歴史

2022/03/04

プーチンによる教科書の書き換え

ロシアのプーチンは、2000年から現在までの22年間(厳密にいえばそのうちの4年間は首相だが)大統領として君臨してきた。これによりロシアの民主化はブレーキがかかり、プーチンによる独裁体制が出来上がった。
この任期中にプーチンが行ったことでは、ソ連時代の政策を肯定するという特長がある。
第二次世界大戦でソ連はナチスドイツを破り、戦争を終結に導いた。その一方、そもそも第二次世界大戦が開始したのは、1939年の「独ソ不可侵条約」の締結により、ポーランドに対しドイツが西側から、ソ連が東側から侵入したのがきっかけだった。プーチンはこれをロシアの黒歴史ととらえたのだろう、第二次大戦の開始を1941年の「独ソ戦」に変えてしまった。
さらに、大戦の戦中や戦後にソ連が行った侵略行為を無かったことにした。こうした自国に都合のよい「歴史修正主義」に基づき、教科書の書き換えを行った。
教科書の記述は単に教育だけにとどまらず、国にとっては正史となる。プーチンのロシア国内の支持率が高いのは、こうした誤った愛国心を国民に植え付けてきたためだろう。
我が国でも、右翼政治家が教科書に書かれた過去の日本の行った行為を「自虐史観」と攻撃して書き換えを求め、一部は既に書き換えが行われている。この勢力が、改憲に前のめりになっていることも偶然ではない。
私たちはプーチンの行為を「他山の石」とすべきだろう。

 

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2020/12/06

おっと「黒駒勝蔵」を忘れちゃいけねぇ

今年は清水次郎長の生誕200周年だそうだ。以前、「吉良仁吉」について記事を書いたところ思いのほか反響があり、年間アクセス数のベストワンに達していた。吉良仁吉も人生劇場も知らない人が増えたということだろう。まして黒駒勝蔵となるといよいよお馴染みがなかろう。せめて次郎長の敵役といった認識が一般的ではあるまいか。所詮はヤクザ同士の利権争い、どっちが正義かなんて事はないわけだが、次郎長が明治になっても生き残っていたのに対し、勝蔵が早々に斬首されて姿を消したため悪く描かれたのだろう。長生きした者の勝ちである。

黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)は1832年(天保3年)、甲斐国八代郡上黒駒村若宮(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主の次男として生まれた。後年に尊皇攘夷運動に参加していることから、若い頃に国学思想の影響を受けたとされる。生家を出奔し博徒となる。
当時、甲州には他にも有力な博徒がいたが、勝蔵は兄貴分の竹居安五郎(たけいやすごろう、吃音があったので「竹居のども安」と呼ばれていた)と共に上州を制覇する。その後、安五郎が捕縛され獄死したのちは、勝蔵は安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせた。
勝蔵は甲州博徒は富士川舟運の権益を巡り清水次郎長と対立しており、次郎長の勢力圏である駿河岩淵河岸や興津宿をめぐって抗争を繰り返す。幕末になって代官所から追われて岐阜の水野弥太郎のもとに潜伏する。明治維新の年には黒駒一家を解散する。
勝蔵は小宮山勝蔵の変名を用いて弥太郎も入隊していた赤報隊に入隊する。しかし赤報隊は「偽官軍」の汚名をきせられて新政府軍に処罰され、隊長の相楽総三は処刑され、水野弥太郎も捕縛され獄死する。
その後、勝蔵は徴兵七番隊に入隊し、駿府、江戸を経て、仙台戦争に従軍する。戊辰戦争の終結後、明治3年(1870年)の兵制改革で勝蔵の所属していた徴兵七番隊は解散し勝蔵は故郷に戻るが、この時に隊の解散前に除隊したことが後で罪になる。
翌年、勝蔵は脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年に処刑場で斬首された。勝蔵の処刑は秘密裏に執行されたと見られている。
勤王の志士して戊辰戦争にまで参加した勝蔵に対する処分はあまりに冷酷だった。私見だが、彼が赤報隊に参加していたことが処分の裏側にあったと推測している。
時流に乗って生き延びた次郎長に比べ、勝蔵は不器用だったのかも知れない。

次郎長が講談、浪曲、映画 、ドラマの世界で華々しく採り上げられているのに対し、勝蔵や安五郎を主役に描いた作品は少ない。安五郎の若い頃を描いたテレビドラマ「甲州仁侠伝 俺はども安」と、勝蔵を描いたテレビドラマ「風の中のあいつ」の2作品ていどだろう。
他に、映画『黒駒勝蔵 明治維新に騙された男』(2011年)がある様だが未見。

