演劇

2017/08/01

「旗を高く掲げよ」(2017/7/31)

劇団青年座第227回公演「旗を高く掲げよ」
日時:2017年7月31日(月)14時
会場:青年座劇場
作=古川健(劇団チョコレートケーキ)
演出=黒岩亮
<   キャスト   >
ハロルド・ミュラー(夫) =石母田史朗
レナーテ・ミュラー(妻) =松熊つる松
リーザ・ミュラー(娘) =田上唯
コンラート・シュルツ(祖父) =山野史人
ロッテ(娘の友人) =市橋恵
ペーター・マイヤー(SSの友人) =豊田茂
バウワー(副官) =鹿野宗健
ヘルガ・シュヴァルツ(妻の友人) =渕野陽子
オットー・ワルター(ユダヤ人の友人) =嶋田翔平
ブルーノ・コッホ(障がい者の友人) =小豆畑雅一

題名の「旗を高く掲げよ」は、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)党歌名、当時はドイツの準国歌扱いだった。
物語は、ナチスドイツの時代。ユダヤ人に対する組織的暴力事件(水晶の夜)直後の1938年11月13日から、ベルリン陥落直前の1945年4月21日までのの期間。
ベルリンに暮らすミュラー家は夫妻とその娘、妻の父親の三世代4人家族。夫のハロルドは善良な教師でナチスの思想とは距離を置いている。妻のレナーテはヒトラーが政権奪取してから暮らし良くなったのでナチスに魅かれ、娘のリーザはナチスが主導するドイツ女子同盟に入り、父親のコンラートは自らの経験からナチスを嫌悪している。
1938年11月に起きた「水晶の夜」で店が壊され恐怖をおぼえたユダヤ人の知人オットーが、家族と共に米国に移住するからとハロルドに別れを告げに来る。
そんな時、幼なじみSS(ナチス親衛隊)のペーターが、ハロルドの専門知識を活かせる仕事があるとSS入隊を勧誘する。
当初は気乗りがしなかったハロルドだったが、ナチス支持者の妻レナーテに背中を押されてSSに入隊する。
実際にハロルドはSSで専門知識が活かされ、それが評価されて順調に出世してゆく。友人で教師のブルーノから専門書を借りるが、彼は左手に障害があり、ナチスが障碍者は役に立たぬからと抹殺される恐れがあるとハロルドに告げる。
しかし時代は大きく動いていた。
ヒトラーはポーランドを侵略して手にいれると、西部戦線で欧州各国を撃破し、遂にはソ連に侵攻する。
その裏で、ナチスはユダヤ人絶滅を実行に移し始める。
戦線の拡大とともに、ハロルドは専門分野から次第に政策の中枢にかかわる仕事に就くようになりナチスの歯車に組み込まれてゆく。妻のレナーテは友人のヘルガの忠告にも全く耳を貸さずナチスに傾倒してゆく。高校生になった娘のリーザはヒトラーに心酔してゆき、父親のコンラートはますますナチスへの嫌悪感を強めてゆく。
しかし、ドイツがロシアに敗れロシア軍がベルリンに迫る事態になると、一家の運命は大きく回転してゆくが・・・。

ヒトラー、ナチスという魔物が、いかに善良な市民や家庭の主婦、そして子どもたちまでもを呑み込んでゆき、その中で人々はどう動いていたかをテーマにした芝居だ。
知らず知らずのうちに加害者になっていった人々を通してナチズムの恐ろしさを描くという意欲的作品である。
特にエピローグを加えることにより、ナチスの様な魔物は見て見ぬふりをしたり、知っていながら知らなかったことにする様な私たちの中に潜んでいることを示していたのは、作品の厚みを増していた。
ナチスの教訓は、極めて今日的な課題である。
人物がやや類型的に流れていたことと、ベルリンでのミュラー夫妻の結末が安易に感じられたのは疵であるが、この作品の意義を傷つけるものではない。

公演は、8月6日まで。

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2017/07/07

こまつ座「イヌの仇討」(2017/7/6)

こまつ座公演「イヌの仇討」
日時:2017年7月6日(木)13時30分
会場:紀伊國屋サザンシアター
作:井上ひさし
演出:東憲司
<   キャスト   >
大谷亮介:吉良上野介義央(62)
彩吹真央:お吟さま(上野介行火)(28) 
久保酎吉:榊原平左衛門(上野介付近習)(50) 
植本潤 :清水一学(同上)(25) 
加治将樹:大須賀治部右衛門(同上)(30) 
石原由宇:牧野春斎(上野介付坊主)(15) 
大手忍 :おしん(御犬さま御女中)(17) 
尾身美詞:おしの(同上)(18)
木村靖司:砥石小僧新助(盗っ人)(30前後) 
三田和代:お三さま(上野介付御女中頭)(50)

ときは、元禄15年12月15日の7ッ時分(午前4時頃)から明け6ッ時分(午前6時頃)。
ところは、本所回向院裏の吉良屋敷うち、お勝手台所の炭部屋兼物置。
ご存知、赤穂浪士が吉良邸に討入り、上野介が近習や女中、それに将軍お下げ渡しのイヌと共に炭小屋に隠れてから、上野介が自ら炭小屋から出るまでを描いた物語。
イメージとしては、突然テロリストによる襲撃を受け、シェルターに避難した人たちといった所。これは比喩ではなく、事実その通りだ。
この芝居は、吉良方から見たもう一つの忠臣蔵だ。

