ・Jr.(1幕)
ジェリー(2幕)
デイビット矢野/ブルックス・シニア(1幕)
ブルックス・ジュニア(2幕)

さて物語りの第1幕(1941年)は。
ニューヨーク州ロングアイランド。セレブの集う、華やかなグレイ・ガーデンズ邸。
栄華をきわめるブーヴィエ家の美しき母イーディスは、歌手に憧れている。
おりしもブーヴィエ家の娘イディと、ケネディ家の長男(つまりJFKの兄)ジョセフの婚約パーティが開かれている。
この幕はいわばプロローグであり、ストーリーがどうのというよりは、ブーヴィエ家がセレブであり、その家の母は少々変わり者であり、ケネディ家とつながりができるらしいと分かればよい。

そして第2幕(1973年)は、一転してキャットフードの空き缶に埋もれ、荒廃したグレイ・ガーデンズ邸が舞台となる。
ここにすっかり年老いたイーディスと、婚期を逃したリトル・イディが二人だけで暮らしている。無数の猫に囲まれながら。
それでも二人はかつてのプライドだけは保っている。
唯一の娯楽であるラジオに耳をすませ、奇抜なファッションで時に踊り、歌い。
こんな生活と絶え間ない母娘喧嘩にウンザリしながらも、リトル・イディはグレイ・ガーデンズを出ていこうとしない。
演劇としては、いっそ第1幕をカットし、少し内容を膨らませてこの第2幕だけで仕立てた方が、スッキリして良かったのではなかろうかと思わせる。

かつて良家の子女というのは、芸能界だのショウビジネスだのに近付くことはご法度だった。これは日本でも同じだった。
だからリトル・イディの生き方というのは、当時としては極めて異色だったわけだ。しかもその生き方は母親からの影響でもある。
他人が何を言おうが、自分の生きたいように生きる。おそらくはこの姿勢が多くの人の共感を呼んだのだろう。
貧であっても卑ではない。

さて舞台だが、これはもう大竹しのぶの一人舞台といってよい。
いつもながら演技の確かに感心する。一般にミュージカルは大まかな演技になり勝ちだが、細部にわたって神経が行き届いている。ダンスには難点があるが、歌はお手のものだ。
云う事なしの筈だが、しかし・・・・、である。

この主人公リトル・イディは大金持ちのピカピカのお嬢さんでありながら、モデルやショウビジネスの世界に入り、数々のハイソな男性たちと浮名を流した美貌の女性という設定になっている。
リトル・イディの一見奇抜なファッションが似合うようなキャラが求められるのだ。
これは大竹しのぶのキャラとは明らかに違う。彼女はどちらかといえば、庶民的で芯のしっかりとした自立女性が似合う。
だからミスキャストだともいえる。
しかしこの役を演じられる女優が他にいるかと問われれば、頭に浮かんでこない。だったら適役?
結局は、こういうミュージカルの主役を演じられる役者の層の薄さに帰結することになる。

母親役の草笛光子は、ゴージャスな雰囲気と貫禄の演技で、こちらは文字透りの適役だ。
脇ではデイビッド矢野が存在感を示す。

公演は12月6日まで。

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2009/11/30

“方の会”公演「樺太―昭和二十年八月―」

演劇集団「方の会」による「樺太―昭和二十年八月―」が上演されているのを知り、11月29日、銀座みゆき会館に出向く。小さな会場だったが予約で満席。
この演劇は終戦後に樺太で起きた二つの事件をもとにしたものだ。
一つは真岡郵便局事件と呼ばれるもので、1945年8月15日の玉音放送後、ソ連軍による樺太への侵攻が迫る中で、引揚げせずに現地に残り電話通信業務を続けていた真岡郵便局の電話交換手たちが、8月20日ソ連兵が間近に迫ったことで、交換手12名のうち9名が局内で自決をした事件である(3名は生還)。
二つ目は、三船殉難事件と呼ばれるもので、8月22日、樺太からの引揚者を乗せた引揚げ船、小笠原丸・第二新興丸・泰東丸の3隻の船が、北海道留萌沖の海上でソ連の潜水艦により攻撃され、小笠原丸と泰東丸は沈没、第二新興丸も被弾し、合計1,708名(不明者も多く実際の数はもっと大きい)が犠牲となった事件である。
いずれも8月15日を過ぎてから起きた悲劇として記憶され、小説や映画、TVドラマにもなっている事件だ。
しかしそれらフィクションには、事実と異なる描写も多々あったようだ。