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2020/04/04

書評「ノモンハン 責任なき戦い」

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田中雄一「ノモンハン 責任なき戦い」

「殺してくれー、殺してくれー、言うのをね。ほんと、あれだったですわね。家族の者はね、遺族の者はね、あっという間に小銃で一発で死んだだろうって思いじゃろうが、人間死ぬという段なら一発で死なんですよ。むこうがええ具合に心臓をパッと撃ち抜いてくれりゃええけど、あんた、大腿部あたりでね、元気なもんもみんな死んだんですよ。出血が多いいうて、衛生兵が来るじゃなしね。軍医はおるじゃなしね。ほんとに惨めな戦争であったですよ。」
「塹壕の前じゃ殺せー、殺せーっていうような。自分で死のうと思っても、銃剣を胸に突き当てとっても突き刺すことができんのですよ。そういうものが沢山おったですわ。殺してくれー殺してくれー言うてね。」
(歩兵第七一連隊 曽根辻清一の回想)

会社の上司だった人が、父親がノモンハンで戦死していた。その人はノモンハン事件のことを調べて、あんな無謀な戦争で死んだのかと怒りがこみ上げてきて、同時にこの戦闘を主導した参謀の辻政信への恨みが募ったと語っていた。
その「ノモンハン事件」とは、どんな事件だったのか。「事件」という名前だが実際は局地的な戦闘で、日本の傀儡国家だった満州国と、旧ソ連の影響下にあったモンゴルとの国境紛争。
1939年5月11日に起きた小競り合いがエスカレートした。ソ連側が8月20日に大攻勢を開始し、日本側の退却で9月16日に停戦が成立した。死傷者は日本側2万人、ソ連側2万6千人とされ、対米開戦に至る日本の「南進政策」の一因にもなった。歴史家の中には第二次世界大戦の引き金になったと指摘している人もいる。
紛争を拡大させた関東軍参謀の責任は事実上問われず、中心にいた参謀たちは、太平洋戦争では大本営作戦課の課長や参謀としてガダルカナル作戦やインパール作戦を指導した。
「ノモンハン事件」については多くの著書が出版されているが、本書は戦闘地域のでの現地調査、ロシア側などで新しく発掘された資料や、生き残った人や遺族の証言を得て、「NHKスペシャル」で放映されたものをまとまている。

「ノモンハン事件」から得られた教訓はいくつもあるが、いずれもその後のアジア太平洋戦争にその教訓が生かされず、今の日本の政治にも影響は及んでいる。
1、曖昧な責任の所在
当時は日中戦争の真っ最中で、天皇を始め陸軍省や参謀本部もソ連との戦闘は「不拡大」の方針だった。満州に駐留していた関東軍が事件を企図していたと知った参謀本部はこれを止めようとしたが、その指示は不明瞭なものだった。事件が失敗に終わった後に、本部と関東軍の間に責任のなすり合いが起きる。
2、情勢分析の甘さ
関東軍は当初、相手はモンゴル軍だけでソ連の参戦は無いとみていた。これは完全な希望的観測だった。外交官からはソ連軍が続々と現地に集結しているという情報が上がっていたが、関東軍はこれを黙殺してしまう。
3、極端な精神主義
兵員ではソ連軍5万7千人に対し、日本軍は2万5千人。戦車及び装甲車がソ連軍823両に対し、日本軍はゼロ。参謀だった辻政信が「ノモンハン秘史」で「三対一の実力とはいえ、『寄らば斬るぞ』の侵すべからざる威厳を備えることが、結果において北辺の静謐を保持し得るもの」と書いている。こうした精神主義が持て囃されていた。
4、上層部は責任を取らず部下に押し付ける
圧倒的な劣勢の中で勇敢に戦った部隊があった。フイ高地を守っていた井置隊である。戦車150台に取り囲まれ809名の兵隊が129名にまで減少し水も食料もつき、司令部と無線もつながらぬまま退却した。しかしこの事が後に問題となり、井置中佐は責任を取って自決させられる。他にも自決させられたり、軍法会費で重営倉(監獄)送りに処された下士官も数多くいた。
その一方、作戦を主導した服部卓四郎や辻政信らは左遷されるが、1年ほどして参謀本部の、しかも作戦課という重要な地位に就く。
5、日米開戦でも同じ理屈が通る
日米開戦については参謀本部内でも反対意見があった。これに対して辻政信は反対者にこう言っていた。「日本軍が必勝の信念を抱いて作戦すれば、必ずや勝利は我が手に帰する。吾輩は貴様に忠告する。勝算の有無を問題とする前に、先ず必勝の信念を抱けとな。」
辻は、ノモンハンから何も学ばなかったばかりでなく、日米開戦からその後のインパール作戦やガダルカナル島玉砕でも同じ過ちを繰り返す。