私が小学生の頃に、子ども雑誌の付録に忠臣蔵の漫画が別冊になっていた。全体は良く知られているストーリーだったが、作者は最後にこの討入りは正しかったのだろうかという疑問を投げかけていた。これが私にとって初めての「忠臣蔵」との出会いだった。
その後、芝居や映画、ドラマなどで何度も忠臣蔵を観てきたが、大きな疑問が生まれた。それは当時の江戸の治安状況の中で、50人近い人間が戦闘服に身を固め、徒党を組んで重臣の屋敷を襲撃することなぞ果たして可能だったのかということだった。
これには権力側(将軍とその周辺)による「泳がせ政策」が根底にあったのではないかという推論を持った。
これが確信に変わったのは、将軍の命令で吉良家の屋敷が呉服橋門内から本所に移し替えになったことだ。呉服橋門内はなんと言って将軍のお膝元で警戒が厳重だったので、外から近づくことさえ困難だったに違いない。討入りなぞ到底無理だった筈だ。であるなら、これは将軍家から赤穂浪士へのゴーサインだったと考えたのだ。

歴史として伝えられていることの中には、史実と大きく異なるものが少なくない。特に忠臣蔵のようにフィクションが独り歩きしているようなケースは、この傾向が顕著だ。
忠臣蔵(赤穂事件)について、事実として明確になっているのは次の2点だ。

【刃傷】
元禄14年3月14日、江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。
幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。
内匠頭の弟で養子の浅野大学は閉門、赤穂藩の江戸藩邸と赤穂城は収公され、家臣は城下から退去となった。
【襲撃】
翌年の元禄15年12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が、江戸本所の吉良邸を襲撃、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた。
今回の事件に対する幕府の裁定は、襲撃に参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。

両事件とも浅野側が吉良側を一方的に攻撃したもので、刃傷事件では浅野が吉良の背後から斬りかかっているし、襲撃事件では赤穂浪士側は無防備の吉良側を一方的に殺戮している。
つまり、忠臣蔵は「吉良家の御難」だと言える。

ちょっと前書きが長くなってしまったが、「イヌの仇討」という芝居は、私の抱いていた忠臣蔵に対する疑問とほぼ同じ視点で演じられている。
劇中で吉良上野介は、大石内蔵助が自分を討つ理由もなければ、自分が討たれる理由もない、と語る
1.殿中で大名が刃傷に及べば、その身は切腹、お家断絶、城明け渡しは決まり事であり、浅野内匠頭がそれを知らぬわけがない。
2.「遺恨あり」との理由だが、それならなぜ自分を殺害しなかったのか。小刀で相手を殺そうとするなら突くしかないのに、ただ振り回していただけだった。あそこで自分を殺していれば、この様な事態は避けられたのだ。
3.原因は浅野の持病である瘧病(おこりやまい)と、短慮な性格によるものとしか考えられない。それが極度の緊張感の中で暴発したものと見える。大名としてはおよそ相応しくない。
4.家老である大石は、こうした浅野内匠頭の性分に対して手を拱いていただけだ。殿が刃傷事件を起こしたときに、大石は自らの失態を恥じた筈だ。
大石内蔵助の狙いは一体なんなのか、と吉良上野介は考え込み、これは将軍への抗議が目的だという推論に達する。
その結果、吉良は意外な行動に出るのだが、それは芝居を観てのお楽しみ。

井上ひさしの脚本は、相変わらず緻密だ。
外部とは断絶した空間にも拘わらず、大石や浪士たちの動きは坊主の春斎によってもたらされる。
盗っ人(これだけが架空の人物)は吉良に、赤穂事件に対する世間の評判を吉良に伝える役目を負わせている。世論というのは移ろい易く、それだけに恐ろしいものだという事を、吉良は盗っ人から知ることになる。
この点は、現代に生きる私たちへの教訓にもなっている。
緊張感の中にも笑いが散りばめられていて、2時間の上演は飽きることがない。
舞台には一度も姿を見せない大石内蔵助が、影の主役という趣向も凝っている。
演出の東憲司による手作りのイヌの奮闘も見逃せない。
むしろ、これほどの面白い芝居が初演以来29年間も再演されなかった事が不思議だ。

吉良上野介を演じた大谷亮介を始め、芸達者を揃えた演技陣が舞台を盛り上げていた。

公演は23日まで。

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2017/07/04

劇団文化座「故郷」(2017/7/3)

創立75周年記念第2弾 劇団文化座公演149「故郷」
日時:2017年7月3日(月)14時
会場:東京芸術劇場シアターイースト
原作:水上勉 
作:八木柊一郎 
演出:黒岩亮
<出演者>
阿部敦子、佐藤哲也、伊藤勉、有賀ひろみ、阿部勉、津田二朗、酒井美智子、高村尚枝、鳴海宏明、沖永正志、小谷佳加、白幡大介、滝澤まどか、水原葵、皆川和彦、兼元菜見子、
佐々木愛、嵐圭史(客演)ほか