方の会主宰者である市川夏江はこの二つの事件に興味をもち、現地への取材や生存者、関係者へのインタビューの中から事件をシナリオ化してそれぞれ上演してきたとある。
今回はその二つの芝居を一つの台本にまとめて上演したものだ。市川夏江はこれを最後のシナリオにするとのこと。

<主なスタッフ、キャスト>
作:市川夏江
演出:原田一樹
音楽:笠松泰洋

市川夏江/小説家
速名美佐子/その姪
有賀安由子/交換手の班長、大石きよ
奥山奈緒美/交換手(以下同)伊藤ちえ、その姉(二役)
宮崎亜友美/森谷しげ
紫子/川島たえ
山口麻未/岡田えみ、その孫(二役)
長嶋奈々子/原いく
岡田央子/橋本みどり
藤田奏/岩崎ひろこ
佐藤真胤/郵便局長、上田
内田尋子/副主事、原加代
斉藤和宏/小笠原丸の乗組員、大崎邦夫
山口夏穂/第二新興丸の生還者、工藤ユキ
野間洋子/泰東丸の生還者、古川亮子

先ずはこの芝居の脚本について、真岡郵便局事件。
こうしたテーマを劇化する場合、どうしても作者の思いが先に立ちがちだが、この舞台では出来るだけ事実をそのまま伝えようという意図が感じられた。
どう解釈するかは観客側の判断に委ねられている。
周囲の人々は、戦争は終わったのだから未来のために生きていこうと呼びかけるのだが、彼女たちは死を選んでしまう。
現場責任者である班長が真っ先に自決してしまい、取り残された交換手たちが次々と毒物(青酸カリ)をあおって死んでいくことに、ある種の違和感さえ感じてしまう。
しかしこれが真実なのだろう。
こうした感傷的な手法を抑制しているがゆえに、よけい自決にいたった交換手たちの無念さや、戦争に対する静かな怒りが湧いてくる。
生き残ったがゆえに世間から非難をあびた真岡郵便局長の言い分も、丁寧に紹介した姿勢も評価できる。

次に三船殉難事件は、
今度は一転して、生還者の証言をモノローグで語らせる手法で、戦争が終結し祖国への帰還を目の前にしてソ連軍(公式には国籍不明とされているようだが)の潜水艦の魚雷攻撃により沈没、あるいは損傷を受けて多数の犠牲を出した模様が詳細に語られる。
引揚げ船と分かっていながら攻撃して、さらに海に投げ出された人々に対して機銃掃射までして殺害したことは、明らかに国際法に違反している。
生還者が語る現場の模様はまさに地獄絵図であり、涙なしには聴けない。
舞台の最終場面では、離れ離れになっていた母子が共に無事で生還できたこと、自決した交換手の姉が無事に救助されて生還したこと(ここで二つの事件のつながりが分かる)が描かれ、一筋の救いとなっている。

劇中の小説家(作者自身)とその姪の会話が狂言まわしになっていて、事件の説明を補足していた手法も分かり易かった。

自決した女子交換手役に同世代の現役高校生を起用したが、演技に未熟さがあったが、こんな年頃の彼女たちが・・・という思いはひしひしと伝わってきた。
班長役の有賀安由子の抑制した演技が効果的で、奥山奈緒美が芸達者ぶりをみせていた。
ほかに紫子と山口麻未の健気でひた向きな演技が光る。
引き揚げ船の生還者を演じた山口夏穂と野間洋子は揃って好演、姪役の速名美佐子と共に舞台をしめた。
特筆すべきはこの芝居に出演した坂下怜美、岸瑞歩、石黒海斗の三人の子役だ。これが実に上手い。
何より児童劇団に染められたようは変なわざとらしさがなく、とても自然で素直な演技に好感が持てた。
ついつい涙腺が緩んでしまったことを告白しておく。

この内容からすれば小劇場での6日間の公演というのは、あまりに勿体ない気がしてしまう。
宣伝もあまりしていないようだし、もっと沢山の人々に観賞して欲しい芝居だ。
公演は12月1日まで。

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2009/09/07

劇団大阪「闇に咲く花」@銀河ホール

9月5-6日に岩手県西和賀町で「#17 銀河ホール地域演劇祭」が行われ、その中の劇団大阪「闇に咲く花」を観劇。
西和賀町文化創造館「銀河ホール」は岩手県の北上と秋田県横手を結ぶ北上線の間にある「ほっとゆだ」駅で下車する。列車の本数は一日に数本だし、乗換えがスムースにいったにしても東京からおよそ4時間かかる。
Photo「ほっとゆだ」は駅舎の中に温泉がある珍しい駅だ。電車を待つ間に一風呂浴びることができるわけだ。