「ノモンハン事件」の教訓は、今も日本の組織の有り様に問題を投げかけている。

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2020/02/21

「紀伊国屋文左衛門」の虚像と実像

竹内誠「元禄人間模様 変動の時代を生きる」
の続きで、今回は「紀伊国屋文左衛門」の人物像をとりあげてみたい。
落語が好きな方ならこの名をきいて直ぐに思い出すのは「かっぽれ」の文句だろう。
♪沖の暗いのに 白帆が見える 
あれは紀の国 みかん船♪
若年のとき暴風雨をついて紀州(和歌山県)からミカン船を江戸へ回漕し巨利を得た、というこの有名なエピソードは後述するようにフィクションだった。
実在の人物ではあったが、生年は不明で、没年は菩提寺の墓碑銘では享保3年(1718年)、過去帳には享保19年とあり確定できていない。現在では享保19年(1734年)説が有力のようだ。
出身が紀州かどうかも分かっていない。紀伊国屋は屋号であって必ずしも出身地を示すものではないからだ。

【北八丁堀三丁目紀伊国屋文左衛門といふは御材木御用達、金子沢山にて威を振ひしなり。第一、悪所にて金遣ひの名人、上方にも今西鶴がありと讃た古本あり。江戸揚屋和泉屋にて小粒の豆まきをしたり。是は慥に今吉原の年寄の覚えたり。銭座に掛りて紀伊国屋銭とて未に有り。此銭より、始めて銅計りにてちひさくなりて悪しくなり始なり。しかし江の嶋にて石垣建立して名を残しぬ。後には段々悪く成て、法体して深川八幡宮一ノ宮居前に住み、七、八年以前まで長命なり。】
上記は、寛延頃(1750年頃)に書かれた『江戸真砂六十帖』の紀文に関する記述である。
ここで紀文は幕府の御用材木商であり、大金持ちであり、遊里吉原の豪遊の名人であり、銭貨の鋳造を請け負ったがこれが衰運の契機となったこと、晩年は微禄して深川八幡宮の一の鳥居付近に隠棲したこと、長命で7、8年前(享保末~原文年中)に没した事が書かれている。著者が紀文とほぼ同時代の人物であることから、記述はかなり信用できるとこの著者は書いている。

紀文が紀州と関係があるとしたのは山東京伝で、文化元年(1804年)に書かれた『近世奇跡考』で紀文の伝記を考証し、紀文の父親が紀州熊野の出身としている。しかし明確な根拠を示しておらず信用に欠ける。

有名なミカン出世話は、幕末期に出版された二世為永春水の『黄金水大尽盃』という小説が発生源で、暴風雨をついて必死のミカン船出帆のくだりもその中の一節に書かれている。
処が、明治以降にこのモデル小説が紀文の一代記として、歌舞伎、講談、浪曲などにとり上げられ、紀文の虚像が一人歩きすることになった。

江戸で材木商を開業した紀文が豪商と呼ばれるきっかけとなったのは、上野寛永寺根本中堂の造営用材の調達請負いであったとされる。この際、紀文は50万両の富を手に入れたと世に伝えられている。この後の10年間が紀文の最盛期だった。
当時の木材は大井川上流の山々で伐採したものを使用していたが、紀文は駿府の豪商松木新左衛門と手を組んで大儲けした。その松木についての情報を集めた『始末聞書』にはこうある。
【元禄の末から宝永の始めのころから、江戸城御修造の御材木を、江戸の紀伊国屋文左衛門という者と松木新左衛門との両人に仰せ付けられ、御材木滞りなく江戸に着船し、御用相済みて大金を儲けしよし】
こうして紀文は当時の大型公共工事を一手に扱うことにより財をなした。

勿論、こうした事が可能だったのは幕閣のトップとのつながりが大事で、とりわけ武蔵忍(おし)藩主で老中阿部正秋に取り入っていたことが大きい。
忍藩の記録によれば、紀文が忍藩中を訪れた際には、不自由な思いをさせぬよう受け入れ体制を整えよと、阿部正秋が江戸の藩邸からわざわざ国元へ書状を出しているほどの密着ぶりだ。
阿部は度々幕府の土木建設事業を統括しており、これらを通して紀文との癒着を強めたものと思われる。
紀文の豪遊もその頃がピークだったようだが、吉原を貸切る(大門を閉める)などの行為は自らの金持ちぶりを天下に知らしめるためのパフォーマンスだったようだ。今でいう広告宣伝費だったわけだ。
そうした行為が、綱吉の苛政に苦しんでいた江戸町人に喝采を浴びることになったのだろう。