あらすじ。
時代は1980年代、米国から成田に向かう飛行機で偶然に隣り合わせになった在米の日本人の芦田孝二・富美子夫妻と米国人の若い娘キャシー。
芦田夫妻は、それぞれ日本を飛び出し、米国で出会い結婚。仕事も順調に行っているが、望郷の念去りがたく、どちらかの故郷で老後を送るべく来日。
キャシーの母・松宮はつ江は日本人で、米国人と結婚しキャシーを産んだがやがて離婚し、娘を置いて出てゆき、今は生死も行方も不明。キャシーはその母に会いたくて来日。
冨美子からの紹介状を持ってキャシーは母の故郷、原発に程近い若狭の寒村・冬の浦を訪れる。
最初は戸惑う村人たちだったが、フィリッピンからこの村に嫁いだホキの力を借りて事情を知り、祖父の松宮清作に引き合わす。偏屈物の清作は、はつ江とは縁を切っていたが、孫のキャシーとはたちまち打ち解ける。
そうこうしている内に、母・はつ江の消息も分かり連絡が取れる。今は再婚しているはつ江だが、知らせを聞いて故郷に戻り、キャシーと清作との再会を果たす。
一方の芦田夫妻は孝二の故郷丹後を訪れるが、懐かしより昔の辛い思いばかり浮かんで来て、ここで余生を送るのは諦める。
次に冨美子の故郷を訪れると、米寿の母親・工藤くめは一人暮らし、近くに住む長女が面倒を見ている。久々に再会した母娘は喜びの涙にくれる。
翌日、キャシーの事が気になっていた冨美子は若狭を訪れるが・・・。

およそ半世紀ぶりの文化座の舞台(確か「土」だったと思う)。当時は娘役だった佐々木愛もここでは老婆役。こっちもそれだけ年取ったということ。
水上勉の原作は、恐らくは故郷への思いが一杯詰まったものだと推測されるが、脚本はそれを消化しきれていない。
先ず大きな欠点は、登場人物の背景がさっぱり分からず、彼らの思考が「?」だらけで、感情移入ができないこと。
キャシーの母はなぜ米国人と離婚し、なぜ娘一人だけ置いて出て行ってしまったのか、その理由が分からない。キャシーがその間、どのような生活を送ってきたかも分からないし、突然行方不明の母親になぜ会いたくなって日本を訪れたのかも分からない。
米国で仕事に成功したという芦田夫妻は、どんな暮らしを現地でしていたのだろうか。二人揃って、日本で余生を送りたいと決心した経緯が分からない。望郷の念だけ?
途中で夫の孝二は、神戸の本社で会議があり、そこで急に米国に向かうことが決まったということだった。そうすると孝二は日本企業の社員(役員かも知れないが)で、米国の現地法人に派遣されているのだろうか。
米国で成功したと言ういい方は、現地で起業するか自営業で成功した場合に使うのであって、平仄が合わない。もし、米国の現地法人勤務であれば、いずれは日本に戻ってくるわけで、望郷の念とは別問題だ。
終盤で、キャシーが若狭に原発があることに怒るのだが、この背景も分からない。キャシーの今までの人生が不明なので、見ている方は戸惑ってしまう。
このように、主な登場人物に生活感が無いのが致命的だ。
ただ、色々なエピソードを詰め込んだだけというのが、率直な感想だ。

結局、佐々木愛と嵐圭史の名演だけが印象に残った。

公演は9日まで。

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2017/05/11

「マリアの首」初日(2017/5/10)

かさなる視点―日本戯曲の力― Vol. 3「マリアの首-幻に長崎を想う曲-」
日時:2017年5月10日(水)18時30分
会場:新国立劇場 小劇場 THE PIT
脚本:田中千禾夫
演出:小川絵梨子
<   キャスト   >
鈴木杏:鹿
伊勢佳世:忍
峯村リエ:静
山野史人:坂本医師/第二の男
谷川昭一朗:次五郎/第四の男
斉藤直樹;桃園/第三の男
亀田佳明:矢張/第五の男
チョウヨンホ:巡査/第一の男
西岡未央:第一の女
岡崎さつき:第二の女

長崎市には一度しか訪れたことがない。それも15年以上前の出張で。
少し時間の余裕ができたので浦上天主堂に立ち寄った。爆心地の象徴ともいうべき場所をどうしても見たかったのだ。
浦上は市の中心部からは少し離れた場所にあり、路面電車と徒歩で向かった。被爆マリア像もその時に見ることができた。
原爆のの惨禍を残すため、被爆の天主堂を保存する運動が起き、当時の市議会もその方向で動いていた。しかし、カトリック司教の意向と、当時の市長がアメリカを刺激したくないという忖度から、遺構は撤去され元の場所に天主堂が再建されることになった。
1953年のことだ。
この芝居は特に時代を特定してはいないが、背景を考えると1953年の出来事と考えるべきだろう。

あらすじは。
時代は、被爆した浦上天主堂を保存するか否かで市議会が議論していた終戦後の長崎。
主人公は3人の女性で、鹿は昼は看護婦、夜はケロイドを隠し娼婦として客を取る。
忍は白血病の夫が書いた詩集と薬を売りながら客引きをして生計を立てている。
静は鹿が働く病院で看護婦として献身的に仕事をしている。
三人は、天主堂保存について一向に埒があかない市議会の状態に失望し、天主堂の中のマリア像の残骸を密かに集めて、自分たちの手でマリア像を保存しようと計画する。
三人の女性を軸にして、原爆で子供たちを失い忍に心を寄せる初老の男や、かつてその忍を強姦したヤクザの親分や、鹿を恋したう入院中の学生や、忍の夫と原水爆禁止運動家との論争など、様々なエピソードが重ねられる。
そして雪が降りだしたある晩、三人の女性と協力者たちが天主堂に集まり、マリアの首を運び出そうとするが・・・。

