歴史

2016/02/18

本能寺の「変?」と、NHK大河ドラマの「罪」

明智憲三郎(著)「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫、2013/12/3刊) がベストセラーになっている。著者は名前から察せられるように明智光秀の末裔だ。本能寺の変で主君・織田信長を討った逆臣として描かれてきた祖先の汚名を晴らすべく当時の文献資料を漁って、「本能寺の変」に関する新説を打ち立てたものだ。
強引な論理も目立つが、著者の執念が感じられて一気に読ませる。
要約すれば織田信長が天下取りを目前にして「織田家長期政権構想」を練っていた。具体的には家臣に与えていた領地を取り上げ織田家の後継者に分配する領地替えだ。領地を取り上げられた家臣たちを新たな領地獲得へと駆り立て、その先には「唐入り」、つまり中国へ侵攻しそこを新たな領地として家臣たちに与えるという構想だ。それにはかなりの抵抗が予想されるので、予め障害を取り除いておこうと考えた信長は徳川家康を本能寺に呼び出し、明智光秀に暗殺させようと計画していた。命令された光秀が家康と通じて信長を討ち、その後に家康と同盟しながら明智政権を目論んだというのが「本能寺の変」の真実だという。
確かに本能寺での信長警備があまりに薄かったとか、用心深い家康が僅か34名の家臣を連れて京都に向かったといった理由が、これだと説明がつく。
光秀/家康連合に組していた細川幽斎が裏切って羽柴秀吉に密告したため、秀吉の「大返し」が容易に成功したという説も説得力を持つ。本能寺の変の後に家康が少数の手勢で大阪から岡崎に無事に帰還できた「伊賀越え」も、予め準備していたからという主張も納得できる。
信長が果たせなかった「唐入り」を秀吉が継承し、彼らの失敗を教訓に家康は「唐入り」をやめ「改易」を選んだのだという。
いずれも当時の資料と突き合わせた推論であることは評価できる。
ただ、光秀と同盟したとされる大名が誰一人として戦闘に加勢しなかったので本能寺の変が光秀の単独行動に終わってしまった事や、あの慎重な家康が果たして光秀と連合という賭けに出ただろうかといった、大きな疑問が残る。
有力な説ではあるが、本能寺の変に関する解釈の一つと考えた方が良さそうだ。
より詳しく知りたい方は著作をどうぞ。

従来知られている「本能寺の変」の「定説」について、著者によれば事件4か月後に秀吉が口述筆記させた『惟任退治記』に書かれたものが基になっているという。「惟任(これとう)」とは光秀の別名で、この書では秀吉が望んだ本能寺の変の「真相」の流布と、併せて信長から秀吉への政権移管の「正統性」を天下に知らしめる事を目的としていた。当然の事ながら秀吉について不利な内容には一切触れず、信長や光秀の欠点については大袈裟に書かれている。これを種本として江戸時代に書かれたのが各種「太閤記」で、内容はフィクションだ。しかしこれに尾ひれをつけた軍記物や講談、そして戦前の尋常小学校の教科書にまでこの「定説」が掲載され国民に教育されてきた。秀吉の「唐入り」が軍部の「中国への侵攻」政策と結び付き利用されたのだ。
かくして聖域となった定説は吉川英治ら国民的人気作家の著作によって拡大再生産され、いよいよ権威が増してゆく。

さらに後押ししてきたのはNHK大河ドラマだろう。秀吉、信長、家康とその周辺を描いた作品は数知れず、その多くに本能寺の変のシーンが出てくるが(現在放映中の「真田丸」にもあった)、内容はいずれも「定説」に基づいたものだ。もちろんドラマはフィクションだが、視聴者の中には歴史的事実と受け止めている人もいるのではあるまいか。「定説」の国民的普及に一役かっている。
これが「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」、「大岡越前」なら実在の人物を扱っていてもフィクションだと誰もが分かるのだが、大河ドラマとなると事実と混同されてしまう可能性がある。
これは何も「太閤記」に限った事ではなく、「赤穂事件」はフィクションの「忠臣蔵」として独り歩きしている。
通常のドラマでは終りに「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というテロップが流されるが、なぜか時代劇には流されない。
NHK大河ドラマにも「この物語はフィクションであり・・・」のテロップは必要ではあるまいか。