しかし綱吉の時代が終わって新井白石らが台頭してくると緊縮財政政策の影響で材木商は衰退する。紀文の場合は貨幣の鋳造事業の失敗も重なり没落してゆく。
紀文の次男は他家の養子となったが早くに亡くなり、長男には子が無かったため息子の代で子孫は絶えたようである。

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2018/09/05

漁色家だった「勝海舟」

月刊誌「選択」9月号に石井妙子が勝海舟について書いている。
石井が「文芸春秋」編集者の依頼で、以前に勝海舟の家系図を調査したことがあったという。
勝といえば江戸っ子の旗本というイメージが強いが、代々の武士でもなければずっと江戸にいたわけでもない。
曾祖父は越後の生まれで盲人だった。江戸に出て金貸し業で成功し、その金で御家人株を買うと、息子の平蔵を武士にした。その息子・小吉が旗本の勝家に婿に入り、勝小吉となる。
余談だが、阪東妻三郎が遺作となった映画「あばれ獅子」でこの小吉を演じていた。
小吉の長男が麟太郎、後の勝海舟だ。
ただ、身分が低い上に幕末の混乱期とあって、暮らしは赤貧洗うがごとくだった。
正妻はお民といって、薪問屋兼質屋の娘で、一時は深川で芸者をしていた。
当時の海舟の生活は、天井さえも薪にしてしまい雨露も凌げないという悲惨な暮らしぶりだった。
それでも気丈なお民は必死に切り盛りをして、娘二人と長男・小鹿を産み育てた。

一方、勝海舟は才能を見込まれて幕府に取り立てられ、長崎の海軍伝習所に赴任する。出世し始めると同時に、勝の女道楽も始まる。
長崎では年若い未亡人と関係を持ち子どもをつくるが、この子を引き取るとお民に育てさせる。
その後米国に渡り帰国して赤坂に邸を構えると、家の女中や手伝いに来た女性たちに次々と手を付けだす。
お糸、お米、おかね、おとよ・・・・・・。妻妾同居を実践し、生まれた子どもは妻のお民が自分の子として育て、生みの母はそのまま女中として働き続ける。
お民としては、さぞかし辛い思いをしたに違いない。
それなのに勝は、「俺の関係した女が一緒に家で暮らしていても波風が立たないのは女房が偉いから」などと、呑気に語っていた。

明治32年に勝が死去し、その6年後にお民が亡くなるのだが、この世を去る前にお民は「夫の隣は嫌。小鹿の隣に埋葬してくれ」と、きっぱりと言い残していた。
ここでしっぺ返しが来たわけだ。
長男の小鹿はとても優秀だったが、残念なことに病弱で、39歳の若さで亡くなっていた。
お民の遺言通りに、夫の隣ではなく、息子の隣に埋葬された。
処が、その後子孫の手で夫の隣に墓石が移されてしまった。
泉下で、果たしてお民はどう思っているだろうか。

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2018/05/29

メディアの扇動と国民の熱狂が導いた「アジア・太平洋戦争」(3)国際連盟からの脱退

(3)国際連盟からの脱退

日本の国際連盟からの脱退は、その後の日本の進路に大きな影響を与えた。
脱退に至った経緯は次の通りだ。
1931年に満州事変が起きると中国は直ちに国際連盟に提訴した。国際連盟理事会は実情把握の必要から調査団を派遣することを決定し、イギリスのリットン卿を団長に選任した。
日本は1932年1月に上海事変を起こし、中国本土に戦火を拡大、国際世論の反発を受けた。また同年3月1日には満州国の建国を宣言した。

リットン調査団は1932年の3月から6月にかけて日本、満州、中国各地で調査にあたり、10月に報告者を公表。
リットン報告書の骨子は、満州事変は日本の侵略行為であり、自衛のためとは認定できないというものであった。ただし、満州における日本の権益は認められるとして、そこに日本と協力する自治的な政権が成立することには容認できるとしていた。日本軍に対しては満州からの撤退すべきであるが、南満州鉄道沿線については除外した。
この様にリットン報告書は、満州事変は日本の侵略行為と認定しながら、日本の満州での権益を認めるという妥協的な内容であった。それはまた欧米帝国主義の視点に立ったもので、中国の独立や中国民衆の保護の立場は一切無視するものだった。