Photo_2駅から直ぐに「錦秋湖」が見えてくる。
名前の通り、秋には紅葉の名所となるそうだ。
一部すでに色づいているのが分かる。

Photo_3駅前から2-3分のところに西和賀町歴史民族資料館がある。
この辺りには旧石器時代の住居跡があったり、当時の石器も数多く出土している。
また周辺にはかつて沢山の鉱山があり、金や銅も産出していた。
この資料館は展示も豊富だし、町営の施設としては非常に充実している。

Photo_4資料館の向いに「Uホール」が見えてくる。
ここは銀河ホールの付属施設で、稽古場がある。劇場の隣に稽古場があるというのは極めて恵まれている。

Photo_5ここが「銀河ホール」。
錦秋湖の辺に建てられていて、ゆったりと広いスペースのロビーから湖が見える。
ここも町営の施設としてはとても立派な建物だ。

Photo_6ホール内部で、緞帳に銀河が描かれている。
ホールは客席338席(固定席288席、桟敷席50席)で、芝居には丁度いい広さだ。
客席をみると近所の爺ちゃん婆ちゃんと見られる方が多数を占めていて、普通の新劇とは随分と雰囲気が違う。芝居が始まっても、あちこちから話し声が聞えてくる。
こうした演劇に沢山の町民が集まるというのは、この地域の民度の高さを物語っていると思う。

さて劇団大阪の「闇に咲く花」。
作: 井上ひさし
演出:熊本一
<主なキャスト>
斉藤誠/愛敬稲荷神社の宮司・牛木公麿
上田啓輔/息子・健太郎
小柳亮/その親友・稲垣善治
粱礼子/近所の主婦・遠藤繁子
浅野恵/  同    ・田中藤子
清原正次/鈴木巡査
北尾利晴/GHQ雇員・諏訪三郎
高橋伸尚/ギター弾きの加藤さん

ストーリーは、
終戦後の東京神田にある愛敬稲荷神社、宮司である牛木公麿は、神社は開店休業状態で、近所の戦争未亡人を集めてはお面作り闇米買出しで食いつないでいる。
プロ野球のピッチャーだった自慢の息子・健太郎の戦死の知らせがきて落ち込んでいたが、ある日その健太郎がひょっこり帰ってくる。
親友の稲垣善治や公麿は大喜びをするが、そこにマッカーサー司令部の特務と名乗る諏訪三郎が現れ、健太郎をC級戦犯としてグアムに送り、現地で裁判を行うと通告する。
その理由というのが、健太郎がグアムに駐留していたときに、現地の若者相手にキャッチボールをしていて、相手が球を受け損なって額にボールがあたり負傷したということが、現地人を虐待したという罪に問われたものだ。
全くのいいがかりなのだが、健太郎はショックのあまり記憶喪失に陥るが、GHQの追求は続き・・・・・。

「私は貝になりたい」と似たテーマである。
このようないわれなき言いがかりで処刑されたC級戦犯は、決して少なくなかった。
現地に行って、誰か日本軍に虐められて人間はいないかと問われると、健太郎のように現地人に溶け込んで親しくなったばかりに名前を覚えられていて、かえって戦犯としてでっち上げられた人もいた。
しかも残念なことに、日本軍の生き残りの憲兵や情報将校の中には、占領軍の手先となって戦犯狩りを行った人間がいたことも事実である。
こうした20世紀の記憶を、私たちはいつまでも忘れてはならないと、この劇は訴えている。

2005年に上演したものを再演、それも一発勝負ということで、セリフを忘れたりトチッタりするのがやや目立ったが、全体としては熱演で見応えがあった。
主役の斉藤誠はシリアスな面とコミカルな面とを演じ分けて長丁場を好演、上田啓輔と北尾利晴が相変わらずの手堅い演技を見せ、小柳亮と女優陣の熱演が光る。
高橋伸尚のギター演奏が舞台をシメた。

【訂正】
「りお」様からご指摘があり、銀河ホールのある西和賀町の所在を当初「山形県」としておりましたが、正しくは「岩手県」です。
お詫びして、記事の一部を訂正いたします。