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2015/01/11

スターリン粛清の背景をえぐる『スターリン秘史』

不破哲三(著)『スターリン秘史―巨悪の成立と展開〈1〉統一戦線・大テロル』(新日本出版社 2014/11/1初版)
Photoこの本のサブタイトルに「巨悪」とあるが、まさしくスターリンはその綽名にふさわしい人物だ。
彼が行った「粛清」や「独ソ戦」「ヤルタ協定」などを中心とした書籍は数多く出版されていて、その何点かは読んでいる。いずれも優れた著作ではあったが、スターリンの粛清と彼の外交政策との関連にもうひとつ納得のいく説明に当たらなかった。
本書に着目したのは、スターリンの粛清(本書では「大テロル」)と彼の内政及び外交政策が表裏一体のものだという論旨に魅かれたからだ。
著者はスターリのソ連共産党の大会や中央委員会などでの発言、盟友でありコミンテルンの書記長でもあったディミトロフの日記、当時の裁判記録、1956年のフルシチョフによるスターリン批判の秘密演説などの資料を丹念にあさり、スターリンの悪行の全貌に迫っている。

本書の前半ではドイツにおけるナチスの権力奪取までの過程が記述されている。当時のドイツでは社会民主党と共産党の議席を合せればナチス党を上回り過半数に達していたにもかかわらず、なぜ易々とヒトラー独裁体制を敷かれてしまったのか。その要因のひとつとして、当時のコミンテルンが社会民主主義を社会ファシストとよんで、彼らに主要な打撃を与えることを最大任務にしていたという事情があった。もちろん、この理論はスターリンが主導したものだ。スターリンはドイツでの事態を目の当たりにして自らの主張を手直しするため、ナチスに国会放火事件の主犯として逮捕され、裁判で無罪を勝ち取ったディミトロフをモスクワに招き、コミンテルンの書記長に据える。ここまでが1920年代後半から1930年代の前半にかけての時期にあたる。
1935年に開かれたコミンテルン第7回大会では、初めて反ファシズム統一戦線のスローガンが掲げられ新しい路線へと転換していく。

しかし、大会準備の真っ最中の1934年に、ソ連共産党の最高幹部の一人であったキーロフが暗殺されるという事件が起きる。この事件は今日ではスターリンが仕組んだ謀略であることがはっきりしているが、これがその後の「大テロル」の引き金になってゆく。スターリンは事件を理由にして直ちに次の非常措置を発令する。
1、テロリスト事件の取り調べは10日以内に終了すること
2、審理は原告、被告抜きに行うこと
3、控訴や恩赦の嘆願は許されない
4、銃殺刑判決は宣告後ただちに執行すること
これが1938年まで続けられ、大テロルに発展してゆく。
スターリンはソ連の周囲は敵国に囲まれていて、ソ連の社会主義が発展すればするほど反革命の陰謀も増大するという理論を打ち出す。とにかく怪しいと思われる人間は片っ端から捕まえて処刑していくわけで、理由は何とでもつけられる。
尋問にあたっては法は完全に無視され、密告、脅迫、説得、取り引き(刑を軽くする代わりに仲間の名前を言わせる)、肉体的虐待などの不法手段が利用された。
この結果、1934年のソ連共産党17回大会で選出された中央委員ら139名のうち70%が処刑され、大会代議員1008人のうち過半数が処刑。これが各地方組織にまで及んでいた。大テロルは文化芸術の分野から自然科学の分野にまでにも及び、特筆すべきは軍もまた例外ではなかった。
元帥は5人のうち3人、軍司令官は16人中15人、軍団司令官は67人中60人、師団司令官は199人中136人が処刑された。つまりスターリンは赤軍中枢部を壊滅させてしまった。この事が後の独ソ戦でソ連軍が思わぬ敗北を喫する要因ともなるのだが。