作者は、三人の女性は一人の女性の分身として描いているようだ。その女性像がマリアを象徴しているのだろう。
劇中の会話は、時に哲学的であり、宗教的であり、正直分かりづらい箇所も少なくない。
劇の構造としては現実と幻想が入り混じった形式になっていて、戸惑うこともある。
特筆すべきは言葉の美しさだ。セリフに詩が溢れている。

神への祈り、自由と平和への希求、そして何より愛。
出演者の熱演もあって、3時間の舞台は間然とする所がない。
公演は28日まで。

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2017/03/15

「私はだれでしょう」(2017/3/14)

こまつ座第116回公演「私はだれでしょう」
日時:2017年3月14日(火)18時30分
会場:紀伊国屋サザンシアター
脚本:井上ひさし
演出:栗山民也
<   キャスト  >
朝海ひかる:川北京子(33)
枝元萌:山本三枝子(35)
大鷹明良:佐久間岩男(42)
尾上寛之:高梨勝介(25)
平埜生成:山田太郎?(?)
八幡みゆき:脇村圭子(21)
吉田栄作:フランク馬場(32)
朴勝哲:(ピアノ奏者)

【あらすじ】
舞台は敗戦後の昭和21年7月、新番組「尋ね人」を担当する日本放送協会(NHK)の一室。戦時中のラジオは専ら大本営発表のツールだったが、戦後は国民の声が届く放送内容に変わり、誰もがラジオに耳を傾けていた。
「復員だより」「街頭録音」「のど自慢」、そして川北京子が発案し自らが責任者となって「尋ね人」が始まり、一躍人気番組となる。
番組には戦争で離ればなれになった肉親、知人の消息を尋ねる人々の"声"が積み上げられ、「尋ね人」はこの無数の"声"をラジオを通して全国に送り届けた。
しかし、当時日本は占領下にあり、CIE(民間情報教育局)の監督下にあった。そのため原稿は事前の検閲があり、放送コード(禁止用語)にかからぬよう言葉の言い換えも求められていた。
そこにCIEの新しいラジオ担当官として日系二世のフランク馬場が赴任してくる。フランクは米国と日本の二重国籍を持っており、川北らの脚本班分室の仕事に理解を示し協力的だった。
ある日、「ラジオで私をさがしてほしい」という不思議な男・自称「山田太郎」が部屋に現れる。何故か英語もしゃべれるし、武術も得意。歌も歌えればタップも出来る。とにかく記憶力と身体能力が抜群なのだ。
彼をヒントにして、記憶を失った人を対象に番組内で「私はだれでしょう」というコーナーが設けられる。
川北らは労組の役員をしている男から、広島の地元紙に掲載された原爆の写真と記事の切り抜きを見せられ、あまりの惨状に息を呑む。
そして「尋ね人」の番組内では広島と長崎からの投書を決して扱ってこなかった事を思い出す。占領軍が原爆投下の事実や被害が公表されるのを嫌ったからだった。もし、そうした放送を強行すれば占領軍の利益に反する行為として刑事罰の対象になる。
川北は、原爆投下の事実を放送を通じて国民に知って貰うため、フランクの協力を得て広島と長崎からの投書を放送することを決断する。
一方、山田太郎は偽名で、実は中野学校出身の残地諜報者だったことが判明する。父親は陸軍将校で、今では実業家として成功しているが、2年の内に日本でも再び軍隊を持つという計画が進んでいることも分かってくる。
川北の決断の行方は、果して・・・・・。

食料難や労働運動の勃興と、占領軍の政策転換など、戦後の世相を織り込みながら舞台は進行してゆく。
「私はだれでしょう」は、国自身がアイデンティティを失っていた反映でもあった。
登場人物一人一人が「私はだれでしょう」を考え、そして大事なのは「私はだれであるべきか」という結論に辿りつく。

舞台は歌と踊りの音楽劇の形式をとり、終戦後の苦しいながらもどこか明るさがあった時代を表現していた。
劇中に出てくる「言葉の言い換え」は、ズバリ安倍政権下の国会論議を思い起こされる。
放送はどうあるべきか、どう真実を伝えるべきかというテーマも極めて今日的だ。
そういう点で、こまつ座の舞台としては空席が目立ったのは残念だった。

出演者では脚本班分室員の山本三枝子を演じた枝元萌の演技が光る。
他に、山田太郎を演じた平埜生成の身体能力の高さに感心した。

公演は26日まで。

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2017/03/08

「僕の東京日記」(2017/3/7)