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2009/08/23

「斎藤幸子」@ル・テアトル銀座

Saito_yuki2,3ヶ月前に前売りを買ったりすると、はて何でこの公演を選んだのかしらと首を傾げることがある。
ル・テアトル銀座で行われている演劇「斉藤幸子」もそうで、出かける直前になって、ああそうだ、柳家喬太郎が初めて役者として舞台に立つというのでチケットを取ったのだと、ようやく思い出した。
客席は若い女性が目立ち、私のような爺さんは少数派である。

作 鈴木聡
演出 河原雅彦
<キャスト>
斉藤由貴/斉藤幸子
弘中麻紀/姉・悦子
きたろう/父・洋介
千葉雅子/叔母・吉田勝江
松村武/隣家の主・富山和夫
小林健一/息子・健一郎
明星真由美/近所のソープ嬢、占い師・矢口美奈子
粟根まこと/高校の担任・沢渡桂一
伊藤正之/同  教頭・村木茂 
中山祐一朗/同級生・坂本卓也
鬼頭真也/同級生・田中由紀夫
柳家喬太郎/ビジネスパートナー・山崎正光

舞台は東京の下町・月島、もんじゃやき屋が軒を並べる。
もんじゃやき屋「さいとう」は、妻に先立たれた主人斉藤洋介が姉・悦子、妹・幸子の二人を男手一つで育て上げた。
隣も同業で「冨ちゃん」、こちらの父子とはもう数十年の付き合いで、幸子を自分の子どものように可愛がっている。
斉藤幸子という名前は、姓名判断によれば波乱万丈ということだが、幸子は周囲から可愛がられ、平凡な高校生活を送っていた。
ある日、幸子が師匠と慕う近所のソープ嬢から貰った毒カエルに噛まれて卒倒してから、幸子は「人生とは?幸せとは?」を真剣に考え出し、その時から幸子の境遇は大きく変転する。
幸子と同級生との恋模様あり、担任教師との駆け落ちあり、ビジネスパートナーの出現ありと、幸子の運命は正に「禍福はあざなえる縄のごとし」(Bad luck often brings good luck.)。
果たして斉藤幸子は、人生の幸せをつかむことができるのか・・・。

とにかくオモシロかった。前半は笑いが絶えず、後半はシンミリと笑いのミックス。3時間の公演は間然とするところがなく、そういう意味では上出来のコメディだといえる。

作者の鈴木聡はこの芝居を書くにあたり、要旨次のように述べている。
【初演は2001年で、その頃から日本が大きく変化しているのを感じた。日本中がアメリカ型の合理主義能力主義になって、ギスギスした社会になっていた。
それまでの会社というのは花見に行ったり飲みに行ったり、そういう雰囲気が次第に失われていきつつあった。
日本の共同体、近所づきあいとか家族関係とか、そういうものは先ず自分たちの足元にあるのではないかという世界観。
ちょっと不自然な日本へのアンチテーゼのようなものかも知れない。】

そういう意味ではこの芝居のモチーフは、映画の寅さんシリーズと似ている。あっちが葛飾柴又なら、こっちは月島だ。
斉藤家の居間は、寅さんの「とらや」とソックリだ。

しかしこの芝居が観客に受け入れられる理由は、それだけではない。
この芝居のストーリーが、全世界共通の物語のパターンを踏襲しているのだ。それは
step 1 セパレーション:主人公の旅立ち
step 2 イニシエーション:主人公が艱難辛苦に立ち向かい克服する
step 3 リターン:帰郷
から構成されていて、桃太郎も浦島太郎もシンデレラも白雪姫も皆このパターンだ。
多くの人がこの芝居を安心して見ていられるのも、ストーリーが基本型を踏んでいるからだ。
エンディングがご都合主義のキライはあるが、エンターテイメントとして優れている。

出演者では、ソープ嬢兼占い師を演じた明星真由美の演技が群を抜いていた。言動が、ヤクザの愛人をしていた私の従姉を彷彿とさせていて、何かとても懐かしい気分になった。
特に、父親が亡くなった時にサッパリとしたと笑っていながら、突然号泣するシーンは秀逸。
担任教師を演じた粟根まことの怪演も見応えがあった。黙って立っているだけでこの人は笑いを誘う。
俳優として初舞台の柳家喬太郎は、先ずは無難な演技というところ。一人で演じる噺家という世界と、大勢のスタッフや出演者とのアンサンブルで作り上げてゆく演劇とは、勝手が違って戸惑っただろう。
それより休憩が終わった直後の舞台で、犬の着グルミ姿で、もんじゃやきの説明をしながら後半のイントロダクションを行ったシーン、これはさすがである。
主役を熱演した斉藤由貴をはじめ、その他出演者が揃って芸達者で、芝居を盛り立てていた。