大テロルの対象はソ連国内にとどまらない。コミンテルンの役員や職員、海外からの亡命者、海外で活動していた共産主義者にまで及んでいく。特にポーランド共産党が狙い撃ちされ、推定では1万人近い人たちが犠牲になりポーランドの党は壊滅する。他にはバルト3国の共産党も大きな打撃を受け、やはり壊滅状態になる。日本人関係者からも3名の犠牲が出ている。
数十万、あるいは数百万人ともいわれる多大な犠牲者を出した「大テロル」だが、1938年11月にスターリンによる一片の指示で終結する。
これら一連の大テロルは、スターリンの指揮のもとNKVD(内務人民委員会)という組織が執行していたが、終結と共にNKVDの責任者らも逮捕され銃殺されてしまう。明らかな口封じである。

なぜスターリンはこれほどの大テロルを行ったのだろうか。著者はその理由の第一として「世代の絶滅」をあげている。
レーニンの死後、スターリンが党の中心となって行くのだが、必ずしも彼の思い通りには運んでいなかった。例えばスターリンは国内政策において重工業発展を優先させ、そのために農業の集団化を強行し農民からの収奪でその原資を確保するという方針を打ち出したが、中央委員会では反対の意見が強かった。
このようにレーニン時代からの幹部が残っているうちは自分の自由にならない。場合によっては自分に対抗するような動きも出かねない。そのためにレーニン世代を一掃し、幹部は全てスターリンの息のかかった人間に置き換えるというものだ。
これを端的に表しているのが大テロル終結の翌年に開かれた第18回党大会の代議員の構成で、1570名の代議員のうち革命前に入党した人はわずか2%になっていた。

もう一つの理由として著者があげているのが、スターリンの大国主義、覇権主義との関係だ。
スターリンは予てからツァーリの時代は何一つ良いことはなかったが、たった一つ良かったのはツァーリによるロシアの領土拡張で、我々はその遺産を受け継いでいかねばならないとしていた。
当時のロシアの領土は革命前に比べ狭くなっていて、スターリンは何とかこれを前の状態に戻したいと欲していた。具体的にはポーランド東部とバルト三国の併合である。
そう考えると大テロルに乗じて、ポーランドとバルト三国の共産党を壊滅させた理由がよく分かる。併合には彼らは邪魔な存在だったからだ。
この後、スターリンは1939年になって「反ファシズム」の旗を投げ捨ててヒトラーと手を結び、ヨーロッパの領土分割を密約した独ソ不可侵条約を締結して目的を果たそうとする。この条約に関してスターリンは一言も党の機関や政府に諮ることなく独断で行ってしまう。彼の中では大テロルは思い通りの効果をあげていたのだ。

フルシチョフのスターリン批判以後、現在に至るまでスターリンについては批判が尽くされている様に見えるが、彼の大国主義、覇権主義に関してはいまだにロシアはその尾を引きずっている。
秘密警察の親玉が大統領に就いているロシアの現状を見るとき、未だスターリン思想は完全には克服されていないように思える。

本書は類書に比べ、さらに踏み込んだスターリン批判の書となっており、読みごたえがあった。
なお『スターリン秘史』はこの1巻に続き、全6巻まで刊行される予定のようだ。全て読み切るかどうかは迷う所ではあるけど。

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2014/08/26

「慰安婦」と「慰安所」の実態(例)