劇団東演第149回公演『僕の東京日記』
日時:2017年3月7日(火)13時30分
会場:本多劇場
作/永井愛
演出/黒岩亮
<   キャスト   >
原田満男(大学生)/木野雄大
原田淑子(満男の母)/岸並万里子
小淵敏子(春風荘管理人)/腰越夏水
相良静雄(クリーニング屋店員)/能登剛
青木光江(新劇女優)/古田美奈子
ピータン(共同体ピースゲリラのメンバー)/奥山浩
ゲソ(共同体ピースゲリラのメンバー)/大川綾香
ユッケ(共同体ピースゲリラのメンバー)/三枝玲奈(青年座)
ポッキー(共同体ピースゲリラのメンバー)/中花子
井出哲朗(反戦おでん屋)/清川翔三
上村のり子(井出の恋人)/絈野二紗子
新見良弘(公認会計士を目指す男)/星野真広
土橋郁代(スーパーマーケット定員)/世奈(青年座)
福島睦美(井出の仲間)/東さわ子
須藤則夫(井出の仲間)/原野寛之 
鶴岡昭(満男の友人)/小泉隆弘
菊地陽子(満男の友人)/三森伸子

【ストーリー】
1971年の東京は高円寺にある2階建て木造アパートで、賄いつき。
大学生の原田満男は阿佐ヶ谷に実家があるのに、自立したい一心でこの四畳半一間のアパートに下宿し始めた。
満男は学生運動に参加したものの中途半端で投げ出して、自分を見つめ直す中で父母の保護下にいる「お坊ちゃん」生活を脱したかったのだ。新聞配達や皿洗いのアルバイトで自活することを決心する。
一方、満男の母は心配でたまらず、下宿先に来てアパートの住人たちに挨拶をして回る。怒った満男は母親を追い返す。
アパートの住人には猫好きのスーパーの店員や、公認会計士を目指し試験勉強中のサラリーマン。この二人はしょっちゅうもめ事を繰り返す。その女店員に密かに思いを寄せるやくざ風のクリーニング屋店員は、サラリーマンの男と衝突する。この争いに満男も巻き込まれる。
ラブ&ピースのコミューンを目指すヒッピーたちもいて、いずれ宮古島で共同生活を送ることを計画しており、満男にも参加を促す。
もう一組、新左翼の活動家の男女がアパートの近くで「反戦おでん屋」の屋台を出している。井出哲朗と、その同棲相手の上村のり子だ。二人はセクトの活動方針に疑問を感じていて、そうした食い違いからのり子は満男と親しくなってゆく。
そこへセクトの仲間が訪ねてきて、爆弾を所定の場所に届けるよう指示を受ける。任務を遂げればセクトを抜けるのを認めるというのだ。
哲朗は任務の重さや活動への疑問などから急性の胃腸炎を起こす。代りにのり子が持って行くというのを満男が止め、彼自身が届ける羽目になるが、ここは母親が機転を利かし難を逃れる。
自立をを目標にしてきた満男だが、重要な場面では母親の助けを借りねばならなかった。
結局、満男はアパートを引き払い実家に戻る。

芝居の終盤が暗示する登場人物たちの将来だが、満男は会社員になりやがて管理職になってゆく。新左翼の二人はセクトを抜け、政治活動から身を引く。ヒッピーのリーダー格だった男は本職の公務員に戻り、サラリーマンだった男は企業の公認会計士に、女優を目指していた女性はスナックのママに、それぞれが成っていくのだろう。
バリケードとゲバ棒の時代は終わり、セクトもノンポリもヒッピーも各人社会の一員となってゆく。
そんな時代を懐かしく思い出せる舞台は、多数のドアが交互にバタンバタンと開いては閉じ、登場人物たちが入れ替わりながら進行してゆく手法(名称を忘れてしまった)を使ったスラップスティック風な作劇だ。
見ていて面白い。
だが、作者はこの脚本を通して観客に何を訴えたかったのか、最後まで分からなかった。
人物の描き方はさすがだと思ったが、永井愛の作品としては不満の残るものだった。

出演者では下宿の管理人を演じた腰越夏水の演技が光る。
他に猫好きの女性を演じた世奈の怪演が印象に残った。

公演は12日まで。

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2017/03/02

「見よ、飛行機の高く飛べるを」(2017/3/1)

劇団青年座 第225回公演「見よ、飛行機の高く飛べるを」
日時:2017年3月1日(水)13時30分
会場:練馬文化センター・小ホール
作 =永井愛
演出 =黒岩亮
< キャスト >
光島延ぶ=安藤瞳
杉坂初江=小暮智美
大槻マツ=尾身美詞
山森ちか=黒崎照
小暮婦美=勝島乙江
梅津仰子=橘あんり
石塚セキ=坂寄奈津伎
北川操=田上唯
新庄洋一郎=石母田史朗
安達貞子=遠藤好
菅沼くら=藤夏子
中村英助=井上智之
青田作治=山﨑秀樹
難波泰造=平尾仁
板谷わと=片岡富枝
板谷順吉=久留飛雄己

この芝居のタイトルだが、恐らくは石川啄木の詩「飛行機」の冒頭にある

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

から採ったものと思われる。
啄木の死の前年の明治44年の作品だ。
劇中に出てくるいくつかのキーワードと年代は次の通り。
大逆事件:明治44年死刑執行
青鞜:明治44年発行開始
人形の家:明治44年上演
全てに明治44年が共通している。
そしてこの時代は良妻賢母が女性の道であり、女性には選挙権はなかったばかりでなく、治安警察法では女性の政治活動を禁じていた。
因みに「教育勅語」の発表は明治23年だ。
右翼の連中が教育勅語を有り難がったり、戦前あるいは明治の日本を賛美しているが、少なくとも女性からすれば暗黒の時代だったといえる。