にも拘わらず、軍部は侵略行為と断定されたことによって満州国も否認されたものとして強く反発し、国内にもそう宣伝した。
政府内では、国際連盟からの離脱は必要ないという意見が主流だった。
1932年10月、国際連盟の総会に出席する松岡洋右全権大使に対する政府の指示は「連盟側をして或程度その面目を立てつつ事実上本件より手を引かしめる様誘導うること」であって、連盟脱退することなど、どこにも書かれていない。
国連法では、勧告を無視しても制裁を受けることがなかったので、そのまま連盟に留まっていれば良いというのが主流だった。
いま北朝鮮やイスラエルが何度も国連から非難決議を受けても脱退せず、国連に留まっているのと同じ理屈だ。

この状況が大きく変わったのは、12月に全国132の新聞が、リットン報告書拒否共同宣言を出したことだ。つまりメディアが対外強硬論で一致したことを示したのである。
これで軍部はすっかり勢いづいた。
翌年2月には、日比谷公会堂で「対国際連盟緊急国民大会」が開かれ、以下のような宣言が採択された。
「(前略)政府は宜しく速やかに頑迷なる国際連盟を脱退し直ちに公正なる声明を中外に宣言し、帝国全権をして即時撤退帰朝せしむべし。」
この大会の模様はNHKが全国に中継した。なにせ当時はラジオ放送はNHKしか無かったので、この影響は絶大だった。これはまたNHK放送が政治的影響を与えた最初の出来事となる。
松岡全権の背後にはこうした国民の声があった。
2月の閣議決定を受けて、日本は正式に国際連盟から脱退し、国際的孤立化の道を歩むことになる。

いまヨーロッパ各国でポピュリズムを唱える政党や極右政党が勢力を伸ばしており、既に政権に参加している国まで現れている。米国の大統領もこの流れと見てよい。
わが国では、政権が一部のメディアに対する圧力を強めながら、政権のお先棒をかつぐメディアには優先的に重要な情報を流すなど、メディア選別を強めている。
私たちは戦前を教訓として、決して同じ轍を踏まぬようにせねばなるまい。

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2018/05/28

メディアの扇動と国民の熱狂が導いた「アジア・太平洋戦争」(2)五・一五事件

だいぶ前のことになるが、戦前に新聞の編集者だった人にインタビューした記事を読んだことがある。
その元編集者は、「政府や軍部から圧力があったか?」という質問に対して「全く無かった」と答えていた。
「戦前日本のポピュリズム - 日米戦争への道」 を読んで納得したのだが、どの新聞も政府や軍部のお先棒をかついていたわけで、それなら圧力の掛かりようがない。
それは今のメディアでも言えることだろう。
(2)5・15事件
1932年に起きた5・15事件は、海軍青年将校・陸軍士官学校生徒らが首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を射殺したテロ事件だ。軍部はこれを利用して政党内閣に終止符を打ち、軍部独裁政治への一歩を進める大きな契機となった。
しかし、当時の新聞は犯人たちを非難するどころか、彼らの主張する憂国の志を賛美していた。
「その悲壮な国士的精神、犠牲的精神の純真さに感動を禁じ得ない」(大阪朝日新聞)
裁判の傍聴記事では専ら被告の陳述だけを、それも彼らの行動を赤穂義士の討入りにまで擬して、浪花節を語るごとくに紹介した。
国民の間には被告らの減刑を嘆願する運動が拡がり、全国から血書したものや血判をしたもの、さらには9人の青年から小指を根元から切断して嘆願書に添付したものが送られてきた。この小指をアルコールに漬けて弁護人が法廷に差し出すと、検察官から裁判官、傍聴人みな等しく涙を流したと新聞は伝えていた。
遂にはこの事件を題材にした「昭和維新行進曲」がレコーディング、発売された(後日発禁となる)。
歌詞は次の通り。
1、踊り踊るなら 五・一五の踊り 踊りや日本の夜が明ける
2、花は桜木 人は〇〇 昭和維新の人柱
3、男惚れする△△の 問答無用の心意気
(〇〇と△△は、実行犯の軍人の名前)
「問答無用」とは、実行犯が犬養首相を射殺する際に発した言葉とされている。
こうした空気の中で被告に対する判決は、実行犯らが最高でも禁錮15~13年になるなど、刑が大幅に軽減され、しかもその後に恩赦で釈放された。
こうした甘い処理が、その後の軍部によるテロやクーデターの引き金となってゆく。