「帚木蓬生(著)『蛍の航跡 軍医たちの黙示録』(新潮文庫)」は太平洋戦争中の主に南方に配属された軍医たちの物語だ。15の短編よりなる小説だが、いずれも軍医だった人たちの手記を元に取材を重ね書いたもので、ほぼノンフィクションといって良い。この著書全体についての書評は後日改めて書くつもりだが、この中に『巡回慰安所』という編がある。
軍の命令でいわば慰安所の「妓楼主」にされた軍医が描かれていて、慰安所の管理や運営の詳細が記されている。
ここに書かれている慰安婦は日本人女性だ。最前線の日本軍部隊を巡回しながら兵士の相手をしていたようで、「従軍慰安婦」(当時の表記をみると「慰安婦」又は「軍慰安婦」となっているようだ)と呼称しても差し支えないだろう。
下記のその概要を書くが、女性の人権上問題となる個所が多々あり、事の性質上「性」にかかわる言葉も多い。不快に思われる方は記事をスルーして頂きたい。

【昭和19年9月、私(以下、軍医とする)は第五十五師団の部隊に所属し、ビルマ南部のイラワジデルタの駐留していた。
ある日、師団司令部から呼び出され、各部隊に配布される下記の命令回報が渡される。
一、九月二十日以降、十日間(後に司令部からの要請で十一日間に延長された)の予定をもって、当地区に巡回慰安所を開設せらる。
二、その設営地は、師団後方一キロのジャングルの中とする。
三、慰安所使用の細目は追って通達する。
軍医の任務は、経理担当の主計曹長と共に、特に衛生管理の重要問題を解決することと言い渡される。要は、巡回慰安所の責任者として任命されたのだ。
設営地に行くと既に長屋のような建物が出来ていた。
竹の柱に、竹の簀の子張りの床、アンペラ(アンペラという多年草の茎で編んだ筵)囲いの壁、屋根は椰子の葉を葺いたもの。
内部は、片側が一間幅の土間の廊下があり、これに面して三畳半ぐらいの個室が六つ並ぶ。個室のドアは竹枠の筵一枚で、間仕切りはアンペラの二枚重ね貼り。軍医はこれでは少しの体動でも建物全体が振動するのではと心配したが、もう遅い。
この地区一帯に駐留する部隊の兵士は約四千名、対する慰安婦はわずか五名だ。滞在期間は十日間なので四千を五十で割ると、慰安婦一人あたり毎日八十名の兵士を受け入れなばならない。それはあまりに酷だというと、経理は病気や怪我で来られない兵もいるので半分の2千名になるだろうと言う。
これだと一人あたり三十六分という計算になる。ただこれは二十四時間ぶっ通しの場合であって、食事や睡眠、休養を考慮すると半分の十八分になる。これじゃ時間が短過ぎるなどと、議論は尽きない。取り敢えず司令部に十日間を少しでも延ばせないか打診する。
経理が、これは時間割ですと紙を差し出す。
イ、兵   自 九:〇〇 至一五:〇〇
ロ、下士 自一六:〇〇 至一九:〇〇
ハ、将校 自二十:〇〇 至 八:〇〇
軍医が、これでは二十四時間勤務ではないかと指摘すると、主計曹長は将校は数が少ないので十二時以降は休養になると答える。
一回の使用料は階級が上がる毎に高く設定してある(料金は不明)。「一回」をどう定義するかが検討課題だ。
軍医として最も心配なのは性病の蔓延だ。予防のために衛生サック(コンドーム)の確保を上官に依頼する。
次いで、性病に関する知識とサックの使用についての注意点を講義するため、部隊の兵士全部が集められる。将校も同席していて、彼らも利用者だから真剣に聞いていた。サックの不良品の点検方法や、使用した製品は二度と使わないことなどの注意を与える。
別に慰安婦には「星秘膏」(当初は兵士に配る予定が数が足りず慰安婦に配布とあるが内容は不明)を配った。
慰安所から少し離れた所に検問所兼事務所があり、軍医と主計はここに詰める。
慰安所に隣接して慰安婦の居室が建てられ、日々の食事は司令部の炊事班が運んでくる。
経理部で運営の細目を決めた。一回の定義だが、射精一回をもって一回とする。防具の装着励行、飲食物の持ち込み禁止、機密漏えい厳禁、行為に際しては局所以外の体部をもって相手方の局所に触れることは厳禁、但し相手方はその限りにあらずなど、微に入り細を穿つ内容だった。
問題はサックの数が足りないこと。仕方なく使用後全てを回収、消毒と洗濯、乾燥させ、破損や穿孔の有無を確認する。これらの作業は軍の衛生部が行う。慰安婦たちの性病検査も衛生部の仕事だ。
前日の夕方に五名の慰安婦が到着。
いよいよ当日の朝になると、慰安所の門の前には長蛇の列だ。この時運悪く敵機の来襲があった。通常なら兵士は近くの避難濠に飛び込むのだが誰一人動こうとしない。動けば自分の順番待ちがフイになるからだ。
門には日直の下士官が立つ。
「十五番、終りましたァ」と出て来た兵が申告する。
「ご苦労! 衛生防具を回収したか? 見せよ、よしッ、そこの消毒槽に返納して帰れッ」
「はいッ、返納終り、帰ります!」
こういう掛け合いが交わされる。
退室が遅れると、日直下士官が個室に向かって声を張り上げる。
「三十番! まだかァ? 長いぞ、急げ!」
兵の中には四回、五回という猛者もいた。
慰安婦の給金は相手した数によって支払われる。但し正式通貨ではなく軍票(戦地・占領地で軍が正貨に代えて発行する紙票。軍用手形)だった。
こうして無事に十一日間の任務が終わった。
五名の慰安婦は翌朝、司令部の下士官に連れられて次の勤務地へ向かった。】