公演は30日まで。

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2009/08/03

こまつ座「兄おとうと」@紀伊國屋サザンシアター(8/2)

Aniotouto現在こまつ座第八十八回公演「兄おとうと」が紀伊國屋サザンシアターで行われているが、8月2日の回を観劇。初演から数えて3度目の公演となるそうだ。
井上ひさし「兄おとうと」は吉野作造とその弟をテーマにしている。
吉野作造、若い方にはあまりお馴染みがないかも知れないが、明治の終りから昭和の初期にかけて活躍した言論人であり、民本主義の先駆者といわれる人だ。
東京帝国大学教授という学者だったのだが、広く国民本位の政治を説く一方、貧しい者や孤児のための病院、産院、孤児院を創って運営し、常に貧困にあえぐ人々の側に立って活動した人でもある。

これじゃあ立派過ぎて芝居にならないと考えた作者井上ひさしは、作造の弟・信次が岸信介や木戸幸一を部下にもつ高級官僚であり、大臣にまで登りつめた人物だったという事実に目を付けた。
更に、作造と信次兄弟の妻同士が姉妹だという事実に着目して、全く立場が正反対の兄弟の愛憎に、夫婦愛や姉妹同士の愛を重ねたドラマを作りあげた。

井上ひさし・作  
鵜山仁・演出
<キャスト>
辻 萬長:吉野作造
剣 幸:妻、玉乃
大鷹 明良:作造の弟、信次
高橋 礼恵:妻で玉乃の実妹、君代
宮本 裕子:女中/女工/天津から来た娘/説教強盗/大連のママ(妹)
小嶋 尚樹:文部官僚/警察官/右翼/説教強盗/中小企業の社長(兄)
《ピアノ演奏》朴 勝哲

ストーリーは、
吉野家の兄弟、作造と信次は年の差が10才ながら揃って秀才、二人とも東京帝国大学に進み主席で卒業する。
学者の兄は国民あっての国家だと主張し、官僚の弟は国家あっての国民だと主張する。
兄は国民が主人公となる憲法を制定すべしと考え、弟は大日本帝国憲法こそが崇高であり、天皇の命に反するような兄の思想は反逆罪になると考える。
兄は国民の願いに応えるのが政治だと言い、弟は国家は国民を統制せねば破滅すると主張する。
全てに正反対の兄弟はやがて対立を深め、たまに会っては激論を闘わせたあげく、最後はケンカ別れになる始末。
しかし二人の妻同士である玉乃と君代は大の仲良し。それぞれが夫の生活を支えながら、兄弟二人と何とか仲直りさせようと図るが、なかなか上手くいかない。
ドラマは大正から昭和初期の世相を背景に、説教強盗やら大陸の出稼ぎやら右翼のテロやら貧富の差の拡大やら様々な問題が兄弟の周辺におこり・・・。

こう書いていくと、いかにも硬そうな印象を受けるだろうが、そこは井上ひさし作品、ピアノの生演奏にあわせて劇中の挿入歌が10曲。唄って踊って飛び跳ねて。
昔のMGMミュージカル映画並のやや安易な大団円には多少の抵抗はあったが、先ずは泣いて笑って楽しんでという趣向になっている。
劇中の作造のセリフ、「財閥の番犬に甘んじている政党に喝を入れろ。自分かわいさに志を失っている議員諸侯の尻を叩け。」は、今でも通ずる。

出演者では作造を演じた辻萬長がユーモラスな演技で会場を和ませ、妻の剣幸と弟の大鷹明良はハマリ役と見た。高橋礼恵は立ち振る舞いが美しい。
特筆すべきは五役を演じ分けた宮本裕子の芸達者ぶりで、どの役をやらせても実に堂に入っているし、支那娘のカンフー演技もお見事。
同じ五役を演じた小嶋尚樹の怪演と共に芝居を盛り上げた。
毎度のことながら、こまつ座はワキがしっかりしている。

公演は10月6日まで全国各地で。

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2009/08/02

「ウエスト・サイド・ストーリー」@オーチャードH(8/1昼)