【あらすじ】
そんな時代の岡崎にある岡崎にある女子師範学校には、各地から教師を目指す少女たちが集まっていた。
舞台は学校の寄宿舎で、中央に一階と二階を結ぶ階段があり、右手には学校に通じる廊下、そして左手には談話室がある。芝居は主に談話室の中で進行する。
学校の先生になろうという女性たちだから、当時としては進歩的な考えを持っていただろうし、経済的にも比較的裕福な家庭の女子だったといえる。
この中に国宝と学内で呼ばれるほどの優秀な生徒・光島延ぶがいる。家柄が良いし、美人だし性格は明るいし、しかもお茶目で人を笑わせることが好き。
うん、長い人生の中で一人だけ思い当たる女性がいますね。いま、どうしているかな~って、そんな事はどうでもいいけど。
もう一人、変わった子がいる。新聞を読み、「青鞜」に心を躍らせ、飛行機が飛び立つのを見て新しい時代の息吹を感じるような女子・杉坂初江だ。
二人が知り合い親しくなっていく内に、延ぶは初江の影響をうけ、次第に目覚めてゆく。
「青鞜」を読んだり、進歩的な教師から自然主義派(当時はこれらの作家にも警察の尾行がついていた)の小説を借りて読んだりしていく中で、自分たちの雑誌を作ろうと決意する。
賛同する仲間も次第に増え、自分たちの雑誌「Bird Women」発行に向けて着々と準備が進んでいた。
そんななか、仲間の一人が校内で男性と会った所を見つかり、退学させられる事件が起きる。仲間たちは怒り悲しむ。
延ぶと初江を中心に、抗議のためにストライキを決行しようと計悪を練り、学内の生徒の過半数を超える賛同者が集まる。
しかしストライキ決行を目前に、校長を始めとする学校側の切り崩しにあって、仲間から次々と脱落者が出てくる。
学校側の脅しは、もしストライキに参加したら退学になり、教師も道も閉ざされる。当局はストライキは「主義者」(共産主義者のこと)の仕業とみなしており、警察に捕まるかも知れないというものだった。そうなれば家から勘当されて行き場もなくなってしまう。
彼女たちに同調していた教師も校長の圧力に屈し、この件は国の方針なのだからどうにもならない。あなた方は、そんな少数で国家と闘うつもりかと説得側に回るのだ。
最後は延ぶと初江二人だけになり、ストライキの続行と雑誌の発行を誓い合うが、教師の一人が延ぶにプロポーズすると彼女の決意が揺らぎ、初江を残し去ってゆく。
空を行く飛行機を見上げながら、初江は自分の道を進む決意を固める。

明治の末、女性が人間として自立することに目覚めてゆく女生徒たちの青春グラフィティである。
自分の信念を曲げない初江は、この後きっと婦人解放運動のリーダーになってゆくことだろう。
脱落した生徒たちも、この場では圧力に負けてしまったが、一度身に付いた新しい息吹は決して消えることはないだろうし、この先の人生の中であの時の経験が生きるチャンスがある筈だ。
作者のそうしたメッセージが伝わるから、舞台が明るく感じるのだろう。

永井愛の脚本は相変わらず巧みだ。
例えば、女生徒たちが田山花袋の「布団」を読み合わせしながら、主人公の男が美男かどうか論争する場面では、彼女たちの「性」への好奇心が感じられる。
尊大な校長、それにへつらう教師、生徒たちに同情的だが最後は屈してしまう教師、妻を亡くし密かに生徒に思いを募らせる教師、それぞれにリアリティがある。
森友学園のアナクロな教育が問題になっている今日、改めてこの芝居の価値が高まっていると思う。

一つ、芝居の進行が舞台の下手が中心なので、席が右側だとセリフが聴き取りにくい。特に訛りのある生徒のセリフは何を言ってるのか分からなかった。
この点は工夫が必要だろう。

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2017/01/27

「ザ・空気」(2017/1/26)

二兎社公演41「ザ・空気」
日時:2017年1月26日(木曜日)14時 上演時間1時間45分
会場:東京芸術劇場 シアターイースト
作・演出 永井愛
<  キャスト  >
田中哲司:今森俊一/編集長
若村麻由美:来宮楠子/キャスター
木場勝己:大雲要人/アンカー
江口のりこ:丹下百代/ディレクター
大窪人衛:花田路也/編集マン

劇評でこの芝居をホラーだと評していたのを見たが、言い得て妙だ。むしろホラー劇であって欲しいと思うのだが、これが現実に近いから始末に悪いのだ。

舞台はTV局のビル内の部屋、高層ビルらしく登場人物はエレベーターを使って部屋から部屋に移動する。
おりから、総務大臣による「放送内容が政治的公平性を欠く場合は、法に基づき電波停止を命じる」という発言を受け、ドイツにおける国家権力とメディアとの関係を取材した内容と対比させて、報道の自由についての特集番組を放送すべく準備が進んんでいる。
放送当日の昼頃とあって、全ての編集を終えて準備万端。
そこへ、編集内容について一部変更して欲しいという要望がくる。その一部だが、変更すると番組の趣旨が変えられてしまうため、編集長とキャスターは抵抗する。
しかし、番組を頭から偏向と決めつけ議会で問題にするぞという右翼団体からの脅し、子どもに扮した抗議電話、はてはキャスターとその家族の個人的な写真までが番組関係者のスマホに送られてくると、関係者に動揺が広がる。
政権やTV局の上層部の顔色をうかがいながら「空気」を読んで立ち回る人たちと、あくまで報道の自由を守るという立場の人たちとの論争、駆け引きが続き・・・。