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2018/05/25

メディアの扇動と国民の熱狂が導いた「アジア・太平洋戦争」(1)満州事変

筒井清忠 (著) 「戦前日本のポピュリズム - 日米戦争への道」 (中公新書-2018/1/19初版)
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満州事変から対米戦争を経て敗戦に至る「アジア・太平洋戦争」(一般に太平洋戦争と呼称されているが、実際には中国をはじめアジア各国を巻き込んだ戦争なので、「アジア・太平洋戦争」とする)について、軍部が勝手に独走し国民を強引に戦争に導いたと思われがちだが、事実はそう簡単ではなかった。
経緯を子細に見れば、むしろ国民の熱狂が政府を動かし、国民が政党政治を否定して中立的だと信じた権力(天皇、官僚、軍部)に依拠した結果が、この戦争を導いたと見るべきだろう。
そして、国民を扇動して上記の方向に導いたのが戦前のメディア(特に新聞)だった。
いま一部のメディアが中国や韓国朝鮮への蔑視と狭隘な愛国主義を煽り、これに呼応したネットでのいわゆるネトウヨと呼ばれる人たちの主張を見るとき、戦前日本の教訓を改めて思い起こす必要があると考える。
冒頭の書籍を参考しながら、重要なターニングポイントとなった1931-1932年の間に起きた歴史的事件をとりあげ、3回に分けて掲載する。

(1)満州事変
先ず1931年の満州事変について、日本軍が中国への侵略を本格化させたきっかけとなった事件だ。
この件について、当初「朝日」(当時は東京朝日新聞、大阪朝日新聞)はこれに批判的だった。
「今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるがごとく、自ら事あれかしと望んでいるように見える」
「(陸軍側は)満蒙問題を殊更重大化せしめて、国民の注意を寧ろ軍拡の必要まで引き付けんとする計画に帰する」
これらの主張は今日から見れば妥当なものだが、国民の間から「朝日」の不買運動が起き、部数がどんどん減っていった。
これに対して部数を伸ばしていったのが「毎日」(当時は東京日日新聞、大阪毎日新聞)で、重役会議で満州事変支持を打ち出していた。
「強硬あるのみ」
「正義の国、日本」
「守れ満蒙=帝国の生命線」
こうした中で「朝日」も主張を転換する。
「満州に独立国が生まれることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」
やがて朝日は、満州駐屯軍への慰問金を公募し、関東軍司令官から朝日社長に感謝状が贈られることになる。
こうした新聞の報道姿勢に対して、荒木貞夫陸相が次の様に感謝している。
「能く、国民的世論を内に統制し外に顕揚したることは、・・・我が国の新聞、新聞人の芳勲偉功は特筆に値する」
陸軍内部においても参謀本部や軍務局には戦闘不拡大を主張する者もいたが、国民の間に「満州は日本の生命線」論が浸透し、政府もこれを追認してゆく。

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2016/02/18

本能寺の「変?」と、NHK大河ドラマの「罪」

明智憲三郎(著)「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫、2013/12/3刊) がベストセラーになっている。著者は名前から察せられるように明智光秀の末裔だ。本能寺の変で主君・織田信長を討った逆臣として描かれてきた祖先の汚名を晴らすべく当時の文献資料を漁って、「本能寺の変」に関する新説を打ち立てたものだ。
強引な論理も目立つが、著者の執念が感じられて一気に読ませる。
要約すれば織田信長が天下取りを目前にして「織田家長期政権構想」を練っていた。具体的には家臣に与えていた領地を取り上げ織田家の後継者に分配する領地替えだ。領地を取り上げられた家臣たちを新たな領地獲得へと駆り立て、その先には「唐入り」、つまり中国へ侵攻しそこを新たな領地として家臣たちに与えるという構想だ。それにはかなりの抵抗が予想されるので、予め障害を取り除いておこうと考えた信長は徳川家康を本能寺に呼び出し、明智光秀に暗殺させようと計画していた。命令された光秀が家康と通じて信長を討ち、その後に家康と同盟しながら明智政権を目論んだというのが「本能寺の変」の真実だという。
確かに本能寺での信長警備があまりに薄かったとか、用心深い家康が僅か34名の家臣を連れて京都に向かったといった理由が、これだと説明がつく。
光秀/家康連合に組していた細川幽斎が裏切って羽柴秀吉に密告したため、秀吉の「大返し」が容易に成功したという説も説得力を持つ。本能寺の変の後に家康が少数の手勢で大阪から岡崎に無事に帰還できた「伊賀越え」も、予め準備していたからという主張も納得できる。
信長が果たせなかった「唐入り」を秀吉が継承し、彼らの失敗を教訓に家康は「唐入り」をやめ「改易」を選んだのだという。
いずれも当時の資料と突き合わせた推論であることは評価できる。
ただ、光秀と同盟したとされる大名が誰一人として戦闘に加勢しなかったので本能寺の変が光秀の単独行動に終わってしまった事や、あの慎重な家康が果たして光秀と連合という賭けに出ただろうかといった、大きな疑問が残る。
有力な説ではあるが、本能寺の変に関する解釈の一つと考えた方が良さそうだ。
より詳しく知りたい方は著作をどうぞ。