私の理解では、慰安所というのは全て専門の売春斡旋業者が慰安婦を管理し、軍からは施設の提供だけ受けて運営は業者が行っているものだと思ってた。
しかし本書のビルマ南部のイラワジデルタでは、運営と管理は全て軍が行っていたようだ。
スケジュールを見る限り極めて重労働だったことが分かる。朝の9時から夜中の12時頃まで、途中に1時間の休憩が2回あるだけで、働きづめだ。しかも日々多数の兵士の相手をせねばならぬ。
給料は高かったようだが、彼女たちは最前線部隊を巡回しているので常に死と隣り合わせである。金には替えられない。
支払いが「軍票」だった点も気になる。特に終戦間近になると国や地域によっては「軍票」は紙屑同然になっていた。
報酬が高かったという論調もあるが、実態は必ずしもそうでは無かったようだ。

これとは別に本書の『アモック』では、スマトラ島北端にあるコタラジャに派遣された軍医大尉によって、この町の慰安所について概要が以下のように紹介されている。

【旧オランダ軍兵舎を慰安所としていて、広東生まれの朝鮮人が軍の委託経営者だった。
慰安婦はジャワまたはミナンカバウ出身(今のインドネシア国内と思われる)、ペナン(今のマレーシア国内)出身の華僑人、広東生まれの朝鮮人であり、三十名近くいた。
毎週金曜日が性病検査の日で軍医が担当、この署名がなければ営業は出来ない。
風紀取り締まりは、憲兵があたっていた。】

これ以上の詳細は不明だが、ここでの慰安所が軍の委託経営だという事と、慰安婦が全員日本人以外だという事が分かる。
後日談になるが、終戦後ここの慰安婦たちはそれぞれの出身地へ送還されたようだ。朝鮮人慰安婦はイギリス兵からの暴行を防ぐため看護婦の扮装をして日本兵と共に帰還船に乗船、シンガポールで朝鮮独立義勇軍に引き渡されたとある。
こういう記述を読むとなにかホッとする。

この様に国や地域によって慰安婦の置かれた状況、あるいは慰安所の実態というのは大きく異なっているようで、私たちにはその断片的な事実しか知ることが出来ない。今ではその全貌を把握するのは極めて困難だろう。
いずれにしろ今日の視点では許されない行為ではあるが、ただこの著作全体に描かれている日本兵の惨状からすれば、この問題も小さく見えてしまう。