日本のメディアが、なぜ政府寄りかという理由について、まとめてみる。
・TVやラジオの生殺与奪の権を握っているのが内閣の一員である総務大臣であること。資料を見る限りでは先進国で政府自身が電波の停止を命じる権限を持つのは、どうやら日本だけのようだ。ただ従来は、こうした伝家の宝刀をちらつかせるような事は歴代の内閣では避けていたが、安倍政権になって様相が変わってきた。
・放送の編集権が経営者にあると定められていること。劇中で、戦後新聞社の労働争議が多発した際にGHQが恐れをなしてこのような宣言をさせたのが、今も続いている。
・日本が近代化する過程で、政府とメディアが一体となって国民を善導していったという歴史的経緯があり、その伝統は今でも続いている。
・日本の記者クラブに代表されるように、報道がアクセスジャーナリズム、つまり権力に接近してネタを取ってくるというスタイルが主流である。
・メディアの経営者が首相とゴルフをしたり飲食をしたりするのが定例となっている。それは新聞の編集者やTVのアンカー、コメンテーターにまで及んでいる。
・右翼団体による抗議行動が活発になり、時には関係者の家族にまで危害を及ぼしかねない脅迫が行われ、報道の萎縮の一因となっている。

加えて、メディアに連帯感がない。
朝日新聞が慰安婦問題で記事の訂正を謝罪を行った際に、安倍首相が国会で名指しで朝日を批判した。
いま、米国のトランプ大統領が特定のメディアに嘘つきなどと攻撃しているのが話題になっているが、安倍首相の方が遥かに先輩である。
この時、朝日叩きに走った新聞社がいくつかあった。例えば読売は朝日批判の特別紙をもって拡販に回ったし、産経が我が家に勧誘に来たのは30数年住んでいて初めてのことだった。
こうした事は、他の先進国では有り得ないようだ。

以上の様な状況の中で、メディアは「空気」を読んで自主規制してしまうのだ。
そしてメディアが「空気」に支配され続ければ、やがて日本はこの芝居のラストシーンの様な状況になって行くと、この作品は警鐘を鳴らしている。
是非、多くの人に観てもらうことを願っている。

出演者では木場勝己の演技が光る。この人は何をやらしても実に上手い。

公演は東京が2月12日まで、その後3月20日まで各地で。

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2017/01/13

初めての新派「華岡青洲の妻」(2017/1/12)

初春新派公演「華岡青洲の妻」四幕
日時:2017年1月12日(木)15時15分
会場:三越劇場
有吉佐和子・作
齋藤雅文・演出
<  主なキャスト  >
於継:水谷八重子
華岡青洲:喜多村緑郎
加恵:河合雪之丞
小陸:波乃久里子
於勝:甲斐京子
ほか

雑食系なもので、様々な演劇分野を観てきたが、新派と宝塚だけは今まで縁がなかった。両方ともTVの舞台中継は何度か見ていてヅカにはおよそ魅力は感じないが、新派は一度観てみたいと前から思っていた。
本当は花柳章太郎らの名優が揃っていた時期が一番良かったのだろうが、見逃してしまった。
現在の新派は水谷八重子と波乃久里子の二人を柱にしているようだが、この日もさして大きな会場でないにも拘わらず空席が目立ち、人気の低迷が窺われる。
客層も年配のご婦人が多い。
昨年は、歌舞伎の先代猿之助の弟子から市川月乃助を移籍、数十年ぶりに2代目喜多村緑郎の名跡を復活させた。
今月からは同じく市川春猿を移籍、河合雪之丞を襲名させた。河合は新派創設時の名優「河合武雄」から採り、雪之丞は猿翁から許しを得たというもので、いかに力を入れているかが分かる。
こうしたテコ入れが奏功し、若い観客をどれだけ惹きつけられるかが大きな課題だろう。
  
華岡青洲は、江戸時代の外科医。記録に残るものとして、世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)を成功させた。
麻酔薬の開発を始める。研究を重ねた結果、曼陀羅華の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成までこぎつけたが、人体実験を目前にして行き詰まる。
実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死と加恵の失明という大きな犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成させる。
その後、近隣の女性に全身麻酔を使った乳癌の摘出手術を成功させる。
彼の名を一躍世間に知らしめたのは有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』がベストセラーになったからで、この芝居はその小説を戯曲化したもの。