従来知られている「本能寺の変」の「定説」について、著者によれば事件4か月後に秀吉が口述筆記させた『惟任退治記』に書かれたものが基になっているという。「惟任(これとう)」とは光秀の別名で、この書では秀吉が望んだ本能寺の変の「真相」の流布と、併せて信長から秀吉への政権移管の「正統性」を天下に知らしめる事を目的としていた。当然の事ながら秀吉について不利な内容には一切触れず、信長や光秀の欠点については大袈裟に書かれている。これを種本として江戸時代に書かれたのが各種「太閤記」で、内容はフィクションだ。しかしこれに尾ひれをつけた軍記物や講談、そして戦前の尋常小学校の教科書にまでこの「定説」が掲載され国民に教育されてきた。秀吉の「唐入り」が軍部の「中国への侵攻」政策と結び付き利用されたのだ。
かくして聖域となった定説は吉川英治ら国民的人気作家の著作によって拡大再生産され、いよいよ権威が増してゆく。

さらに後押ししてきたのはNHK大河ドラマだろう。秀吉、信長、家康とその周辺を描いた作品は数知れず、その多くに本能寺の変のシーンが出てくるが(現在放映中の「真田丸」にもあった)、内容はいずれも「定説」に基づいたものだ。もちろんドラマはフィクションだが、視聴者の中には歴史的事実と受け止めている人もいるのではあるまいか。「定説」の国民的普及に一役かっている。
これが「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」、「大岡越前」なら実在の人物を扱っていてもフィクションだと誰もが分かるのだが、大河ドラマとなると事実と混同されてしまう可能性がある。
これは何も「太閤記」に限った事ではなく、「赤穂事件」はフィクションの「忠臣蔵」として独り歩きしている。
通常のドラマでは終りに「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」というテロップが流されるが、なぜか時代劇には流されない。
NHK大河ドラマにも「この物語はフィクションであり・・・」のテロップは必要ではあるまいか。

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2015/01/11

スターリン粛清の背景をえぐる『スターリン秘史』

不破哲三(著)『スターリン秘史―巨悪の成立と展開〈1〉統一戦線・大テロル』(新日本出版社 2014/11/1初版)
Photoこの本のサブタイトルに「巨悪」とあるが、まさしくスターリンはその綽名にふさわしい人物だ。
彼が行った「粛清」や「独ソ戦」「ヤルタ協定」などを中心とした書籍は数多く出版されていて、その何点かは読んでいる。いずれも優れた著作ではあったが、スターリンの粛清と彼の外交政策との関連にもうひとつ納得のいく説明に当たらなかった。
本書に着目したのは、スターリンの粛清(本書では「大テロル」)と彼の内政及び外交政策が表裏一体のものだという論旨に魅かれたからだ。
著者はスターリのソ連共産党の大会や中央委員会などでの発言、盟友でありコミンテルンの書記長でもあったディミトロフの日記、当時の裁判記録、1956年のフルシチョフによるスターリン批判の秘密演説などの資料を丹念にあさり、スターリンの悪行の全貌に迫っている。

本書の前半ではドイツにおけるナチスの権力奪取までの過程が記述されている。当時のドイツでは社会民主党と共産党の議席を合せればナチス党を上回り過半数に達していたにもかかわらず、なぜ易々とヒトラー独裁体制を敷かれてしまったのか。その要因のひとつとして、当時のコミンテルンが社会民主主義を社会ファシストとよんで、彼らに主要な打撃を与えることを最大任務にしていたという事情があった。もちろん、この理論はスターリンが主導したものだ。スターリンはドイツでの事態を目の当たりにして自らの主張を手直しするため、ナチスに国会放火事件の主犯として逮捕され、裁判で無罪を勝ち取ったディミトロフをモスクワに招き、コミンテルンの書記長に据える。ここまでが1920年代後半から1930年代の前半にかけての時期にあたる。
1935年に開かれたコミンテルン第7回大会では、初めて反ファシズム統一戦線のスローガンが掲げられ新しい路線へと転換していく。