West_side2

誰にも青春の思い出と切り離せない、心に残る映画というのがあるだろう。
私の場合は「ウエス・トサイド物語」がそれだ。社会人成り立てのころ、初めて自分の給料で観に行った映画だ。それまでのミュージカル映画の概念をくつがえすような映像の連続で、感動と同時に衝撃を受けたことを覚えている。
1960年代の若者文化(当時は私だって若者だった)に最も大きな影響を与えたのは、この「ウエスト・サイド・ストーリー」とザ・ビートルズの出現だろう。

現在ブロードウェイ・ミュージカル“WEST SIDE STORY”の来日公演が行われているが、8月1日Bunkamuraオーチャードホールの昼の公演に出向く。
初演が1957年なので50周年記念ツアーと称した公演だ。
観客も若い人にまじって私と同様の年配者が目に付いたのは、やはり映画の影響だろう。
原案 ジェローム・ロビンス
脚本 アーサー・ロレンツ
音楽 レナード・バーンスタイン
演出・振付 ジェローム・ロビンス
以上はオリジナルのスタッフで、今回は次の通り。
音楽監督・指揮 ドナルド・ウイング・チャン
演出・振付 ジョーイ・マクニーリー
<主なキャスト>
スコット・サスマン(トニー)
ケンドール・ケリー(マリア)
エマニュエル・デ・ヘスース(ベルナルド)
マイケル・ヤブロンスキー(リフ)
オネイカ・フィリップス(アニタ)
なお、トニーとマリアはダブルキャストである。

ストーリーは、
1950年代の米国NYのダウンタウンが舞台。
人種の違いから対立する二つの不良グループ「ジェット団」と「シャーク団」、その「ジェット団」の元リーダー・トニーは、現リーダー・リフと共にダンスパーティーに出かける。
そこでトニーは美しい少女マリアに出逢い、恋に落ちる。 しかしマリアは対立する「シャーク団」のリーダー・ベルナルドの妹だった。
その夜、リフはベルナルドに決闘を申し込む。 トニーはマリアに頼まれて決闘をやめさせようとするが、その結末には悲劇が待ち受けていた・・・。
いうまでもなく、シェイクスピアの名作「ロミオとジュリエット」の世界をNYマンハッタンに置き換えたものだ。
半世紀経っても話が色あせないのは、物語に普遍性があるからだろう。

さて舞台の方だが、先ず瞠目すべきは群舞の素晴らしさだ。
決闘やダンスパーティー・シーンでの集団の踊り、それに「アメリカ」「クール」「アイ・フィール・プリティ」など有名な曲にのせて踊るシーンは圧巻だ。
ダンスではアニタ役のオネイカ・フィリップスの大きな踊りが光る。
舞台装置の工夫にも感心した。休憩時間以外の場面転換は途切れることなく続けられる。無機質的な立体の装置と背景のスクリーンを駆使し、荒々しい場面からロマンチックな場面まで表現していた。
ただトニーとマリアの主役陣が今一つだったように思う。その結果、「マリア」の詠唱や「トゥナイト」のデュエットが心に響いてこない。
ダブルキャストなので、もう一組の配役の方を観たらまた印象が違っていたかも知れない。

ブロードウェイ・ミュージカルといっても、来日メンバーが果たしてどのレベルの役者を揃えたのかという疑問があるが、この作品に関しは映画の方が遥かに良く出来ていたように思う。

東京公演は9日まで。

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2009/06/16

劇団大阪公演「親の顔が見たい」

創立40周年をむかえる「劇団大阪」の第66回本公演は、学校でのイジメ問題をテーマにした「親の顔が見たい」を上演中。劇団のアトリエ「谷町劇場」での6月14日16時の会を観劇。
■作・演出
作/畑澤聖悟
演出/熊本一
■キャスト
齋藤誠/ミッションスクールの中学校長
神津晴朗/学年主任
もりのくるみ/自殺した生徒の学級担任
森祥子/自殺した生徒・みどりの母
清原正次/同級生・志乃の父
夏原幸子/同 母
上田啓輔/同級生・翠の父
小石久美子/同 母
高尾顕/同級生・のどかの祖父
山内佳子/同 祖母
中村みどり/同級生・麗良の母
池田ゆみ/同級生・愛理の母
市村友和/みどりのバイト先の店長