あらすじは、新派のHPより下記に引用。
江戸時代後期、紀州にある華岡家。
代々、貧乏ながらに志を持って医業に勤しむ家柄で、当主の青洲も三年前より京都で修行の身。
留守を預かるのは、青洲の母・於継に、妹・於勝と小陸、そして近郷の名家・妹背家から嫁いできた加恵で、遊学中の青洲に仕送りをするため、女たちは毎日機(はた)を織ることに余念がない。
加恵の慣れない様子にも優しく言葉をかける於継―二人の仲は人も羨むほどの睦まじさだ。
そんなある日、青洲が突然京都から帰ってくると、様子が一変する。まるで加恵の存在などなかったかのように、青洲の身の周りの世話をする華岡家の女たち。
実の母娘以上の結びつきすら感じていた加恵は戸惑い、於継に焦がれていた想いは変化して―姑と嫁、二人の間に目には見えない争いが起きていた。
最新の医学を学んで帰ってきた青洲は、曼陀羅華(チョウセンアサガオ)を主薬とする麻酔薬の研究と乳癌手術の可能性に執念を燃やしている。
麻酔薬完成のためには人体による実験を残すのみとなったとき、於継と加恵は競って自らの身を捧げると言い出した――。

青洲の妻・加恵は、当初は青洲の母・於継に憧れて嫁入りし、夫が不在のうちは二人とも仲良くやっていた。処が、夫が帰宅した途端に状況は一変し、嫁姑は険悪になる。二人の女が一人の男を取り合うという、今も続く永遠のテーマだ。
二人の意地の張り合いは、やがて麻酔薬の人体実験をどちらが先に受けるかを争うまで先鋭化する。
二人の間柄は、最終的には嫁が姑を心から許すという結末になるのだが、それは姑の死を経てからだ。つまり、そこまで行かないと決着しない。
劇中で、青洲が医師でありながら二人の妹の命を救えなかったり、麻酔薬の実権で母を死なせ妻を失明させてしまった苦悩が描かれる。
だが、嫁姑の対立に青洲がどこまで真剣に悩み、解決しようとしていたのかは描き切れていない。

八重子と雪之丞が演じる嫁姑の火花を散らすごとき嫉妬のせめぎあいが見所。八重子が息子の前に出ると可愛らしい女に変貌する姿はさすがだが、声のかすれは聞いていてかなりキツイ。
雪之丞は新婚当初の初々しい嫁の姿から、年月を経るうちに次第に変わってゆく姿を演じて好演。貴重な存在となるだろう。
青洲を演じた祿郎は、やや一本調子のセリフが気になった。もう少し演技に陰影が欲しいと思ったが、或いはそういう役柄なのか。
青洲の妹を演じた久里子、京子はいずれも熱演で、他の脇役陣も堅実な演技を見せていた。

公演は23日まで。

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2017/01/08

「豚小屋」(2017/1/7)

地人会新社『豚小屋~ある私的な寓話~』
日時:2017年1月7日(土)19時
会場;新国立劇場 小劇場

作:アソル・フガード
翻訳・演出:栗山民也
<  キャスト  >
北村有起哉:パーヴェル・イワーノヴィッチ  
田畑智子:プラスコーヴィア

地人会新社の旗揚げ公演と同じ南アフリカ共和国の劇作家、アソル・フガードの作品『豚小屋~ある私的な寓話~』 。
本作品は、第二次世界大戦中に旧ソ連軍から脱走し、41年間豚小屋で生きていた実在の人物に刺激を受けた著者が書いた戯曲だ。
物語は。
舞台は、ある私的な寓話~と副題があるように、それは「想像上のどこかの小さな村にある豚小屋」。と言っても、登場人物の名前やセリフから旧ソ連のどこかと思われる。
主人公パーヴェル・イワーノヴィッチ(北村有起哉)は軍から脱走して10年。湿っぽくうすら寒い家畜小屋で、豚と隣り合わせに暮らしている。兵士の脱走は軍法でも最高刑で、見つかれば銃殺は免れない。
最初は彼を匿い、今では妻となって世話をしているプラスコーヴィア(田畑智子)。
「戦勝記念の日」に、その場に出て自分の存在を明らかにしようとするパーヴェル。しかし着ていくつもりだった軍服はぼろぼろだった。どちらにしても二人が「この場所」を出る事は危険であり、この先の運命がかかっているのだ。
それから長い長い月日が過ぎ去ってゆく。
外の空気が吸いたいと言い出したパーヴェルは女装し、二人は夜中の町に出る。風・大地の匂い・満天の星・コオロギさえも二人にとっては感動なのだ。そしてもっと先までと言うパーヴェルを妻は必死に止める。
再び豚小屋に戻ったパーヴェルだが、「人民委員会」からの声が届き、豚小屋を開き豚を解放するよう命じられ、その通りに実行する。
その姿を見て、自分も外へ出て行き軍に自首する決意をするパーヴェルに、妻のプラスコーヴィアは仕舞ってあった彼の服を持ち出し「結婚式の時に着たあんたのスーツ、いつかきっと必要な時が来るかもって気がして」と告げる。
二人は寄り添いあって、夜明けの街に中に消えて行く。

これといった大きな出来事もなく、舞台は淡々と進んでゆく。
後半に入ってパーヴェルが外の空気を吸い感想するあたりから舞台は大きく動き出す。豚小屋は社会からの隔離、あるいは拘束状態を示しているのだろう。
それは南アのアパルトヘイトや、旧ソ連の政治犯を寓意してかのようだ。人間の尊厳と自由への希望が、本作品のテーマと言える。
そうした厳しい状況の中での夫婦の深い絆、この作品のもう一つのテーマだ。
見終わってジワリと感動が呼び起こされる、そういう芝居。

公演は15日まで。

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