しかし、大会準備の真っ最中の1934年に、ソ連共産党の最高幹部の一人であったキーロフが暗殺されるという事件が起きる。この事件は今日ではスターリンが仕組んだ謀略であることがはっきりしているが、これがその後の「大テロル」の引き金になってゆく。スターリンは事件を理由にして直ちに次の非常措置を発令する。
1、テロリスト事件の取り調べは10日以内に終了すること
2、審理は原告、被告抜きに行うこと
3、控訴や恩赦の嘆願は許されない
4、銃殺刑判決は宣告後ただちに執行すること
これが1938年まで続けられ、大テロルに発展してゆく。
スターリンはソ連の周囲は敵国に囲まれていて、ソ連の社会主義が発展すればするほど反革命の陰謀も増大するという理論を打ち出す。とにかく怪しいと思われる人間は片っ端から捕まえて処刑していくわけで、理由は何とでもつけられる。
尋問にあたっては法は完全に無視され、密告、脅迫、説得、取り引き(刑を軽くする代わりに仲間の名前を言わせる)、肉体的虐待などの不法手段が利用された。
この結果、1934年のソ連共産党17回大会で選出された中央委員ら139名のうち70%が処刑され、大会代議員1008人のうち過半数が処刑。これが各地方組織にまで及んでいた。大テロルは文化芸術の分野から自然科学の分野にまでにも及び、特筆すべきは軍もまた例外ではなかった。
元帥は5人のうち3人、軍司令官は16人中15人、軍団司令官は67人中60人、師団司令官は199人中136人が処刑された。つまりスターリンは赤軍中枢部を壊滅させてしまった。この事が後の独ソ戦でソ連軍が思わぬ敗北を喫する要因ともなるのだが。

大テロルの対象はソ連国内にとどまらない。コミンテルンの役員や職員、海外からの亡命者、海外で活動していた共産主義者にまで及んでいく。特にポーランド共産党が狙い撃ちされ、推定では1万人近い人たちが犠牲になりポーランドの党は壊滅する。他にはバルト3国の共産党も大きな打撃を受け、やはり壊滅状態になる。日本人関係者からも3名の犠牲が出ている。
数十万、あるいは数百万人ともいわれる多大な犠牲者を出した「大テロル」だが、1938年11月にスターリンによる一片の指示で終結する。
これら一連の大テロルは、スターリンの指揮のもとNKVD(内務人民委員会)という組織が執行していたが、終結と共にNKVDの責任者らも逮捕され銃殺されてしまう。明らかな口封じである。

なぜスターリンはこれほどの大テロルを行ったのだろうか。著者はその理由の第一として「世代の絶滅」をあげている。
レーニンの死後、スターリンが党の中心となって行くのだが、必ずしも彼の思い通りには運んでいなかった。例えばスターリンは国内政策において重工業発展を優先させ、そのために農業の集団化を強行し農民からの収奪でその原資を確保するという方針を打ち出したが、中央委員会では反対の意見が強かった。
このようにレーニン時代からの幹部が残っているうちは自分の自由にならない。場合によっては自分に対抗するような動きも出かねない。そのためにレーニン世代を一掃し、幹部は全てスターリンの息のかかった人間に置き換えるというものだ。
これを端的に表しているのが大テロル終結の翌年に開かれた第18回党大会の代議員の構成で、1570名の代議員のうち革命前に入党した人はわずか2%になっていた。

もう一つの理由として著者があげているのが、スターリンの大国主義、覇権主義との関係だ。
スターリンは予てからツァーリの時代は何一つ良いことはなかったが、たった一つ良かったのはツァーリによるロシアの領土拡張で、我々はその遺産を受け継いでいかねばならないとしていた。
当時のロシアの領土は革命前に比べ狭くなっていて、スターリンは何とかこれを前の状態に戻したいと欲していた。具体的にはポーランド東部とバルト三国の併合である。
そう考えると大テロルに乗じて、ポーランドとバルト三国の共産党を壊滅させた理由がよく分かる。併合には彼らは邪魔な存在だったからだ。
この後、スターリンは1939年になって「反ファシズム」の旗を投げ捨ててヒトラーと手を結び、ヨーロッパの領土分割を密約した独ソ不可侵条約を締結して目的を果たそうとする。この条約に関してスターリンは一言も党の機関や政府に諮ることなく独断で行ってしまう。彼の中では大テロルは思い通りの効果をあげていたのだ。

フルシチョフのスターリン批判以後、現在に至るまでスターリンについては批判が尽くされている様に見えるが、彼の大国主義、覇権主義に関してはいまだにロシアはその尾を引きずっている。
秘密警察の親玉が大統領に就いているロシアの現状を見るとき、未だスターリン思想は完全には克服されていないように思える。

本書は類書に比べ、さらに踏み込んだスターリン批判の書となっており、読みごたえがあった。
なお『スターリン秘史』はこの1巻に続き、全6巻まで刊行される予定のようだ。全て読み切るかどうかは迷う所ではあるけど。

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