ストーリーは、
伝統ある星光女子中学校の2年3組の教室で、生徒のみどりが自殺する。
担任の教師にあてた遺書があり、そこには同級生である志乃、翠、のどか、麗良、愛理の名前が書かれていた。5人の保護者たちが会議室に集められ、校長や学年主任らと話し合いが行われる。
自殺を生徒本人の資質や家庭環境のせいにしてわが子を庇護する親たち、穏便に済ませようと対応に苦慮する教師たち。
やがて、少しずつイジメの実体が浮かび上がってくるが・・・。

ますます深刻化、陰湿化する学校でのイジメ、責任を全て学校に転化するモンスターピアレントの存在、それに小泉構造改革により生じた中流階級の崩壊などが背景として絡む。
この芝居の本当の主役は、実は舞台に姿を見せない生徒である。
親や教師の理解を超えた存在になってしまい、どう接してよいのか正解がみつからないもどかしさ、それこそがこの芝居のテーマではなかろうか。
しかしその背景にあるのは、実は大人の世界であり、その鏡として子どものイジメ問題が横たわっていると思う。
生徒が新型インフルエンザにかかったと報道されると、学校の業務がマヒするほど、朝から晩まで非難や嫌がらせ電話を集中させる、それも名前も顔も無いノッペラボウの人間がやっているのだ。
そうした社会的風潮の裏返しが、子供たちのイジメを生んでいるような気がしてならない。

舞台中央が会議テーブルになっていて、その周囲を出演者たちが囲む。
更にその周りを観客席が囲んでいるので、観客自身が舞台に参加しているような錯覚にとらわれる。あまりに理不尽な発言を繰り返す親がいると、舞台に出て行って殴りかかりたくなる衝動にかられるほどである。
小舞台の良さが生きた演劇だといえよう。
そういう意味で、今まで観てきた劇団大阪の芝居で、最も強い感動を受けた。

キャストでは、斉藤誠、中村みどり、上田啓輔ら劇団の中心メンバーが手堅い演技を見せていた。
みどりの母親役の森祥子の狂気に近い迫力と、志乃の母親役の夏原幸子のおぞましさ(もしかして「地」?)に満ちた演技が光る。
他に、担任を演じた客演のもりのくるみの熱演が印象に残った。

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2009/05/19

日本演劇の財産「化粧 二幕」@座・高円寺2

Photo前々から見たいと思っていた「化粧 二幕」が今月「座・高円寺」の杮落とし公演として行われており、5月16日観劇。
劇場は今月オープンしたばかりだが、今回の会場となった「座・高円寺2」は300席足らずの座席数で、一人芝居にはピッタリの大きさといえる。客席の勾配もゆったりと取っていて見やすい。
タイトルに「二幕」が加えられているのは、1982年7月の初演の際は一幕であったのが、再演の時にさらに一幕追加され二幕としたためだ。

作 | 井上ひさし 
演出 | 木村光一 
出演 | 渡辺美佐子 

この芝居は今回の上演期間中に600回を記録する。
日本国内だけでなく、北米、ヨーロッパ、アジア諸国でも上演を重ねてきた。
森光子の2000回には及ばないにしても、たった一人だけの舞台を通算27年間、600回も上演するというのは大変な記録だ。
まして初演の時に渡辺美佐子は既に俳優歴が30年を越していたと知れば、現在の年令も推定できるというもので、舞台での奮闘ぶりを見れば驚異的でもある。

渡辺美佐子はこの芝居で大衆演劇の座長・五月洋子を演じる。
乳飲み子を抱えていた時期に、前の座長だった夫が女と駆け落ち。乳児を施設に預けたまま彼女は座長となり、一人で座を切り盛りしていく、その過程での苦労は言葉に表せられない程だった。
この日、公演が終われば取り壊しになるという小屋で、母子の別れと再会の悲劇がテーマの「伊三郎別れ旅」(瞼の母に似たストーリー)に出演すべく、自分の人生を振り返りながら楽屋で化粧(メイク)を行っている。
そこにTV局の人間が訪れてきて、いま人気の若手スターが座長の別れた子供ではないかと、再会を勧めるが・・・。

劇中には何人かの登場人物があるのだが、そうした人物とのヤリトリも渡辺美佐子一人で演じる。時には小道具がいつの間にか彼女の手の中に現れる、まるで手品のような仕掛けも施されている。
でんぐり返りあり、立ち回りあり、そうかと思えばゴキブリを追いかけ客席の階段を駆け上がるという奮戦ぶりだ。
劇中、座長が演じる芝居の役柄と、分かれた息子との再会への期待と悔悟、これらがない交ぜになって次第に狂気を帯びてゆく。
さらに、渡辺美佐子という役者本人の生身もここに投影され、渡辺美佐子と五月洋子と伊三郎の母とが渾然一体となる重層構造が形作られている。