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2011/12/14

「忠臣蔵」は「吉良の御難」

今日12月14日は、いわゆる赤穂浪士の討ち入りの日として知られている。
正確にいえば、「元禄15年(1702年)12月14日、元家老職にあった大石内蔵助以下赤穂浪人46名が江戸本所の吉良邸に討ち入り、上野介とその家臣多数を殺害、負傷させた日」ということになる。
討ち入りの原因となった「松の廊下の刃傷事件」はどうかといえば、「元禄14年(1701年)江戸城松の廊下において、赤穂藩主浅野内匠頭が高家肝煎吉良上野介に切りかかり負傷させた。」という事件だ。

ではなぜ浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだのかというと、その理由は今もって分からない。事件後の幕府の取調べで、浅野内匠頭は犯行の動機を説明していないからだ。
釈明したくなかったのか、それとも後から冷静になって考え直すとそれほど明確な理由が思いつかなかったのか。
それ以前に、内匠頭に殺意があったのかどうかも判然としない。なぜなら旗本の梶川与惣兵衛と立ち話していた上野介の背中を小刀で切りつけ、振り向いたところを額に切りつけているのだが、小刀で切っても人は殺せない。小刀は刺すものだ。
吉良のダメージは額を6針、背中は3針縫って治療は終わり、そのあと湯漬けご飯を2杯食べて元気を取り戻したと、治療にあたった医師が記録している。
何ともはや中途半端な傷害事件なのだ。

しかし殿中での刃傷はご法度、幕府は浅野内匠頭に対し切腹・御家断絶、吉良上野介に対しては「お構いなし」との裁定を行った。無抵抗の吉良を浅野が一方的に切りつけたものであり、公正な裁定であったといえる。
処が後の討ち入り事件に対する幕府の裁定では、討ち入りに参加した赤穂浪人全員を切腹させ、遺児に遠島を命じた。
一方上野介の養子吉良左兵衛は知行地を召し上げられ、他家へお預けとなった。事実上の御家お取りつぶしである。
吉良家にとっては何とも気の毒な裁定というより他はない。

「忠臣蔵」は加害者側から事件を描いたものであり、被害者側から描けば全く違った見方になる。タイトルも「吉良の御難」とでもなろうか。
歴史は浅野を勝者とした。
そして歴史は常に勝者の側から描かれる。
「忠臣蔵」はその好例といえよう。

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2008/09/15

「甘粕正彦」に見るリーダーの責任の取り方

Amakasu甘粕正彦といえば、大正時代に起きたいわゆる「甘粕事件」を思い起こす人が多いと思う。現代史に必ず登場する事件である。
少し詳しい人なら彼が後に中国に渡り、満州事変で謀略工作を行うなど、満州建国の陰の立役者になったことを知っているだろう。

先ず「甘粕事件」とは一体どんな事件だったか。私が教科書で習ったころに比べ、新たな証拠や関係者の証言により、新しい事実も判明しているので、簡単に振り返ってみたい。
1923年9月1日の関東大震災の被害と混乱の真っ最中の16日、陸軍の麹町憲兵分隊長だった甘粕正隊大尉らが、アナキスト大杉栄とその愛人伊藤野枝(妻と書かれている文献もあるが誤り)、大杉の甥・橘宗一(6歳)を連行し、その日のうちに3名とも殺害された。遺体は畳表で巻かれ、井戸に投げ捨てられた。
陸軍としては闇から闇へ葬るつもりだったのだろうが、殺された橘宗一少年が米国の市民権を持っていたため、米国大使館の抗議を受けて事件が発覚してしまった。今も昔も外圧に弱いのが我が国政府の常である。

関東大震災を巡っては、他にも多数の朝鮮人や左翼の人たちが虐殺されるのだが、この事件だけは6歳の子どもが殺されたとあって、がぜん世間から非難の的となる。
この事件で甘粕大尉は大杉と伊藤二人を殺害し、宗一少年の殺害を命じた罪で、軍法会議において懲役10年の罪に処せられた。

しかしその後に発見された死因鑑定書によれば、甘粕の裁判での証言とは大きく食い違っており、また3名を殺害した実行犯に対して、甘粕が指揮命令できる立場でなかったことが明らかになった。
陸軍上層部の意向によって、甘粕一人が全ての罪を負ったというのが真相らしい。ではなぜ彼は一人で罪を被ったのだろうか。それは甘粕が、当時の国や軍の体制に従わざるを得なかったとものと推測される。
そのためか懲役10年どころか僅か3年で釈放され、その後渡仏して2年間フランスで生活するのである。勿論、資金は陸軍から支給された。テイの良い口止めだ。
以上が「甘粕事件」の概要とその結末である。

甘粕は1927年満州に渡り、翌年の満州事変で謀略工作に参加。満州国建国の際、陰の立て役者の一人と目されるようになる。満州建国後は、初代民生部警務司長、満州協和会総務部長、大東協会会長を歴任。満州の昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配したと言われるほど、満州の闇の世界に君臨する。
1939年には、経営が傾いていた国策会社、満州映画協会(満映)の理事長に就任して経営を立て直し、終戦を迎える。
この間のいきさつは、最近出版された佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」に詳しい。

ここまでが前書きで、私がこのエントリーで書きたかったことはこのあとの、終戦直後の甘粕の最期の姿だ。1945年8月20日、甘粕は満映の理事長室で青酸カリをあおって自決する。
やや長くなるが、その時の甘粕の言動を同書より引用し、紹介したい。
敗戦が決まった翌日、甘粕は全従業員を講堂に集め、次のように挨拶する。
「私は元軍人でしたから武士らしく切腹すべきですが、不忠不尽の者ですから日本刀で死ぬには値しないのです。別の方法で死ぬことにしました。人間は弱いものですから死ぬ決心をしても、なかなか死ねませんが、ここで申し上げた以上必ず死にます。
今後、この会社が中国共産党のものになるにせよ、国民党のものになるにせよ、これまでここで働いていた中国人社員が中心となるべきです。そのためにも機材を大切に保管してください。皆さんのなかには前途春秋に富む方が大勢います。永く祖国のために働いていただきたい。今日まで皆さんにお世話になったことを深く厚く御礼申し上げます。」

甘粕は従業員全員に退職金が渡るように、満州興業銀行から預金600万円を引き出す手続きをとる。
関東軍と交渉して、社員とその家族が新京から脱出するための列車を確保した。
「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」。甘粕が理事長室の黒板に書いた戯れ歌であり、辞世の句でもあった。言うまでもなく、満州建国とその失敗を指している。

甘粕は自死にあたって数通の遺書を書いている。うち1通は宛名が無かった。
【理事長としての任略終われるを感じ自ら去る。民族の再起に努力せざるの卑怯を慙づるも感情の死を延すを許さざるものありて決す、然れども極めて冷静なりき、不忠不尽の者日本刀にちぬるを愧ぢ自らをやく】

経理部長に宛てた遺書は、生前全職員の退職金を銀行から引き出すのに、銀行側が渋っていたことから、こう書かれていた。
【二百万円貸してください。貸さないと化けて出ます】
経理部長に、この遺書を持って銀行総裁と掛け合うように指示している。ユーモアの中に、残されて従業員の生活を思いやる心情がこめられている。

そして最後の遺書は、青酸カリをあおってから絶命寸前に書かれたもので、走り書きでこう書かれていた。
【みなんしつかりやつてくれ 左様なら】

甘粕の陸士同期に澄田睞四郎中将がいる。澄田は終戦後も部下に武装解除命令を出さず、国民党と密約してその後3年半もの間共産党軍と戦わせ、おびただしい戦死者を出した。澄田は部下を戦場に棄民したたまま自分だけ帰国し、89歳の大往生を遂げている。
満州参スケとして満州支配に辣腕をふるった岸信介は、戦後A級戦犯として逮捕されるが、米国に取り入って起訴を免れ、その後総理になったのはご存知の通り。
その澄田睞四郎の長男・智は日銀総裁になり、岸信介の孫・安倍晋三は首相についた。
要領良く立ち回った者やそのDNAを受け継ぐ者が、戦後の日本を支配していく。