この劇がこれだけのロングランを続けてきたのは、もちろん原作や演出が優れていたからだろう。
しかし最大の要因は、渡辺美佐子の演技であり、彼女抜きには恐らくこの芝居は成り立たないだろう。
女のしたたかさや哀れさと同時に、この役には程よい色気と可愛いさが求められる。
脚本と役者のキャラが見事なまでに一体化した、日本演劇の財産の一つといえよう。

公演は31日まで。

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2009/05/18

「喜劇・日本映画頂上決戦」@青山劇場

正式には「伊東四朗一座・熱海五郎一座合同公演『喜劇 日本映画頂上決戦~銀幕の掟をぶっとばせ!~』」という長~いタイトルの公演が、東京・青山劇場で行われていて、5月17日昼の部を観劇。
伊東四朗が中心となり「東京の笑い”軽演劇”」を伝えようと2004年に旗揚げしたこのシリーズ、今回は三宅裕司こと熱海五郎の一座を加えた合同公演。ゲストに歌手の小林幸子とベテラン中村メイ子を迎え、賑々しい顔ぶれとなった。

作:妹尾匡夫
演出:伊東四朗 三宅裕司
~出演者~
伊東四朗
三宅裕司
渡辺正行
ラサール石井
小宮孝泰
小倉久寛
春風亭昇太
東貴博
伊東孝明
河本千明
中村メイコ
小林幸子
ほか

大正から昭和の時代にかけて、東京に軽演劇とよばれる喜劇があって、古くはエノケンやロッパ、戦後になると渥美清やてんぷくトリオなどの数々のスターを生み出してきた。森繁久弥も元々はボードビル出身だ。彼らは映画やTVの世界に進出し人気者になっていくが、本家の軽演劇は次第に勢いを失っていく。
その時代を生きてきた伊東四朗が、その時代を知らない三宅裕司や小倉久寛らと共に、もう一度東京に軽演劇の火を灯そうというわけである。
IT時代だからこそ、人々は生身の人間の演じる舞台に引き寄せられるという願いなのだろう。

ここで今回の芝居のテーマになっている五社協定について説明しておきたい。
五社とは映画全盛期に存在した5つの映画会社(他に新東宝があった)であり、お互いに専属俳優やスタッフは他社の映画に出演や参加ができないとする協定を結んでいた。
監督も同じで、小津安二郎は松竹、黒澤明は東宝、溝口謙二は大映という具合だった。
人気俳優の引き抜きでは、時に刃傷沙汰になることもあった。
例外的に他社の映画に出ることはあったが、それは所属する会社の了解があった場合に限られた。
今でもレコード会社は、専属契約制度を続けている。

五社協定は映画俳優の活動の自由を縛るということで、数々のトラブルが起きたが、反面、映画各社の特色がハッキリ出るという側面もあった。
松竹:ホームドラマ&メロドラマ
東宝:都会派ドラマ
大映:文芸大作
東映:時代劇&任侠もの
日活:無国籍アクションもの
新東宝:お色気もの
とまあ、ざっとこんな風だった。 
良くも悪くも、全盛期の映画界を支えた制度だったといえる。

劇中、当時の映画界のエピソードがいくつかとりあげられていた。
戦前の宝塚の大スター・ターキーこと水の江滝子が、石原裕次郎のプロデューサーだったことや、黒澤明が映画「天国と地獄」のロケで、撮影の邪魔になるといって家を一軒立ち退かせたことなど。
新東宝の大蔵貢社長の「女優を愛人にしてはいけないが、愛人を女優にしてなにが悪い。」という名セリフも、劇中で使われていた。

芝居は徹底したドタバタ劇で、これでもかこれでもかと笑わせてくれる。
セリフが出なかったり間違えたりという場面もあったが、それをもアドリブで凌ぎながら、むしろ楽しんでいた感がある。幕間も出演者が出てきてショートコントでつなぐなどサービス満点。
中村メイ子が往年のヒット曲「田舎のバス」を披露したり、コント赤信号がかつてのコントを演じて見せたり、小林幸子が紅白ばりのスペクタルな舞台装置で歌い、客席は大喜びだった。
ドタバタ喜劇というのは時代を越えた普遍的なエンターテイメントであることを改めて認識させられた。

公演は30日まで。

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