甘粕正彦の行動について決して賞賛できないし、私はむしろ批判的だ。しかし自らの責任を放り出すがごとき為政者が続く昨今、指導者の責任の取り方については考えさせられる。
一方、「悪い奴ほどよく眠る」という現実が我が国に存在するのは事実である。

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2007/08/13

「終戦の日」は8月15日だろうか?(上)

8月15日は「終戦の日(終戦記念日)」とされていますが、戦争が完全に終結した日かというと、そうでもありません。話はもう少し複雑になります。
1945年2月に英米ソ3国首脳によるヤルタ会談が行われ、2月11日にその合意文書(密約)に署名がなされました。
我が国に関係する部分としては、日ソ中立条約を破棄しソ連が対日参戦するという米国の要求にソ連が同意し、その見返りにソ連が要求した南樺太と千島の引渡しを米国が同意する、というのがその骨子でした。
日本の終戦から戦後処理に至る枠組みが、ここで決まってしまったと言えます。

ではなぜアメリカが、ソ連の対日参戦を強く望んだかということですが、当時中国大陸に駐留していた関東軍が、世界でも有数の精鋭部隊として認識されていたからです。
アメリカとしては日本本土への攻撃で手一杯なので、関東軍はソ連に任せようというのが、当時の米国の戦略でした。だから領土問題は、ソ連の要求通りになってしまったのです。
一方スターリンは、これで日露戦争の屈辱を晴らすことが出来ると考え、この点で米ソの利害がピタリと一致します。

6月に入ると、ドイツの降伏を受けて、日本政府は密かに終戦に向けての工作を始めます。
処が、事もあろうに講和の仲介を、ソ連のスターリンに頼むことを決めてしまいます。
スターリンに仲介を依頼するとは、正気の沙汰ではありません。
既に対日参戦を決めているソ連にとっては、正に飛んで火にいるナントヤラでした。
当時の戦争指導者たちがいかに愚かであったか、典型的な例といえます。

終戦工作が進められていたその時期、沖縄戦は最終段階を迎えていました。
3月末から始まった沖縄の地上戦は死者およそ19万人という犠牲を出して、6月23日日本軍の組織的戦闘は終わります。
沖縄で戦っていた人々は、まさか政府首脳部が終戦工作を開始していたとは、想像もできなかったでしょう。

英米ソの3国首脳が再び集まったのは、7月に開かれたポツダム会議です。
会議の最中、スターリンは米国トルーマン大統領と面談し、講和の仲介についての昭和天皇からの親書を見せます。
どう扱うかを尋ねたスターリンに、トルーマンは親書を黙殺することを提案します。
アメリカとしては日本政府が講和に動き出したことと、無条件降伏の意志が無いことを知っただけで、十分でした。
7月25日トルーマン大統領は、8月3日以降に日本に原爆を投下することを命令します。

翌日の7月26日に米英と中国(重慶政府)3首脳の名で、日本軍の無条件降伏を求める、いわゆるポツダム宣言が発表されます。そこにソ連の名前はありません。
会議には参加していたソ連が、宣言から外されたのは、ルーズベルトの急死で後継者となったトルーマン米国大統領が、ソ連に対して強い警戒感を持ったためです。
この時点から、東西冷戦は始まっていたのです。
しかしポツダム宣言にソ連が加わらなかった事が、日本の戦後処理を複雑にしてゆきます。
(この項続く)

写真はヤルタ会談の3首脳、左から英国チャーチル、米国ルーズベルト、ソ連スターリン。
Yaruta


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